いらん事をして駄作になった映画
あの名作ゲーム「ドラゴンクエストV」の映像作品化と言う事で話題となっていたが、2019年8月2日の公開と同時に、ゲーマーを中心に酷評の嵐となっている「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」。
なんでも「ユア・ストーリー」と言うタイトルの意味を考えて見ないと、大火傷する映画らしい。
って、考えて見ても大火傷ですよ、これ。
この映画の何がそんなにアレなのか。
ネタバレありで、他の作品等も例えで交えて、徹底解説します。
ドラゴンクエストユア・ストーリーを勝手に添削
この作品には、大きな問題がいくつもある。
一流のスタッフが集まっても、監督の舵取り次第では盛大に事故ると言う、悪い例となってしまった。
まずは、個人的に気になった問題点を順に提示していく。
モチーフテーマ選定
モチーフとは、当然「ドラゴンクエストV」である。
ここまで具体的な「ドラゴンクエストV」と言う作品をモチーフとした以上、下手な改変は自殺行為となる。
この作品では、モチーフ自体に下手な改変は行っていないが、モチーフの扱いが『メタ』で、特殊な使い方をしている。
ゲームのソフトだけでなく、ハードも含めている、俯瞰した視点とでも言おう。
そのアイディア自体は、まあ、面白いが……この問題点は後述する。
ストーリーテーマ選定
既に、様々な分析やレビュー記事で書き叩かれているが
- 「ゲームで遊ぶのは無駄なのか?」
と言う、確かに昔はよく聞いたが、ゲームクリエイターがあこがれの職業にランクインし、プロゲーマーが活躍し、Eスポーツが巷を賑わせ、ゲーム実況者が当たり前の時代に?
今更テーマとして持ち出すには、前時代的過ぎて、かなり陳腐である。
本来、視聴者に
- 「ゲームで遊ぶのは無駄なの?」
と言う疑問を持たせ、その疑問にクリエイターなりの答えをメッセージとして提示するのが、映画として普通だ。
だが、この作品では「答えを視聴者がとっくの昔に出している題材」を今更語っても「え、長い時間かけてこれが言いたかったの? 嘘でしょ?」としかならない。
この点は、あまりにも酷過ぎる。
例えば「戦争は、いけないのか?」と言うテーマを今更語っても、視聴者は「戦争がいけないのは知ってるけど、何を言いたいの?」となるのと同じ事だ。
テーマが、余りにも浅すぎるのだ。
仮にテーマを深めるなら「○○と言う場合でも、戦争はいけない事なのか?」みたいに、条件を具体化する事で、視聴者が答えを持たないテーマとして扱う事が出来る。
さては、ファミコン時代からゲーム情報をアップデートしてないな?
って感じ。
ターゲット
「ドラゴンクエストに触った事の無い人にも見て欲しい青春映画を目指した」と、監督は過去にインタビューで語っている。
ドラゴンクエストファンは確実にニッコリで、ファンでなくても一つの映画として楽しめる作品を目指したにしては、お粗末な結果だった。
上述のストーリーテーマ選定が悪過ぎる。
絵柄
あの「どんでん返し」をする為の世界観でも、普通に『鳥山明絵』に寄せて良かったのでは、と思ってしまう。
ただし、CG映画としてのクオリティは高く、日本のCG技術も頑張っていると思えるが、それでも原作シリーズへの愛が欲しい。
愛が、足りない。
楽曲
ドラゴンクエストV以外からの楽曲の使用。
明らかにファン向けの映画なのに、なぜ? と絵柄と同じく首を傾げる判断。
ただ、ドラゴンクエスト自体の音楽は非常に良く、すぎやまこういち先生は悪くない。
求められていない「ダイジェスト映画」
少しだけ前置きの説明をする。
日本のアニメ映画には、テレビシリーズを再編集し、シーンを追加したり再アフレコしたり、そうやって映画を作る文化がある。
そんな映画を作る理由としては、
- 物語全体をシェイプアップして、必要最適な構成の見やすい映像作品にするパターン
があり、これは、良い再編集映画になる事も普通にある。
いわゆるディレクターズカット版的な作品で、新規視聴者は最低限の時間で物語全体の「流れ」を理解出来るし、古参視聴者は追加シーン等を楽しむ事が出来る。
続編が作られる作品なら、前日譚を補完して素早く続編に入る事も出来るので、結構役立つ。
古くは宇宙戦艦ヤマト(1977)、機動戦士ガンダム(1980)、比較的最近では、天元突破グレンラガン(2008)、まどかマギカ(2012)コードギアス(2017)等があり、どれも再編集映画としては良い作品だ。
対照的に、もう一つ。
こちらの方が多いかもしれないが、
- テレビシリーズと言う、既にあるコンテンツの二次利用をする事を目的としたパターン
こちらのタイプは、物語として見ると高確率で駄作になる。
物語構成ではなく、名シーン集になるパターンが圧倒的に多いからだ。
ファンの思い出を刺激する物で、単体では物語を追うのが難しい作品になる。
だが、こちらはこちらで、スタジオが次の新作を作る為の資金捻出であったり、色々と作る意味はあり、初見の客からの信頼は失う可能性が高いので出来れば作らない方が良いが、全く無駄と言うわけではない。
そこで、今回問題となっている「ドラゴンクエストユアストーリー」の話である。
ゲームの映画化
原作が1992年にスーパーファミコン向けに発売されたRPG作品であり、その内容は非常に面白く、長い。
それを映画と言う形にするのだから、100分前後と言う尺に収めなければならない。
しかし、映画とゲームでは、いわゆる文法が違い、ゲームをそのまま丁寧に映画に置き換えても、物語が動き出すまでに時間がかかってしまったり、映画として見ると面白さが目減りする出来になってしまう。
監督も、過去のインタビューの中で、最初の方ではゲームと映画の違いから実現は難しいと考えていた、と言う趣旨のコメントが見られる。
必要最適な数のシーンを選び、物語として破綻しない構成に編集する必要があるのだが、それを行うのに「100分の縛り」は、かなりキツイ。
そうなると、選択肢は、
- 100分に最初から最後まで、ギュッと収める
- 100分で出来るキリが良い所までに区切る
- 3部作みたいな分割を行う
- テーマを絞って要素を削る
- モチーフの設定のみ使って別物にする
等が想定されるが、ドラゴンクエストユアストーリーは、『表向き』は「1」か「4」を選択している。
実際は「5」に近いんだけどね!
「1」は、最適な長さの原作を選ばなければ、自然とダイジェスト映画になる。
ダイジェスト映画を見てギリギリ許容出来る客層は、テレビアニメの再編集映画を見に行く層と、似た様な物だ。
テレビシリーズの再編集映画を許容できるのは、テレビシリーズを視聴済みで脳内補完が出来る既存のファンである。
「ターゲット」で書いたが、監督は未プレイの一般層にも向けた作品を考えていた。
根本問題としてダイジェスト映画は、ファンも含めて誰も求めていない。
それは、製作者側も分かっているのだ。
その点で、ただのダイジェスト映画を避けて「4」あるいは「5」に行こうとしたのは、正しい判断である。
「4」に行っていれば、まだ良かったのだ……
それでも物足りない映画にはなっただろうが、100分の映画分の満足は、少なくともあったのだ。
「ダイジェスト映画」にしない工夫
ドラゴンクエスト ユア・ストーリーは、基本的にはファンに向けた作品だ。
なのに、熱心なファン心理を理解していないと言える点が、散見される。
ファンが見たいのは、あくまでも「ドラゴンクエストV」の物語である。
となれば、既に知っている「ドラゴンクエストV」の物語が、最新のCG技術で映像作品化される事を期待するのがファン心理である。
大半のファンは、思い出補正されたドット絵の世界が、美麗な3DCGと豪華声優陣によって映像作品になる事を期待している。
その際、重要となるのは原作再現による
- 「みんなが見たかった名場面」
の提供である。
ドラゴンクエストVが今の最新技術で、ファイナルファンタジーⅦの様にゲームとしてリメイクされたとしたら「間にムービーが入る名場面」こそ見たいと考える。
ところが、ドラゴンクエスト ユア・ストーリーは、先述した様に「ダイジェスト映画」を避け、同時に後述する「どんでん返し」を物語の重要な仕掛けとして定義し、それによって「ダイジェスト映画」では無い別の物としている。
何割かのダイジェスト映画の覚悟で見に来たファンからすると、それでも、抑えられた名シーンでは感動もするし、嬉しくもなる。
見てれば絵柄は慣れるし、ギャグも人によっては許容範囲だし、音楽だって良い。
原作が名作である以上、全部を100分の間に詰め込むのは不可能だと理解して見に行っているので、妥協する姿勢が良い意味で整っている。
だが、ドラゴンクエスト ユア・ストーリーは、ダイジェスト映画にならず、ダイジェスト映画的に美味しいシーンも拾える仕掛けを試みている。
そこで使われた仕掛けと言うのが、メタフィクション演出である。
「メタフィクション」の間違った使い方
後述すると書いた「どんでん返し」、これが、この映画の問題をややこしくしている。
ドラゴンクエスト ユア・ストーリーのどんでん返しは、
※最大のネタバレ
↓
↓
↓
- 実はドラゴンクエストVの世界を模した、VRゲームの中の話だった
と言う物だ。
つまり、ダイジェスト映画では無いと言い張れる根拠として、ダイジェストで流れたり端折られているシーンは、全て「劇中劇のイベント」に過ぎず、主人公は「実際に冒険をしているのではなく、ゲームをしている事が本筋」と言う物だ。
冒険シーンに意味があるのではなく、ゲームプレイ自体に意味があると言う「大仕掛け」を用意したのだ。
これは、一見すると「面白い仕掛け」に思える。
だが、これがドラゴンクエスト ユア・ストーリーでは、上手く機能していない。
意味があると思って見ていた冒険シーン本来の意味が、ゲームプレイと言う別の意味に取って代わられ、物語世界は全て、主人公にとって偽物となるのだ。
視聴者にとってフィクションなのは、分かり切っているから問題無い。
だが、主人公にとって偽物の世界と言うどんでん返しは、視聴者からすると、実は、かなり大きな問題がある。
最初、視聴者は主人公を自分がプレイした事もあるゲームの主人公だと思って感情移入して見ている。
だが、後半では、実はゲームをプレイした事がある「視聴者自身」の分身のプレイヤーが真の主人公と判明し、ユア・ストーリーと言うタイトル回収を行ってくれる。
「おおっ!」
と字面だけで見ると面白そうに思えるかもしれないが、こういった一種のメタフィクション的な演出には、作法がある。
メタフィクションとは
『登場人物が自分がいる世界が、架空や創作の世界である事を認識している』
必要がある。
レディプレイヤー1では、仮想世界だと分かってみんなプレイするし、ソードアートオンラインでも仮想世界だと分かった上で冒険をする。
その、主人公がフィクションにいる事を認識していると言う要素の掘り下げを行わず「とある要素」が抜け落ちると、メタフィクションの結末は、ただの『夢オチ』と同じ事になる。
つまり、
ドラゴンクエスト ユア・ストーリーとは、製作者側さえも気付いているか定かでは無いが、ドラゴンクエストVと言う名作をモチーフに使い、陳腐なテーマを表現する為に、やたらと金をかけた「壮大な夢オチ」映画なのだ。
筆者は、スターオーシャン3を思い出して軽く眩暈がしたが、あれよりも大分悪い。
「実はデータの世界でした」でも、スターオーシャン3はキャラクター達が生きる世界に違いなかった。
だが、ユア・ストーリーはゲームの世界と判明した後は、劇中のゲーム世界は、それ以上でも以下でもない。
主人公にとって、ゲームと分かっている「遊びの世界」に成り下がるのだ。
これは、最悪の結末である。
このプロットで、面白い物語にしたいのなら、物語の構造を少し変えなければならない。
夢でも嘘でも、せめて……こうだったら
夢オチでも面白い物語は、沢山ある。
先述した「とある要素」とは、主人公が別の世界の住人である事を、嘘(ゲーム)の中のキャラクターも認識した上で、本物の絆を築き上げると言う仕掛けの要素である。
夢でも実態があると言う、この最重要要素が必要となるのだ。
有名な所で、ゼルダの伝説夢を見る島(1993)、ドラゴンクエストⅥ(1995)、ファイナルファンタジーⅩ(2001)、ここら辺の作品に近い物語構造にしていれば、ドラゴンクエスト ユア・ストーリーは、普通に面白く出来たし、視聴後感も前向きな物に変えられた。
その際、例えばだが……
ユア・ストーリー
* * *
ウィルスによってゲーム中の一部のAI達が自分がゲームの中だけの存在であり、決まった役割を演じるキャラクターの一人である自覚を持ってしまった。
劇中のヒロインが、主人公の為にヒロインを演じる運命にあるNPCである自覚を持ち、プログラム外の行動を取る様になる。
ゲームの主人公ではなく、それを操るプレイヤーと言う主人公に対して、ヒロインは好意を示し、プログラムに無い真の絆が結ばれる。
その後、主人公は仲間達を救う為にゲーム世界を救おうと、ゲーム世界を滅ぼそうとするウィルスの駆除を目指す。
だが、ウィルスによる不具合を全て治してゲーム世界を救ったが為に、AI達と築いた本物の絆は無機質な数字に修正され、主人公は愛する存在も大事な仲間達も全て失う。
しかし、住む世界が違う事で主人公とは共にいられないと悟っていたヒロインは、主人公にメッセージを残していて……
ウィルスの影響を受けたヒロインにしかない記憶の欠片がNPCに戻ったヒロインAIに僅かに残ってる様な希望を感じさせる終わり方にしたり、ヒロインからの別れの手紙がアイテム欄に残っていれば、それは本物のユア・ストーリーとなり得るのでは無いだろうか?
* * *
せめて、そういう構造をベースとした物語にすれば、評価はまた違ったかもしれない。
個人的な好みもあるが、筆者は、ユア・ストーリーが勿体無く思える。
ただ、そんな感じの物語にするなら、ドラゴンクエストVと言うモチーフは、改竄を嫌がるファンがいる点で非常にリスキーであり、適切ではない。
仮に、もう一度ドラゴンクエストVの映像作品化を制作するなら、ジョジョのアニメ化の様な、原作への圧倒的なリスペクトが必要だろう。
結局、大多数のファンはそれを見たいし、未見だが興味のあるファンも、そういう形で作品に手軽に触れたいだろう。
「凄いどんでん返し思いついた!」と言って、監督の作家性で改悪するリスクを冒す必要は、今回の映画では全く存在しなかっただけに、ファンとしては苦々しい結果である。
ちょっとだけ擁護したい点
ウィルスによって外的要因(ソフトの抜き差し、ケーブルを足で引っ掛ける等)から守るべき世界を失うのは、セーブデータが何かの拍子で消えた経験者が多い「ドラクエあるある」だし、ある意味で本当に怖いのは魔王と言ったボスよりもデータ消失と言う観点は、非常に面白いし共感も出来る。
だが、それだけである。
終わりに
映画、ゲーム、アニメ、漫画、小説等のフィクションを人が楽しめるのは、
- 主人公にとっては本当にあった出来事
と言う前提があるからであり、その前提を崩したらそこにある物は、全てが嘘になってしまう。
主人公にとっては、メタフィクションであろうとも現実的側面があるから、物語には緊張感があって面白いのだ。
主人公がゲーム世界を救ったとしても、救った世界が嘘である以上、NPCがテキストで称賛のメッセージを送ってくる事と変わらず、そんな物は主人公にとって何の意味も無い。
嘘の世界であって、主人公にとって大事な本物が無ければ、残るのは空虚さだけである。
世界を救った事で得られる仲間達との絆や歓喜のやり取りと、ゲームをクリアした事で表示されるクリエイターからの称賛は、全く別の物だ。
その大前提に気付かず「ゲームは嘘の世界、時間の無駄」と言う時代遅れの指摘をし、最悪の白けさせ方をしたまま物語が終わったら、主人公が旅をした100分は真面目に何だったのかと言う話である。
「主人公はVRゲームで遊び、それを「時間の無駄」と言う敵が現れるが、『そんな事わかってやってるから、ゲームの邪魔をするな』とウィルスを駆除した。楽しかった」
それだけの物語の、どこが面白いと言えるのだろうか?
ドラゴンクエストVが好きでゲーマーであるほど、腹立たしい気持ちになる映画である。
劇場に行く暇があるなら、原作のゲームをやるかノベル版を読もう。

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