【たられば添削】「ケムリクサ」と戦って「けものフレンズ2」は、どうすれば良かったのか?

「けものフレンズ」と「けものフレンズ2」と「ケムリクサ」

ケムリクサの11話放映直後。

Amazonの売れ筋ランキングでBlu-ray上・中・下巻が、それぞれ1・2・3位を独占するという現象が起きた。

アニメーション作品の視聴方法の多様化、シーズン毎のアニメ本数の多さ、様々な要因によって映像ソフトを売る事自体が難しくなっている昨今、何があったのか?

※この記事は、ネタバレを含みます。

単純に、ケムリクサが「とても面白かった」のだ。

特に、11話の「伏線回収」や「謎解明の始まり」と言う重要なエピソードの、その衝撃の大きさに、キャラクター達の旅路を見守っていた視聴者は、購買行動を起こした訳だ。

ケムリクサの快挙は、何を示しているのか?

製作会社の大きさも、大金をかけたプロモーションも、タイトルの大きさも、あくまでも作品制作や、作品の認知に繋がる優位性の獲得にはなるが、それ以上の意味は無い事実を示したと言って良い。

これは、CGやSNSが当たり前にある時代だから出来た事だろう。

クリエイターや視聴者、それぞれの個人の力が強くなっている証拠と言って良い。

たつき監督や、監督を信じて応援してきた人達が報われた瞬間でもあった。

クリエイターとコンテンツの力が純粋に評価される、ある種の性善説的な市場原理が証明された結果、ケムリクサは認められたのだ。

「けものフレンズ」と「ケムリクサ」

知らない人のために一応触れておくと、「ケムリクサ」のたつき監督は、「けものフレンズ」一期の監督を担当し、一期終了後に降板され、ファンの間で騒動になったと言う人物である。

けものフレンズ一期は、放映当時は異常とも言えるブームを起こし、ゴールデンタイムのテレビにも声優ユニットが歌や踊りを披露する為に出演したり等あったので、幅広い層が知っているだろう。

その立役者を降板するという判断にファンは反発したのだが、反発も空しく、監督が「けものフレンズ2」に起用される事はなかった。

だからこそ、不満を持ったファンはたつき監督を応援し、けものフレンズ2に対して「アンチ」と呼ばれる行動を起こす者も現れた。

その、けものフレンズ一期だが、当時から「どうして面白いのか分からない」と言われる事もあり、考察や分析をする人が後を絶たなかった。

見た目には「緩めの基本設定」や「優しすぎる世界」と、一見「子供向け」に見える作りであるが、継続して見ていくと「ポストアポカリプス後の世界」っぽい設定や「セルリアン」と言う敵の存在が明らかになり、そこはかとなく「不穏な空気」が漂っていた。

キャラクター達が明るく、仲間想いな為、暗くなる事はないが、どう見ても「世界は何かがあった後」なのだ。

しかし、登場人物にとって当たり前の世界として処理されるジャパリパークと言う「管理する人間のいないサファリパーク」と言う異様な舞台装置を「ちゃんと説明できるキャラクターを出さない」事で、フレンズと呼ばれる美少女キャラクターが平和に暮らしている世界として表面的な説明だけにとどめ、視聴者には「そんな訳がない」と推測させる事で「気になる」と言う精神状態を維持し、物語に引き込むのが、けものフレンズ一期の視聴継続に繋げる戦略の一つでもあった。

この手法は、他の作品を後述するが「ケムリクサ」でも使われている。

と言うよりは、物語の構造的に見れば「けものフレンズ」と「ケムリクサ」は、全く同じである。

「記憶の無い主人公」「不穏な世界に溶け込んだ、特別な力を持つ現地人」「似た性質を持つ謎の敵」「後に世界の秘密に触れる事になる旅」「実は重要な立場の主人公」共通点を挙げればキリがないが、共通点があるのは当たり前で、本当に同じ構造の物語なのだ。

これは、同じ監督だからと言うのもあるだろう。

デジモンで有名になった細田監督の「ぼくらのウォーゲーム」と「サマーウォーズ」は、やはり全く同じ構造で、他にも得意ジャンルのある監督は沢山いる。

監督によって、それぞれ得意なジャンルや物語構造があると言う事だ。

つまり、2010年から2012年に制作された「ケムリクサ」のプロトタイプと言える映像作品から既に、この物語構造の構想があったとして(恐らくあっただろう)、たつき監督は2017年の「けものフレンズ」を監督するにあたって、どうとでも料理の出来るコンテンツに対して、そもそも自分の得意な物語構造を当てはめ、見事にヒットさせたと考えられる。

たつき監督は、得意な物語構造を駆使し、「けものフレンズ」と「ケムリクサ」で、二度も見事に視聴者を唸らせたのだ。

ここからは、けものフレンズ2の問題点に軽く触れていく。

まずは、

キャラクターへの愛が足りない問題

これは「けものフレンズ2」の中でも、目につく違和感だ。

  • 記憶の無いサーバルと再会してもリアクションが薄いカバンちゃん
  • 体を張って自分を守ったイエイヌを、スルーしてサーバルと話し込むキュルルちゃん
  • 恐らく誰も帰ってこない家で主人を待つと、別れようと身を引いたイエイヌを家に帰すキュルルちゃん
  • 孤独なリョコウバトにキュルルちゃんが思い出に絵を求められた時「ボクの友達をいっぱい描いたから、これを持っていれば寂しくないよね(要約)」とリョコウバトからすると面識もない自分の友達の絵を大量に描いて渡す。

言い出すとキリがないが、キャラクターに自然な意思が無く「物語の為に都合良く動かされている人形に見える」シーンが非常に多い。

視点をキャラクターに変えれば、カバンちゃんはサーバルちゃんとの再会を喜んで当然だし、記憶喪失を悲しんで当然だ。

イエイヌがボロボロになって守ってくれれば、心配し、労い、感謝して当然だし、帰らぬ主人を共に探そうと旅に誘っても罰は当たらない。

リョコウバトに絵を求められたら、その場にいるメンバーだけ描いて「一緒に泊まったホテルでの思い出」とか、旅先の写真の様にした方が……

こういった「このキャラクターなら当然、こうする」と言う視聴者が期待する行動が、悪い方向にことごとく裏切られるのを見ると「キャラクター崩壊」か、悪いと「キュルルちゃんサイコパス気質?」と言うマイナスのイメージ定着しかねない。

これは、作品としては、非常に損である。

納得性が低いと、リアリティが足りないとSNSでは騒がれるし、これが描きたいリアルなんだと皮肉られたりもする。

どれも、表現を気を付けたり、理由付けをするだけで回避できる問題だけに、もったいない。

設定への愛が足りない問題

「けものフレンズ2」は、明らかにたつき監督の残した設定を使って構築された世界なのだが、その設定に独自の解釈を加えている。

サンドスターに生物が触れるとフレンズ化、無機物が触れるとセルリアン化するという設定だったのを、セルリアンは工業製品や絵に描いてある物も真似る事が出来る存在になり、更にビーストと言うセルリアン化?した様なフレンズが現れ、一期まで存在していた設定の一貫性が崩壊してしまった。

設定の追加までは「料理の腕次第」としても、ラッキービーストが存在する世界で敵にもビーストって名付ける安直さは、せめて、もう少し離した単語をセレクトしてもらいたい。

前作からの空白期間の設定があるのかさえ不安なカバンちゃんと博士と助手や、サーバルちゃんとの再会等も、見ていて不安になる。

何が不安って、納得できる設定があるのか不安になる。

いくらでも面白く出来そうな設定を、変えるか、触るだけなのは、これも非常にもったいない。

変えて良いモノ、悪いモノ

監督の木村及び脚本のますもとは、第2期は初めから独自のテーマを描いているといい、「人間にとって家とは何なのか」「ヒトが持つ社会性」がテーマになっていると話している。

インタビュー引用

と、木村監督と脚本のますもとさんは「けものフレンズ2」について語っているが、完全な別作品なら良いが「2」で主人公やテーマを悪戯に変える時点で「自殺行為」と言う事に気づけなかったのも問題の一つだろう。

このブログでは、例で良く出てくる「Fateシリーズ」は、それぞれの派生タイトル毎に物語構造は同じか、かなり似たものを採用している良い例だ。

「stay night」と「ZERO」は特に近いが、これは「stay night」と言う「1」を原作とした流れを汲む「0」と言う過去話のナンバリングタイトルを扱うには「物語の構造は同じ方が良い」事を、脚本の虚淵さんが理解している事で計算された採用がされている。

キャラクターも主人公なら「シロウ」と「キリツグ」等、別キャラクターでありながら、メインキャラクター達は次の世代に想いを繋げる事で「stay night」のメインキャラクターは「ZERO」から聖杯戦争のバトンを受け継いでいる仕掛けにしている。

キャラクターは変わっても、主人公は「正義の味方になりたい」と言う芯が変わっておらず、ヒロインは「過去をやり直したい」と言う想いのままだ。

キャラクターは変わっているが、テーマ等の大事な所は変わっておらず、変更点は、偶然似ているとか、意識して似せているのではなく、高度な計算によってロジカルに行われている。

けものフレンズも「2」を名乗るなら「何らかの謎を解き明かす」等のバトンを、キュルルちゃんがカバンちゃんから受け取っていれば、それだけで、まだ結果は違った筈である。

「けものフレンズ2」最大の失敗

けものフレンズ2は、控え目に言っても「あまり面白くない」。

2019年3月12日にニコニコ生放送で配信された第9話のアンケートにおいて「とても良かった」が3%となり、公式アニメ配信でのワースト2位を記録したのは記憶に新しい(悪名高いイエイヌ回の数字である事を断っておく。カバンちゃん登場回は期待値の分、好意的だった)。

あれだけブームを巻き起こしていた「けものフレンズ1期」の続編なのに「どうしてこうなった?」と思った人は、多いだろう。

ここまで見て来た問題点を一発で解決する方法がある。

そう、たつき監督が関わっていれば、こんな事にはならなかった。

なので、当然たつき監督降板が最大の原因と、考える人も多いだろう。

だが、待って欲しい。

それは、まあ、間違いなく「最大の原因」ではあるのだが、たつき監督が不在でも、けものフレンズ2を面白くする事は「出来た筈」なのだ。

監督や脚本家が変わっても、ちゃんと面白い物語は存在する。

と言うのも、先の「けものフレンズ一期」と「ケムリクサ」の構造が同じと言う長々とした話のくだりは、意味もなく説明してた訳ではない。

けものフレンズ一期は、主人公である「カバンちゃん」の秘密こそ明かされたが、世界自体は「謎を残した状態」で物語を終えている。

つまり、けものフレンズ2は「2」を名乗る以上は「けものフレンズ1期」とも「ケムリクサ」とも同じ物語構造で「世界の謎の解明」の旅を続ければ良かった。

それだけの事なのだ。

それをするだけで、けものフレンズ2の評価は、ここまで下がる事は無かった。

ところが、裏で何があったのかは及び知らぬ所ではあるが、新キャラを出し、恐らくだが心機一転「リブート」しようとしたのだろう。

再始動を考えていたのに「カバンちゃん」と言う前作主人公を出し、物語構造が違う作品で中途半端に絡ませてしまった。

後で見せ場を作ればいいやと、狙ったファンサービスなのだろうが、一期から視聴している人には期待する分だけ物語が迷走して見えるし、二期から見ている人には良く分からないという切ない状態だ。

「カバンちゃん」と「サーバルちゃん」の旅を続けて「世界の秘密」にまで「ケムリクサ」みたいに繋げていれば、評価は全然違った筈である。

続編である以上、たつき監督の残した一期の遺産をフル活用しなければ「2」への期待に応えるのは、難易度が相当上がる事だけは間違いない。

しかし、たつき監督の敷いたレールを利用しようとしたのに、急に別の所に行こうとすれば脱線するのは当然である。

と言う訳で、けものフレンズ2がケムリクサと戦うには、「全くの別作品として再始動」するか、素直に「たつき監督の用意してくれたレールを進む」以外、実質無かったと言う事でした。

おまけ

後述すると書いた「けものフレンズ」「ケムリクサ」と同じ構造の物語紹介。

カテゴリー一覧には、そのうち追加予定だが、先に軽く触れておきます。

主人公は何者か?

成長の旅の中で謎を解く、このタイプの物語は「自分は何者か?」を探る事がポイントとなる。

同じ構造の作品は、

等がある。

名作RPGゼノギアスも、この物語構造。

どの物語も「危機が迫る世界」で「一見平凡な主人公」が「成長の旅」をする事で「自分の正体と使命」に気づき「危機に立ち向かう」物語だ。

平凡な主人公と最もギャップのある正体が望まれる物語構造なので、どの作品も主人公が実は、王族だったり、神や超越者になりがちだが、それが最高に気持ちの良いパターンでもある。

けものフレンズ2も、けものフレンズ一期の流れに乗っていればと考えてしまうと、勿体無く思えてきますよね(ね?)。

※この記事は、加筆・修正する予定です。

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“【たられば添削】「ケムリクサ」と戦って「けものフレンズ2」は、どうすれば良かったのか?” への10件の返信

  1. シナリオの製造法レベルで作品が違うのでたつき監督のレールに乗るのは旧来どおりのやり方では事実上不可能なんですよね…
    まんがでいうとデスノートのように絵で脚本を作っており、文字で書いてる限り再現不可能なのです。
    カット単位絵ならば伏線の絵を始めと後に挿入すれば伏線ができあがる。
    文字では書き直しになってしまい追加、削除が自由にできない。
    ケムリクサ11話のように10以上の伏線を回収できたのは絵でシナリオを作ってるからできたのです…

    1. コメントありがとうございます。

      意図をどこまで汲み取れているか不安ですが……

      旧来通りの手法では難しいと言うよりは、たつき監督の用いた手法が本来「基本通りの手法」であって、けもフレ2製作陣が「基本の手法に立ち戻る事が難しい」と言った解釈も出来るかと思いました。

      絵と文字での物語作りの差に関して、再現不可能は表現として断定し過ぎかと……

      コンテの様な視覚的媒体と、文字プロットや脚本と言った文字媒体では、表現方法が違う為、得意不得意が異なります。
      その上で、たつき監督の作る物語の伏線回収の見事さや、得意な物語構造の再利用と言う点に関しては、設計段階では絵・文字のどちらかに大きく依存した技術では無い為、作家性やクリエイターの色や癖と言うエッセンスを抜きに考えれば、絵・文字問わずに再現性は十分ある物と考えられます。

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