物語の暗喩が持つ役割
物語とは『真理』や『真実』を伝える、いわば例え話である。
暗喩、メタファー、インビジブルインク、表現の表面からでは分からない表現の裏面に『隠した意味』や『相似性』を使って、テーマを暗示し、メッセージを伝えてこそ、作品は名作になりうる。
今回は、名作アニメ映画トイストーリーを題材に『暗喩』を解説する。
尚、この記事は、ネタバレを多分に含むので、そのつもりで読んで欲しい。
トイ・ストーリー/Toy Story(1995年)
監督:ジョン・ラセター
<ストーリー>
カウボーイ人形のウッディは、アンディの一番のお気に入り。
ところが、アンディの誕生日に最新式のスペース・レンジャー、バズ・ライトイヤーが現れて、ウッディの主役の座が奪われそうに。
張り合うウッディとバズは、ひょんなことからオモチャいじめが趣味の少年シドに捕まってしまい、大ピンチ!
脱出作戦で力を合わせて頑張るうちに、やがて“友情の絆”が芽生えていく、大人から子供まで楽しめる究極のエンターテイメント作品。
<モチーフテーマ>
おもちゃ
<ストーリーテーマ>
善いおもちゃ(保護者)の役割とは?
<解説>
まずは、『おもちゃ』とは、何か?
これを、定義する必要がある。
定義
モチーフの具体的な定義は、ストーリーテーマに密接に関わり、これがテーマの橋渡しとなる。
トイストーリーの場合「おもちゃとは何か?」が第一に来る。
- 子供の玩具
- 子供の遊び相手
- 暇をつぶす物
- キャラクターを模した物
- etc……
モチーフの定義を深くしていくと、その中にストーリーテーマと相似性を形成出来る概念が見つかる事がある。
- おもちゃ=子供の為に存在する。
と言う定義は、別のテーマと相似性を持っている。
相似性とは、似た要素があると言う事だ。
- おもちゃ=子供と遊ぶ存在の、肩代わりをする存在。
つまり、おもちゃとは本来「保護者・親・友人の代替品」であると言える。
これが、トイストーリーの中心にある「おもちゃ(モチーフ)の定義」である。
「トイ・ストーリー」とは『代替品』である筈の『おもちゃ』が意思を持つ事で、代替品でなく実体を持ったらどうなる?
と言う思考実験的な物語である。
定義を深める
定義された「おもちゃとは?」が分かれば、今度は「良いおもちゃ」とは何かを探る必要がある。
これは「良い人間とは」の様な、普遍的なテーマに繋がる考え方だ。
物語の基本は「より良い○○になるには、するには、どうすれば良いか?」と言う基本概念を含む物。
物語には、問題解決をすると言う必須要素がある。
これは、問題解決とは結局の所「より良い状態にする事」だからだ。
話を戻そう。
良いおもちゃとは?
その質問の答えを探すと、存在理由、つまり必要性の話になる。
トイストーリーの場合、良いおもちゃとは、「子供に遊ばれる」「子供に必要とされる」と言う物がある。
その存在理由が揺るがされ、より良いおもちゃ(存在)にならなければならない状態に追い込まれる事で、物語は大きく動く。
その事から、主人公のウッディは、存在理由を一度失い、それを取り戻す為の旅をする事になる。
上述の通り『おもちゃ』は「保護者・親・友人」のメタファー(暗喩)である。
つまり
- おもちゃ=子供の為の存在
- 良いおもちゃ=子供に遊ばれ、子供に必要とされるおもちゃ
- 良いおもちゃの条件が奪われる=子供に遊ばれなくなり、子供に必要とされなくなる
が見えている表現の表面で、その暗喩に
- おもちゃ=保護者のメタファー
- 良い保護者=子供と遊び、子供に必要とされる保護者
- 良い保護者の条件が奪われる=子供に相手にされなくなり、子供に必要とされなくなる
と言う、表現の裏面が存在する。
当てはめて見てみる
最初、主人公のウッディは、子供に最も必要とされている存在だ。
持ち主のアンディとは親友であり、ある意味で義理の父親的な立ち位置の保護者目線で見守りながら、アンディと遊び、成長を見守っている。
その為か、ウッディの持ち主であるアンディには、母親の描写しか存在しない。
物語の冒頭で、最新のおもちゃバズ・ライトイヤーがアンディにプレゼントとして贈られる。
バズは、おもちゃの自覚が無いがアンディに気に入られてしまう、新人のおもちゃとして登場する。
おもちゃの自覚が無い事で、メタファーとして見ると「保護者でも、親でも、友人でも無いイレギュラーな存在」と言える。
ウッディから見て、アンディのおもちゃ(保護者)に相応しくないバズから、アンディを取り戻す為に、ウッディはバズに対抗意識を燃やす事になる。
初期のウッディは、表には出さないが、裏では、かなり性格が悪い。
だが、長年見守って来た親友を、親友に相応しくないぽっと出の新人に奪われたら、面白くないのも理解は出来る。
ウッディからすれば、おもちゃ(保護者)は持ち主(子供)の事を本気で愛していなければ、到底納得が出来ない。
更に、長年一番に愛されてきた「驕り」があり、ウッディの性格は歪んでいる。
例えば、子供の事を考えている学校の地味な先生と、子供の事を考えていないがイケメンで人気の先生がいたとして、親はどちらに信頼を置くかと言う話である。
冒頭のウッディは、バズへの嫉妬と不信感の塊の、一種のモンスターペアレントなのだ。
気に食わない相手に子供との時間を奪われ、ウッディの本性が表に出てくる事で、物語は思いもよらぬ方向に転がっていく。
不運の連続による事故から、バズを部屋の窓から突き落としてしまうと言う事件を起こしてしまうのだ。
ちょっと痛い目を見て貰いたいと言う、間違ったバズへの攻撃が、思わぬ結果に繋がるのだ。
間の悪い事に、バッチリ現場を仲間が見ていて、ウッディは本性が暴かれて仲間達に失望される事になる。
人気の先生が、新人教師に陰湿なイジメを裏で行っていた事がバレた様な状況だ。
当然、おもちゃ(保護者)として不適格と判断され、仲間によって追放されてしまう。
更に、タイミング悪く、持ち主のアンディの引っ越し日が迫り、タイムリミットまでに戻れないと永遠の別れ=ウッディの破滅が確定してしまう。
こうして、ウッディは自業自得的に、急いでバズを無事に連れ戻さないと家に帰れない状況に陥る。
スペースレンジャー(中二病全開)のバズにおもちゃ(保護者)の自覚を持たせつつ、ウッディ自身の在り方も見つめなおす、旅をする事になるのだ。
良い(善い)おもちゃ(保護者)とは?
ウッディは、この質問の答えを、暗喩的に探す事になる。
子供と遊び、子供に必要とされる『為に』、子供に相応しい存在に成長しないと帰る事が出来ない。
ウッディは、アンディに真の意味で相応しいおもちゃに成長する必要に迫られるのだ。
ウッディとバズは、偶然からシド少年に捕まり、彼の家でおもちゃ虐待の現場に遭遇してしまう。
シドの家から脱出する中で、バズは自分がスペースレンジャーでは無くおもちゃである事に気付き、激しく落ち込み、自暴自棄となる。
中二病が邪眼を眼帯で隠してポーズを決めていたのに、いきなり進路を聞かれ、現実に引き戻される様な大ショックである。
その原因を作ったシドは、ステレオタイプの刺激を好む悪ガキで、おもちゃの存在理由である「子供に遊ばれる」は満たしてくれるが「子供に必要とされる」を満たすに足らない存在として、アンディとは対比的に描かれる。
親の前では善い子を演じ、おもちゃしか友人がいないのに、その友人を大切にしない。
つまり、人間の友達が一人もいない問題児として描かれるシドの存在は、物語のテーマを浮き彫りにする。
シドのおもちゃとの向き合い方は、人間との向き合い方そのものであり、シドの両親は『良い保護者』では、決してない。
そこで、ウッディはバズにロケットを括り付け、一線を越えようとするシドに対して、シドのおもちゃ達と協力し、おもちゃ(保護者)の禁忌を犯し、(他所の家の子に)教育的指導を行う事になる。
これによってシドは、おもちゃだけでなく、保護者・親・友人に対する態度を改め、心を入れ替える切欠を得る。
バズへの爆破未遂は、誰の目から見てもシドが将来「碌な大人にならない」事を暗示し、その一線を越えようとした子供に対して、ウッディは『善い保護者』の資質を示すのだ。
おもちゃ=意思の無い保護者・親・友人の代替品
と言う、どうしようもない立場の存在に、意思があったらと言う「IF」を描く物語として、保護者としておもちゃ達が教育的指導をシドに行う事で将来の彼を救う事に繋げているのだ。
家に帰る為とは言え、おもちゃのルールを破ってでも仲間のおもちゃ達を救い、同時にシドに必要だった教育的指導を行ったウッディは、おもちゃ(保護者)としての大きな成長を示す事になったのだ。
良いおもちゃ=子供に遊ばれ、子供に必要とされる
善いおもちゃ(意思がある)=子供を正しい道へと導く事が出来る
と言う、ifならではの世界観の条件を満たし、ウッディは旅を通しておもちゃ(保護者)として、成長した真の「いいおもちゃ」になったのだ。
その後、バズは、おもちゃ(保護者、大人)としての自覚を持ち、運命を受け入れるに至る。
シドの家から脱出したウッディ達は、再びアンディの所に戻る事にギリギリ成功し、物語は文句無しのハッピーエンドとなって幕を閉じる。
ウッディとバズが、前よりも素晴らしいおもちゃ(保護者)に成長して、アンディを見守る未来が想像出来る、素晴らしいエンディングである。
暗喩によって、おもちゃ達の小さな大冒険を通して『子供に相応しい保護者とは、どんな存在か』を物語仕立てに視聴者は感じ取る事が出来る。
トイストーリーには、テーマもメッセージも明確にあり、その全てが緻密な計算の上で精密な時計の歯車の様に動いている事が、時計の内部は内部に興味を示さない限りは決して気付けない。
気付けないが、歯車が見えなくても、時計が示す時間は読み取れる様に、そのメッセージは見る者の心に直接響く。
これが、暗喩の力であり、役割の一つと言う事だ。
終わりに
暗喩は、相似性を持つ物を知っていて、関連付けて考えられないと気付く事が出来ない。
だから、トイストーリーは、子供にはおもちゃの物語として楽しむ事が出来て、大人には保護者の物語を感じる事が出来る。
つまり、暗喩に興味が無い人、気付けない人であっても、表現の表面を見て楽しむ事が出来る作品でもあると言う事で、それは幅広い層に愛される名作の最低条件でもある。
映画の評論家は、物語の深みを好み、一般の人は全ての深みに気付く事が難しい。
暗喩と、分かり易さの両立が必要と言う話だ。
暗喩だが、一見難しそうだが、言ってしまえば「例え話」や「大喜利」である。
それらが出来れば、誰にでも出来る。
相似性を持つ要素同士を結び付ける事が出来れば、考えれば、誰にでも出来る事なのだ。
物語全体を貫くテーマに仕込まれた暗喩があれば、物語は強くなるので、意識した事が無いなら、暗喩と言う物を是非考えて見て欲しい。
