コラム物語論。フィクション化による問題提起と救い。

世界は救いを求めているのか?

いつの時代も救いの無い事件は起きる。

ニュースを見ていれば、現実は憤る事件で溢れかえっている。

その中で、少し前に特殊な児童虐待事件があった。

母親の連れ子を養父が虐待、母親が放置と言うやつだ。

この事件が特殊になったのは、警察とメディアの報道の仕方にあった。

虐待をしている親に向けた、虐待をされた児童による謝罪ノートが見つかり、警察が内容を発表したのだ。

それを、連日ニュースにワイドショーに全国放送され、日本中が胸を痛めた。

この事件が他と違うのは、亡くなられた事件の被害者の遺した生の訴えが生々しくも電波に乗って全国放送された事であった。

これによって、多くの人の中で被害者は、もはや知らない他人ではなくなった。

虐待をされても両親の愛を一心に求めた少女一個人として届けられ、多くの人にとって他人事では無くなったのだ。

だが、これは特殊なケースだ。

多くの場合、事件が起きて悲劇が起きても、当事者以外にとっては他人事でしかない。

他人事であればあるほど、悲劇は数字として消費され終わる。

悲劇が起きた原因や、抱えた問題に向き合う事は難しい。

当事者でさえ難しいのだから、他人が関わるのはなおさらである。

解決困難な問題と向き合うと、人は思考停止に陥る。

しかし、悲劇が起きていい訳はなく、問題を放置していい道理はない。

世界は救いを間違いなく求めている。

でも、問題は困難で、一人では到底解決出来ない事ばかりだ。

問題に関わる社会に属する全ての人が、問題に向き合わなければならない。

では、大勢が問題に向き合うには、どうすれば良いのだろうか?

フィクションは問題を提示する

「万引き家族」と言う映画がカンヌ国際映画祭でパルムドールと言う最高賞を獲得した。

この作品を見て、または存在を知って拒否感を示す人がいる事がTwitterで話題になった。

なぜ、そんな拒絶反応が起きるのか、その大きな理由は正に問題提示にある。

社会のセーフティネットから零れ落ちた人達の絆を描く本作は、モチーフとなった国、つまり日本の抱える問題をフィクションとして提示している。

これは、日本に住んでいれば逃げられない現実の問題提示であり、問題を認めない人や、向き合いたくない人からすると不快にうつるだろう。

だが、起きる反発も含めて「万引き家族」は問題提示に成功し、見る者に考える機会の切欠を与えている。

それに加え、映画内で描かれる救いの提示に大きな意味がある。

劇中、虐待された少女が親にベランダへ出される描写がある。

先に触れた実際の虐待事件とは何ら関係無いが、パターン化された社会問題が出てきて、劇中では主人公が見かねて親に無許可で勝手に引き取って養い始める。

極貧なのにだ。

法律で考えれば誘拐の時点でアウトだし、提案される救い方としては、もっと良い方法があるだろうと見る人は思う筈だ。

つまり、劇中に提示される「救い」でフィクションの少女は一時的にでも救われ、更にパターン化された児童虐待と言う問題に対して観客は考える機会を持つ事になる。

深く考える人は殆どいなくても、大勢が一つの問題に対して向き合っている状況はフィクションの力に他ならない。

フィクションは嘘と考える人もいるが、物語が現実ではない事と、物語で描かれる問題が現実と関係が無い事は、イコールではないのだ。

フィクション化の注意点

フィクションと言っても、この世に元が無いフィクションは存在しない。

ファンタジーやサイエンスフィクションでも、必ずベースやモチーフがある。

上記の様に事件や社会問題をベースにする場合、フィクション化には注意点がある。

事実をベースにする場合、当事者でさえ膨大な情報を集めない事には、下手なフィクション化は控えた方が良い。

純粋に問題を提示する目的だとしても、ベースが明らかに分かる状態でフィクション化した後で、調査不足等から事実と違う部分が出てくると、問題提起の前提が崩れる事があるばかりか、間接的な加害者になりかねないのだ。

例えば、実際の事件をベースに映画を作ったあとで、真犯人が別にいる事が現実で分かったら、その瞬間に問題提起はベースの事件からは切り離されてしまう。

モチーフにしただけの映画になってしまうのだ。

なので、実際の事件は、フィクション化をするには、過去の事実や歴史の一部になるまでは手を出しづらい側面がある。

そしてもう一つは、当事者以外が被害者がいる事件で金を稼いだり名声を得る事を快く思わない人がいつの時代にもいる事だ。

だが、ドキュメンタリーにしても実話をベースにした物語にしても、残し伝える事に意味がある事は明白であり、そう言った使命感を抱く創作者は、フィクション化の注意点には敏感な傾向があり、快く思わない人達が危惧するような事は、そうそう起こるものではない。

当事者によるフィクション化

編集者が悩める作家に捧げる助言で、お約束の文言がある。

作家の作品が、作家自身の問題を取り上げている場合だ。

「その時君は、なんて言って欲しかった?」

「過去の自分を救ってみたら?」

こういったアドバイスは、創作においてとても有効だ。

自分の問題をフィクション化して、過去の自分を救う事は、今の自分の救いにもなる。

さらに、同じ問題を抱えた人達が作品を共有した時にも、一つの救いとして大いに機能する。

フィクション化は、嘘をつく事ではなく、単純化や、問題解決の為の思考実験に近い。

だから、正しいフィクション化をされた作品には、リアリティがある。

当事者以外によるフィクション化と作法

これも最近の話だ。

Twitter上で、あれよあれよとアニメ化中止が決まってしまった作品があった。

「二度目の人生を異世界で」と言う、異世界転生ものの小説だ。

Twitter上の作者による過去のヘイト発言掘り起こしに端を発し、アニメの声優の降板等、何段階かステップを踏んでのアニメ中止に賛否両論だった様だが、それよりも驚いたのは、出版社側の原作小説の販売停止措置だ。

なんでも、内容に一定の国の人を不快にさせる描写がある事や、アニメ化中止のあおりを受けての決定らしい。

ネット上では、この事についても賛否両論で、かわいそうと考える人もいれば、しょうがないと考える人も見かけた。

かわいそうと考える人や擁護派は、主に表現の自由と、作者の人格と作品は切り離すべきと訴えていた。

一方、しょうがないと考える人は、出版社がリスクを抱えるぐらいなら切り捨てる対応をした事への、ある意味社会の冷徹な部分への理解等があった。

一時、日本が酷い目に遭う作品が日本では受け入れられていて、昔の日本は寛容だったみたいな流れもあったが、実際の所アニメ化中止と書籍の販売停止は適切だったのだろうか?

私的な見解では、アニメ化を考え直した判断は、商業的に考えても納得出来る。

小説の売り上げを伸ばす為に新規顧客を得たいのに、作品へのヘイトが集まっていては思い通りのプロモーションも出来ないだろう。

だが、原作小説までも闇に葬るのはどうかと思う。

一種の社会的タブーに触れていたのならまだしも、時代考証や設定がグズグズだったり、ご都合主義だったり、作者の偏った思想が溢れ出していたとしても、それを手に取るかどうかを選ぶのは読者である。

確かに、フィクション化には先に書いた注意点や、作法がある。

でも例えば、注意点も作法もなっていなければ、リアリティにも欠け、マナー違反の作品だとしてもだ。

即発売停止と言うのは、安全策だとしても社会として寛容さに欠けている。

それこそ、マナー違反と言う前提を武器に問題を提起して、同じ問題が他で起きないようにメタな問題解決の題材にするぐらいの余裕が、文化や社会に欲しいものである。

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