物語に必要な存在
「敵」と聞くと、何を想像するでしょう。
いえ、誰を想像するでしょうか?
また「好敵手」つまり「ライバル」と聞くと、誰を思い浮かべますか?
この記事では「敵」と「好敵手(ライバル)」の違いや、物語に置ける「悪」の定義について解説したいと思います。
ちゃんと考えた事が無いと、意外と悪い意味で適当な認識をしている事だと思います。
でも、あんまり適当だと、物語創作では、痛い目を見るポイントでもあるんです。
あいつは「敵」?それとも「好敵手」?
「敵」とは、辞書で調べれば
- 戦い・試合・競争の相手
等と説明され、一方で
「好敵手」とは、
- 実力に過不足の無い、丁度良い競争相手
とあります。
つまり「敵」とは、主人公の目的の前に立ちはだかる、全ての壁がある意味で敵と言う事で、その中で実力が拮抗している相手が「好敵手」と言うのが一般的な定義となります。
ですが、物語を創る上では、もう少し掘り下げた理解が必要になります。
物語の中の「敵」
物語に置いて「敵」とは、主人公の目的や目標の前に立ちはだかる「意思のある壁」です。
「敵」は、主人公の「夢や目標達成の邪魔をする」存在と言う事になります。
それは、つまり「敵」が見ているのは「主人公自身」であったり、その「夢や目標の失敗」を見ていると言う事になります。
物語の中の「好敵手」
物語に置いて「好敵手」とは、主人公と同じ目的や目標を持った「競う相手」となります。
「好敵手」は、主人公と「夢や目標を同じくしている」が、立場が違う存在と言う事になります。
それは、「好敵手」が見ているのは、あくまでも「自身の目的や目標」であり、主人公は偶然、同じ道を競う相手として遭遇したに過ぎないと言う事です。
「敵」は嫌われ「好敵手」は好かれる
「敵」の仕事は「邪魔」です。
スポーツの試合なら「卑怯な手を使う」奴が「敵」です。
「好敵手」の仕事は「競争」です。
スポーツの試合なら「正々堂々戦う」相手が「好敵手」になります。
主人公の「邪魔」をするので「敵」は、嫌われます。
一方で「正々堂々戦う」事で「好敵手」は、好かれます。
物語の定義では「敵」は「目的・目標到達への邪魔」をしないと「敵」ではありません。
また、「好敵手」は、実力の大きな不足は問題ですが、多い分には問題無く「目的・目標を同じにしている」事が重要になります。
良い例を示します。
ドラゴンボールのベジータです。
彼は、登場時は「敵」でした。
主人公である孫悟空の目的・目標「地球の平和」を壊しにやってきた訳ですからね。
ですが、ナメック星編になり「打倒フリーザ」と言う「共通の目的」が出来て、一時的に「仲間」になります。
フリーザを倒す事は、別に競っておらず、協力関係なので事実上の「仲間」です。
しかし、フリーザがスーパーサイヤ人になった孫悟空によって倒されると、ベジータの目標がスーパーサイヤ人にあった事が分かり、以降のベジータは孫悟空を超える事を目標に生きる事になります。
ベジータは、孫悟空を倒す事ではなく、孫悟空を超える事、つまり「正々堂々戦って勝つ」事が目標に切り替わる事で、初めて「好敵手」になる訳です。
もしも孫悟空を超える事ではなく、孫悟空を倒す事を目標にして、手段を問わずに襲ってきたら「敵」へと切り替わってしまいます。
それが、魔人ブウ編のバビディによるドーピングでした。
埋まらない孫悟空との実力差に焦り、ベジータは道を踏み外した訳です。
ここで面白いのは、「好敵手」になった段階では、ベジータが追う側と言う所でしょう。
大抵の物語では、主人公が追う側ですからね。
ですが、ドラゴンボールではベジータに描写が割かれており、負う側のライバルとして魅力たっぷりに描かれています。
他には、ベルセルクのゾッドや、HUNTER×HUNTERのヒソカも好敵手として人気ですね。
どちらも癖のあるキャラクターですが、共通している事は「主人公の邪魔」を自分の意思ではせず「主人公と正々堂々戦いたい」と言うスタンスを守り続けている事にあります。
だから、端から見ると凶悪な相手なのに、主人公からすると「好敵手」なので、好き嫌いはともかく「良い関係」が築かれ、読者からは好かれるのです。
「敵」は「悪」なのか?
「敵」は「邪魔」を、「好敵手」は「競争」をする事が分かりました。
では、主人公の「邪魔」をする「敵」とは、悪なのでしょうか?
答えは「そうとは限らない」と言う事になります。
煮え切らない答えですが、主人公の「邪魔」をするからと言って「敵」が「悪」とは限りません。
主人公が「悪」の場合
主人公自身が犯罪者である場合、その邪魔をする者は、刑事であったりと必ずしも「悪」とは限りません。
主人公の目的・目標の邪魔をするからと言って、そこに善悪は関係無いのです。
主人公を想っての「邪魔」
主人公からすれば迷惑な話ですが、主人公を気遣っての邪魔と言う物も存在します。
人は時に善意故に、妨害を働くのです。
じゃあ「悪」って、なに?
悪とは、辞書等で調べると
- 人道を外れた行い
等と説明されていますが、これも「敵」と「好敵手」の様に、物語創作の上で、もう少し掘り下げた認識が必要になります。
物語の中の「悪」
物語に置いて悪とは、「自分の為に、同意無く、奪う」事です。
物、時間、命、自由、意思、意見、権利、あらゆるモノ・コトに適応されます。
人道を外れていても、それが「自分の為」では無かったり、「同意」があったり、「奪う」に当てはまらなければ、それは純粋な「悪」ではありません。
逆に、人道的に見えても「自分の為に、同意無く、奪う」行為をすれば、それは「悪」の範疇です。
「悪」とは魅惑的かつ、不愉快な存在
悪とは「自分の為」つまり「自己中心的」な考えで行動する必要があります。
自分の思い通りになったら、きっと、嬉しいし、楽しいですよね?
物語の中の「悪」とは、そう言った願望が叶った姿を見せてくれる存在でもあります。
特に、有能な「悪」は、周囲を導く力があります。
だからジョジョのディオは、悪のカリスマとして愛されているのです。
次に「悪」は、「同意」を求めて来ません。
自分の考えを「押し付ける」のが「悪」だからです。
同意を求めないので、説明なんて気の利いた事はしてくれません。
これは、悪に仕える人にとっては、言われた事をすれば良いし、悪と敵対する人にとっては迷惑な事です。
ちなみに、「説明責任を果たさない」事が不愉快なのは「悪」の範疇にあるからです。
実際の謝罪会見を見ても、失敗したから謝っているのは「至らなさ」つまり「欠点」の範囲ですが、会見での「説明放棄」は「悪」とみなされて叩かれます。
悪い事をした謝罪会見であれば「説明放棄」なんてすれば、大炎上間違いなしです。
逆に、トレンドにもなっていましたが、嵐の活動休止会見は、完璧でした。
「自分以外の為に、同意を取り、他者に与える」と言う、スタンスは「正義」そのものです。
さすが国民的アイドルグループと言った貫禄がありましたね。
最後に「奪う」ですが、これも分かり易いですね。
他者からしか「奪う」事は出来ません。
つまり、他者から搾取したり、盗む事に他ならない行為です。
人が持っている良いモノが欲しくなる時って、ありますよね。
普通は、買ったり、交換したり、譲って貰ったり、合意の上で「価値交換」を行う事が当たり前です。
それを、奪う行為は、してはいけないと分かっていても、刺激的な事と言う事も分かると思います。
自分は損せずに、得だけをする。
拾った宝くじが当たったり、財布を拾ったら、魔が差す人もいると思います。
それを他者相手にやるのが、「奪う」と言う事です。
この行為は、相手の事を考えていると出来ません。
「悪」=「自己中心的思考」
気付いたかもしれませんが、「悪」と「自己中」は同義です。
「自分の為に、同意無く、奪う」と言う三要素が揃ってしまったら、しっかり「悪」です。
「自分の為に」は動機はです。
動機が自分に向いていれば、周囲にとっては不愉快な存在になります。
動機が他者に向いていれば、周囲にとって不快さは軽減されていきます。
よくある事件で「遊ぶ金が欲しくて強盗殺人をした」と言うのがあります。
これは、救い様の無い「悪」ですが、動機が他人の為になると、印象は変わります。
「病気の娘の治療費の為に強盗殺人をした」だった場合、ただのクズでは無いのかもしれない余地が残されます。
「同意無く」は平等性です。
自分と相手を平等と考えていれば、同意が必要な事は分かると思います。
相手を上と考えていれば、なおさらです。
「同意無く」とは、相手を下に見ていないと出来ない行為なのです。
地位が高い人の会見で説明責任が果たされない大きな要因は「自分を上だと勘違いしている」事が大きいです。
無意識に、あるいは意識的に相手を下だと思っているから、尊大な態度や説明放棄が出来る訳です。
「奪う」は行動です。
人は、成長や変化をします。
物語で無くとも、人は変わり、より良くなろうとします。
そこで、「悪」は他者から「奪う」と言う行動で楽をして変わろうとする訳です。
奪われた相手は、当然大きな損失を負い、成長を阻害されてしまいます。
「悪」は肥え太りますが、それ以外は損をするのが「奪う」と言う行為です。
以上の「動機・平等性・行動」が「自己中心的」な存在が「悪」の正体です。
よく見る失敗
主人公やヒロインを「自己中」にしてしまい、『カワイイ・カッコイイし、頭も良いし、仲間もいる。動機もあって、葛藤しながら行動している。なのに人気が出ない!』と物語のアドバイスを求めて来る人が、かなりの数います。
プロアマ関係無く、相当数の人が同じ悩みで相談に来ます。
問題は「自己中」と言う一点である事が、本当に良くあります。
色々ありますが、恋愛物の場合で例えてみましょう。
主人公でもヒロインでも良いです。
見た目は麗しく、頭も良く、友達もいる。
意中の相手がいて、どうにか恋人関係になりたいと行動を起こそうとしている。
良くありますね。
ここまでなら、確かに嫌われる要素はありません。
ですが、相談に来る人の登場人物達は、ここからが「自己中」なんです。
良くあるパターン1
- 一方的な片思いのまま、想いだけ大きくなって物語が進んでいく
無自覚なストーカーパターンです。
作者が自覚して、その登場人物を「ストーカーっぽい不器用なだけ」と動かしていれば問題無いんですが、天然でストーカー案件をストーカー目線で見るのは、恋愛モノと言うよりは、サスペンスに近い読み味になる時さえあります。
良くあるパターン2
- 恋人が、相手に対して自分が欲しい物を要求し続ける
無自覚なパワハラパターンです。
カワイイキャラクターが「おねだり」すれば可愛くなりそうですよね。
ですが、与えても与えても求められ続け、感謝も無いと、物語の中の事なのに読んでいてしっかりと不快になります。
凄い時は、キャラクター同士が相手に要求し続け、どうして二人が好き合っていたのか分からなくなる事さえあります。
自己中でも愛される?
一見、自己中なのに愛されるキャラクターもいます。
ただし、自己中の様に振舞いながらも、他者の事を考えている場合に、初めて愛される訳ですが。
例えば、涼宮ハルヒの憂鬱のハルヒは、傍若無人なキャラクターです。
ですが、一見、自己中な彼女は実は、語り部であるキョンの事が好きで気遣っていたり、面倒見が良かったり、率先して自分が動いたり、仲間の事を第一に考えているからこそ、愛されている訳です。
これは、傍若無人と言う要素の持つ「自己中」と言う欠点を弱める要素を与えられ、周囲を引っ張ってくれると言う利点を残したキャラクターデザインだから愛されているのです。
むしろ、自己中の部分は不愉快に感じる人の方が多いと思います。
自己中でも魅力的なキャラクターは、自己中ではない要素を必ず持っていて、その要素によって愛されるのです。
ただの自己中は、求めるだけで、愛を得る事は出来ません。
与えるから、与えられるのです。
終わりに
「敵」は「邪魔」を、「好敵手」は「競争」を。
「悪」は「自分の為に、同意無く、他者から奪う」。
逆説的に「正義」は「他人の為に、同意を持って、他者に与える」。
これらを上手く組み合わせて、物語に魅力的な登場人物を出しましょう。
この記事が、物語創作の助けになればと思います。
“【なるほど】「敵」と「好敵手」の差とは?「敵」は「悪」なの?” への1件の返信