「差別をするキャラクター」は物語で重要と言う話

差別をコントロールしよう

差別と聞くと、多くの人が悪い印象を持つ。

きっとあなたも

  • 差別主義者
  • レイシスト
  • 偏見の塊

そんな、良くない印象を持つのでは無いだろうか?

 

なんて書くと「差別への差別だ」なんて言われかねないのは置いておく。

とにかく「君は、差別する人なんだね」と知人に言われて、大半の人は好い気がしないのは間違い無いだろう。

 

しかし「差別」それ自体は誰でも陥る可能性がある「状態」であり、物語においては重要な役割を担う物だ。

むしろ、物語の中で差別は、表現の一つとして大いに有用と言える。

有用だが、間違った使い方をすると、反感を買ったり誹りを受ける原因となる劇薬でもある。

今回は、そんな「差別」について解説する。

そもそも差別とは

差別とは文字通り「人や物の差を比べて、優劣や成否を付け別物として扱う行為」の事だ。

簡単に言うと「比較した片方を否定する行為」である。

人種差別なら、

  • A人種は歴史的に見て優秀だが、B人種は歴史的に見て劣っている。
  • A人種は遺伝的に見て優秀だが、B人種は遺伝的に見て劣っている。

と言った論法が良く見られる。

これは、当然ながら誤りであり、現代社会でこの論法を持ち出すのは悪である。

理由も明確にある。

  • 第一に「限られた物差し」で全てに優劣や成否を付ける事が不可能である事。
  • 第二に「グループ」と「個人」は比較対象として間違っている事。

 

一つ目、限られた物差しでの物事の判断は、その限られた物しかはかる事が出来ない。

人種差別に見られる「歴史」「文化」「見た目」等の要素で上下関係を作る事は、比較した一点ずつでしか優劣を決めるべきではなく、比較物や比較方法が適切かも重要になる。

多くの場合、悪い差別をしてしまう人は抽象的な一つで比べてから、それを全てに当てはめる。

更に、比較する物や比較方法さえも都合の良い物を選ぶ事で、自分が優位に思いたい物の優位性を高めようとする傾向にある。

 

二つ目、グループと個人の捻じれた比較問題。

これで良くあるのは、例えば、

  • 髪を染める人間は不真面目だ
  • 服を着崩す人間はだらしがない
  • 大学を出ていない人間は無能だ

等と言った、日本では一部今でも見られるような物に始まり、先に例えた人種問題と言った根深い所まで幅広く存在する。

この問題は「過去の経験や傾向から、グループの人間はそういう場合が多い」と言う思い込みと「グループに当てはまる個人」をイコールで考えると言う間違いから起きる。

グループのデータをどんなに正確に取ったとしても、それはグループのデータにしかならず、個人に当てはめる事は出来ない。

 

例えば、

「Aさんは悪人で60歳で死んだ」+「Bさんは善人で100歳で死んだ」=「人は善人ほど長生きする」とはならない。

純真無垢な0歳で死ぬ場合だってあるし、極悪人が125歳で死ぬ事だってある筈だ。

 

逆に、答えを簡単にして「人は必ず死ぬ」と言うぐらい単純な式で表す場合、それを差別に繋げる事は難しくなる。

誰にでも当てはまっては、差別出来ないからだ。

片方に偏って当てはまり、片方に偏って当てはまらないデータによって差別は作り出される。

 

差別したい人は、都合の悪いデータを無視して、平然と言うのだ。

「あの人は髪を染めているから不真面目だ」

「あの人は服装が乱れているから生活も乱れている」

「あの人は良い大学を出ていないから使えない」

それが個人に当てはまるとは限らないと知っていても、無視する。

それは、なぜなのか?

 

差別する理由

人が差別する理由は、いくつかある。

  • 無意識のコストカット
  • 無意識の自己防衛
  • 意識した優位性の確保

ここら辺が、多い理由だ。

 

無意識のコストカット

過去の経験や得ている情報から、人は先を予想して生きている。

その際、過去のパターンから先のパターンを予想する事で、思考の効率化を図っているのだ。

これが、無意識のコストカットである。

考えるのは、脳を疲れさせる。

普通の人は、興味の無い事で頭を使ったり行動する事を、かなり嫌う。

だから、考えずに答えを出す為に、持っているデータから推測する事にするのだ。

これによって、「限られた物差し」や「グループと個人の混同」を行う事になる。

 

無意識の自己防衛

上記コストカットと似ているが、こちらの方が露骨な差別に繋がる。

コストカットの場合は、考えずに答えを引き出す為に差別状態を引き起こす。

だが、自己防衛の場合は、身を守らなければならないと言う判断や反応がコストカットによって始まっている。

つまり、過去の経験や既に得ている情報から、優劣を超えて「悪い物」と判断し、場合によっては身を守る為に遠ざけたり、攻撃する必要がある所にまで来ている状態だ。

これが起きるのは「トラウマ」や「ヘイト」と言った、特定のグループに対して過去に悪いイメージを刻まれた場合に起きる。

 

意識した優位性の確保

最も質が悪いのが、この状態だ。

弱者や劣等生を故意に作る事で、自分や自分の愛する物の優位性を高めようとする心理状態。

これは、そもそも比較ではなく、自分の価値観を肯定する事を目的にしている時にやってしまう。

この心理状態の人こそが、世間一般に言われる差別主義者と言えるだろう。

 

物語に差別を入れよう

ここまで差別が何故間違っているか、なぜ差別してしまうのか、と言うシンプルな話をしてきた。

差別が何らかの間違った状態である事は分かったと思う。

 

最初の方にも書いたが、物語には差別があった方が面白くなる。

 

「差別」は悪い物だが、誰もが陥る危険がある状態であり、そこには「共感」も「メッセージ性」も既に備わっているからだ。

 

世界と争う物語

物語の中には、世界そのものと争う物語がある。

差別や思い込み、禁忌を扱った物語群の事だ。

この形式に当てはまる物語の真の敵は、差別であり、その大半は無意識のコストカット状態にある周囲の人間の目を覚まさせる事にある。

つまり「これが当たり前だよね」と言う常識に対して、主人公がイレギュラーを起こし、異を唱える事で、物語のクライマックスでは差別状態から人々を抜け出させる事が大きなテーマの要素となる。

映画「オクトーバースカイ」等が、この形式だ。

この形式の物語のポイントは、主人公が差別や思い込みの中のイレギュラーな存在になって気付かせる事である。

オクトーバースカイの場合、炭鉱の町で生まれ炭鉱夫になるのが普通と言う状況で、ロケット技師になる夢を叶えて行く事で、主人公がイレギュラーとなり、人々は思い込みから解放される。

 

トラウマから救う

トラウマを抱えているキャラクターが、そのトラウマと向き合い、乗り越える物語は、どれも普遍的で胸を打つ。

この形式は、非常にスタンダードで愛される。

アニメ「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」のリリルカ・アーデや、アニメ「Re:ゼロから始める異世界生活」のレム等は、トラウマを抱えた少女を主人公が救うエピソードがあり、人気もある。

トラウマからの脱出に必要なのは、これも主人公がトラウマの原因となっている差別や思い込みの中のイレギュラーとなる事だ。

リリルカの場合は、冒険者は悪と言う辛い経験があり、主人公が冒険者には善もいる事を示し、共に悪の冒険者と戦う中で信頼を勝ち取る事でトラウマから救う。

レムの場合は、魔女に対する辛い経験があり、主人公から魔女のニオイがするが、主人公が魔女に関わる魔獣を共に倒す中で信頼を勝ち取る事で、トラウマから救う。

主人公がトラウマの一部を想起させながらも、共に乗り越える立場である事によって、ヒロイン達は差別から抜け出し、トラウマから救われる訳だ。

 

差別の報い

自身が優位性を持つ為に他人を不当に貶めるキャラクターは、よほど捻った物語で無い限りは「敵」として登場するだろう。

多くの場合、ディストピアを私物化するにしても、理不尽な虐待を誰かに加えるにしても、そう言った「悪」は報いを受けるべきと判断される。

例えば、

アニメ「シンデレラ」の継母と義姉達は、不当な虐待のつけとして成り上がる機会を奪われた。

原作「シンデレラ」になると、姉の足をガラスの靴にフィットする様に斧でザックリと言う、過激な報いが待っているが、まあ、とにかく報いが必要なのだ。

この形式の物語の場合、差別から敵が抜け出せれば救われる時もあるが、自己肯定をしたまま悪事の清算を受ける事の方が多い。

勧善懲悪物の敵は、主にこちら側である。

世界と争う物語や、トラウマから救う物語の悪役として、差別の報いを受ける悪役が登場する事もあるので、ここら辺は使い分けである。

 

差別を笑いに

差別は、やり過ぎはリスキーだが笑いに昇華する事が出来る。

「偏見にまみれた間違った事を、間違った事として描写する」事は、小気味よく、皮肉が効いていて、面白い。

とりあえず、おススメのドラマで「シリコンバレー」のギルフォイルと言うレイシストでサタニストと言う設定のキャラクターがいるが、かなり魅力的なので見た事が無い人は見てみよう。

 

終わりに、注意点

差別が物語の中で有用と言う事は伝わったと思う。

最後に注意点として、差別を扱う際は、物語として差別を肯定する描写は、今風に言えば炎上を招いたり、一部の人に反感を買うので避けた方が良いと言う話だ。

 

当り前の事に聞こえるが、人は、無意識に差別状態に陥る事がある。

その状態で描くと、差別を否定や正す意図でなく、劇中の設定の一つとして使ってしまう事がある。

物語を面白くする狙いがあるなら多少は構わないが、そうでないなら反発を受ける事は覚悟しなければならない。

 

だが、差別と言う要素を使いこなす事が出来れば、物語は確実に魅力的にする事が出来る。

要するに、使い方次第と言う事だ。

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