【勝手に】「未来のミライ」は、どうすれば良かったのか会議

どうして酷評されているのか?

先日、遅ればせながらレンタルで視聴しました。

と言うのも、「サマーウォーズ」の細田監督作品とは知っていたが、耳に入ってくる評判が芳しく無く、すぐに見に行こうと言う気が起きなかったからである。

結論として、私が観賞した感想としては「確かに、微妙に感じる」と言うのが、正直な所であった。

今回は、そんな「未来のミライ」について解説していきたい。

「未来のミライ」が抱える表現と構造の問題

視聴後にレビューサイトを幾つも巡り「あ、自分だけじゃないんだ」と思った感想の中で多かったのは「ミスキャスト」であった。

キャスティングのミスマッチ

主人公の「くんちゃん」の声優を務めた女優の声が「4歳男児に聞こえない」事で、作品に集中出来ない。

これは、私自身も感じたし、納得した部分でもあるので、キャスティングのミスについては、擁護のしようが無い。

キャストを見てみると、大半が実写作品や舞台の俳優を起用していて、アニメ映画として「アニメ声を避ける」だとか「話題作り」みたいな狙いがあったのかもしれないが、全体的に「声に吹替えとして、実写映画を見ている様な違和感がある」キャストが多く、この点は非常に損をしていると思って見ていた。

福山雅治や星野源と言った人気俳優の声優起用に私は、肯定的でも無ければ否定的でもない。

むしろ、視聴して欲しいターゲット層が好きな俳優の起用は、十分に有りだと思っている。

そういう意味で、幅広い層に人気の俳優に重要な役を任せるのは、戦略的にも良いのかもしれない。

だが、それは、声優を任された俳優が、違和感の無い仕事をする事が大前提となる。

そういう意味で、主人公の「くんちゃん」を演じた女優さんは、大前提を満たす事が出来ていなかった点で、演技力不足だったのかもしれない。

だが、キャスティングで責任を負うべきは、女優では無く、起用を決める制作サイドにあるので、その点で話題作りの為に「4歳男児」と言う高難易度の役に抜擢されてしまった女優さんを責める事は出来ない。

決して演技が下手な訳では無く「声が大人の女性にしか聞こえない」事が、違和感の大きな原因に思えたので、完全にキャスティングのミスだろう。

主人公「くんちゃん」や両親のリアル過ぎるキャラクター

見た人は分かると思うが、見ていない人の為に。

主人公の「くんちゃん」は、4歳の男の子で、年相応に甘えん坊で、我が儘だ。

まだ両親の愛を独占したい年齢で、ある日突然、妹の「ミライちゃん」が生まれた事を機に、両親から自分に向けられていた愛情を奪われたと感じ、癇癪を事あるごとに起こす様になる。

この「リアルな4歳児」の描写に、本作は「異様に気合が入っている」のだが、考えてみて欲しい。

愛情を独占したい「癇癪をおこす子供」って、見ていて楽しいだろうか?

この基本的な事実よりも、リアリティを優先した事で、前半は特に「くんちゃんによる不愉快なシーン」が延々と続く

そこまでは「リアルな4歳児」と言うキャラクターの土台なので、コンセプト上仕方がない。

問題なのは「くんちゃん」に「リアルな4歳児」以上のキャラクターが、あまり無い事である。

このせいで、視聴者はキャラクターと言うよりも「よその癇癪をおこす子供」を延々と見せられる苦行に、映画視聴を感じてしまう訳である。

要するに「くんちゃん」に魅力が無いのである。

これは両親のキャラクターも同様で、子育てに追われながら仕事もする「頑張っているが至らない所もあるリアルな夫婦」でこそあるが、それ以上では無く、魅力が無い。

一方で、くんちゃんの曾祖父は、やたらとキャラが立っていた。

戦時中には戦闘機のエンジンを作り、人間魚雷による特攻を生き残ったが足に大けがを負って後遺症で走れなくなった過去がある。

そんな過去を背負いながら、馬を乗りこなし、自作のオートバイに乗り、人見知りするくんちゃんに対して曾孫とは知らずに勇気を与える男前で、声が福山雅治なのだから、そりゃカッコいい。

他のキャラクターが「リアル」をベースに作られているのに、曾祖父のみ「悲劇と、それを乗り越えたカッコいいエピソード」で構成されている。

その結果、キャラクターの人気が曾祖父に集中しているのは仕方が無く、これは視聴者や観客が、細田監督のアニメ映画に対して、どんなキャラクターを求めていたのかと言う証明と、監督の作りたいものと、皆が見たいもののギャップを浮き彫りにしてしまったと考えて良いだろう。

観客は普通に、リアル(現実味)を求めているのではなく、リアリティ(納得感)のある魅力的なキャラクターを求めている訳だ。

物語の動機の弱さと、ギミックの曖昧さ

タイトルにある通り、未来からやってきた妹のミライちゃんを絡めたタイムスリップが、物語の根幹にある大事なギミックである。

このタイムスリップのギミックが「家の庭に出る」と「くんちゃん」にのみ発動する。

だが、最後に少しだけ説明がされるものの、映画を見るだけでは「推測は出来ても、良く分からない」と言う仕様で、不完全燃焼感が残る。

基本的に、

  • くんちゃんが癇癪をおこす
  • いじけて庭に出る
  • 癇癪をおこした事に対する教訓を与える為に未来の家族がやってきたり、過去の家族に会いに行くことになる
  • タイムスリップから帰ってくると、教訓から学び、少しだけ成長している

と言う繰り返しで、物語が進行する。

それ自体は、面白そうなのだが、考えてみて欲しい。

4歳児に教訓を与える為だけに、タイムスリップしてやってくる事のどこに、納得感があるだろうか?

正直言って、4歳児なんて至らず、自己中で、当たり前である。

くんちゃんが、過去や未来に行く事で、誰かを救う事も無ければ、仮に過去や未来に飛ばなくても、誰も困らない。

つまり「4歳児に教訓を与える」と言う「正直、どうでもいい」事の為だけにタイムマシンが使われ、結果、「4歳児」が少し成長する「だけ」の物語なのだ。

タイムスリップしてまで「くんちゃん」を変えようとやって来た「ミライちゃん」に、ビックリするぐらい明確な動機が見当たらず、物語を見ている人は「何を見せられているのだろう」と言う感想になる。

さらに、そのパターンを実現する為のタイムマシンと言うギミックが曖昧で、視聴者は置いてけぼりを食らう事になる。

  • 飼い犬「ゆっこ」の擬人化
  • くんちゃんの一時的な「ゆっこ」化
  • 現在のミライちゃんと未来のミライちゃんの連動
  • 過去に時代へ飛ばされる展開
  • 未来に飛ばされる展開

この辺のタイムマシンに関連していると思われる事件が、劇中では説明されず、起きた事実を通して「そういう世界」として視聴者を突き放す処理がされており「くんちゃんが見た不思議な夢」に思える時さえあるが「夢なら夢でいい」のに、最後に少しだけ「説明」が入る事で、これは「何らかのタイムマシン」であることが示唆され、余計に混乱を呼ぶと言う状況を作っているのである。

さらに、物語のクライマックスで、4歳児相手に「これが家族のルーツで、みんな繋がっている」と言う気付きを提示するが「4歳児に、それは難しくないか?」と言うのが私の本音である。

どうすれば良かったのか?

タイムスリップ物は、物語の構造的に数パターンしかなく、タイムスリップのパターンや世界設定のパターンで更に細分化される特徴がある。

あたりがスタンダードだ。

どちらにしても、欲しい要素として「くんちゃんがタイムスリップしなければ、解決できない問題」が欲しかった。

例えば、ミライちゃんには、手に痣があったり、お雛様をお父さんが出しっぱなしにする事で婚期が遅れる心配があったりと、中途半端な設定がある。

また、両親は事あるごとに小さな事で喧嘩をする。

こう言った要素が使える世界なのならば

  • くんちゃんがミライちゃんの助けで変わり、未来を変えないと、不幸な未来が待っている

と言う、いわゆる「ドラえもん」と同じ構造にしてしまうのが、非常に手っ取り早い。

両親が離婚すると、それが原因で何かが起きるでも良いし、くんちゃんがミライちゃんに対して酷い事をしてしまい、くんちゃんが以降の人生で重い十字架を背負って生きる事になる事をミライちゃんが食い止めるでも良い。

とにかく必要となるのは、ミライちゃんがタイムスリップをしてまでくんちゃんを、どうしても成長させなければいけない、そんな理由である。

おわりに

キャストに関しては、再アフレコでもすれば問題を取り除けるが、ストーリーに関しては、エンターテイメントとして見るなら大幅な手直しが必要だろう。

だが、待って欲しい。

細田監督は、そもそもエンタメ作品として、この物語をつくったのか?

どちらかと言えば、アート系の理屈よりも表現を優先させた作品に感じる部分がある。

つまり「未来のミライ」最大の失敗は、観客が勝手に「時をかける少女」や「サマーウォーズ」を監督のイメージから期待し、タイトルから「タイムスリップ物」を期待して見に来るにもかかわらず、内容が期待通りではなかったと言う、「売り出し方のギャップ」にあったように思えてならない。

興行的には、細田監督がこれまでに作り上げたブランドを利用しない手は無いのだろうが、絵柄や作風には細田節があっても、エンターテイメントとして見ると期待を大きく裏切る作りなのは、明白である。

しかし、観客を騙して興行的に上手くいかせるには、完成品がアート系に寄っていても、エンターテイメント系の様に見せかけて「サマーウォーズ」みたいに売るしかないと判断した人がいた筈である。

結果的に、その思惑は短期的に見れば上手くいき、作品は多くの人に見て貰えただろう。

だが、長期的に見ると、細田ブランドはエンターテイメントを求めていた大半のファンからすれば、大きく傷ついた風に思えるはずだ。

またエンターテイメント系映画として広告を出したとしても、アート系と見分けがつかない前例を作ってしまった今、アート系を求めていないファンは、信頼して見に行くことが出来ない。

「おおかみこどもの雨と雪」の時に、アート系寄りに傾倒しそうな片鱗は見えていたものの、ファンが見たかったのは「時をかける少女」や「サマーウォーズ」から動いていなかった。

「バケモノの子」で、エンターテイメント系寄りに戻って来た気もしたので、安心したファンも多かった風に思う。

つまり「未来のミライ」は、いつも通りの売り出し方によって、従来のファンとの信頼関係を破壊してしまった訳である。

では、どうすれば良かったか?

監督が作りたいアート系と、稼ぎ頭のエンターテイメント系の映画を分けて、ファンに見分けがつく様にすれば、それだけで「これじゃない」を減らす事が出来たのではないだろうか。

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