「責任」と「功績」について
責任は負いたくないが、功績は欲しい。
それが人のサガと言う物かもしれない。
だが、責任と功績は、荷物みたいに自由に持ったり捨てたり出来る物とは性質が異なる。
今回は、責任と功績について説明する。
創作で、物語の中で、何かしらの形で役立てば嬉しく思う。
責任と功績は、誰の物?
責任と功績は、関わった人全員に被さる物だ。
もう一度言う。
『関係者の全員』に『自動的に被さる』物だ。
それが、自然で正しい責任と功績の状態だ。
この「関係」とは、上位・同位・下位に関係と言うパスが伸びる全てを指す。
例えば、製品やサービスに対して関わる人なら、組織図で言えば、社長・中間管理職・部下、等の関わる全員に責任と功績の義務と権利がある。
勿論、部署が全然違う事で関わる事が無ければ、同じ会社であっても、そこに責任も功績も発生しない。
あくまでも、「関わる」必要がある。
その責任と功績だが、関係者全員に被さっているが、その大きさには、大きな差がある。
アイディアと、その実現
アイディアは、花形だ。
アイディアとは、全ての中でも重要な、正に王様である。
アイディアが無ければ何も始まらないし、何も作られる事も無い。
なのでアイディアを最初に思いついた・気付いた事への功績は、非常に大きい。
だが、アイディアその物は、最も重要だが、そのままでは、実は「価値が低い」物だ。
アイディアは、「実現」して始めて価値を持ち、意味を成す。
つまりアイディアだけでは責任も発生しなければ、功績も発生しない。
アイディアが頭の中にあったり、他人の目に触れない内は、何の意味も価値も無いのと同じなのである。
なので、誰よりも早く冴えたアイディアを思いついたとしても、後で思いついた誰かが最初に実現したなら、そちらがアイディアの権利を主張できる。
これが、基本のルールだ。
アイディアを実現するとなれば、実現までに責任が生じ、実現の暁には相応の功績が発生する。
だから、最初に実現したオリジナルのアイディアを独占している人が、一番強い訳である。
だから、最初に思いついた人が、少しだけ有利なのだ。
しかし、アイディアは、一人で全部を実現出来る物ばかりでは無い。
そこで、物事は少しずつ複雑化を始める。
チームの責任と功績
一人で実現できないとなれば、実現性を高める為に、役割を分担する事になる。
- アイディアを考える人
- アイディアが実現出来る様に仕切る人
- アイディアが実現出来る様に作業する人
- アイディア実現まで支える人
と大きく分けても、責任と功績が分散する事になる。
現実には、それぞれで更に役割分担が行われ、更に宣伝や流通も必要になる。
責任と功績は、音頭をとって仕切る人が最も重くなり、作業する人は関わった作業の周辺ぐらいまで責任と功績が発生する。
アイディアを考えた人は、仕切る人と共通するか、作業する人と共通する事になり、どちらかの責任と功績を負う。
ここで、アイディアのみが採用されて実現に関わらない場合は、責任と功績は、意外かもしれないが発生しない。
例えば、人気漫画のアニメ化が行われた場合、アニメ作品の責任と功績はアニメの実現に尽力した関係者のみの物で、原作漫画家はアイディアを貸しただけで、アニメの責任も功績も負う事は無い。
勿論、アニメの面白さが原作のよさによる物と言う、間接的な評価は得られる。
だが、アニメの出来自体はアニメ制作に関わった人だけの責任で行われ、功績もアニメ制作に関わった人だけの物である。
あくまでも、責任と功績は『関わった人達の物』なのだ。
なので、デビルマンやドラゴンボールが実写映画化したからと言って、駄作だとしても原作には責任は無いし、反対に原作が凡作で、アニメ化によって大ヒットしても、原作の功績にはならない。
関わった人の全員に、責任と功績が発生すると言う大前提は、関わっていない人には、責任も功績も発生せず、アイディアのみの提供と言うのは、実は責任が無く、功績は無いが評価のみ得られると言う点で、非常に旨味のあるビジネスである。
これは、著作権以外にも特許権にも通じる考え方だ。
コンテンツの原作提供は、ビジネスとして著作権を持っていれば原作使用料を一定額手に入れられるが、そこには提供するかの判断程度しか責任も功績も発生しない。
魅力的な原作を手に入れると言うのは、一度実現させてしまえば原作者側は、リスク低くしたまま、高リターンを期待できると言うわけだ。
まあ、最初のアイディアの実現が最も難しいのだが。
組織の責任と功績の所在
同心円組織や小規模な組織の場合、責任と功績の所在が見え易い。
問題は、大きな組織の場合だ。
典型的なピラミッド型の組織の場合、責任と功績が上部に集中する事が多い。
これには複数の要因がある。
まず、上位に行くほど、仕切りと判断が仕事になり、下位に行くほど実作業が仕事になるのがピラミッド型組織の特徴と言うのが第一の要因として大きい。
小さい組織だと、複数の役割を大勢が担う事で、アイディア実現に向けた責任と功績の関係が分かり易い事の方が多いが、組織が巨大になると、その感覚は末端に行くにつれて薄くなる。
他にも、出資者と上位が一致する場合も、上部に責任と功績が集中する。
出資、要するにお金を出して投資する行為は、アイディアの実現性をアップさせる要素である事が多い為だ。
つまり、およそアイディア出し、仕切り、出資、実作業の順で責任と功績の重みがあり、重複して多く関わっている程に責任と功績は被さる。
他に、失敗の際、全ての責任を負う事を前提に、責任と功績を予めある程度、集約する手法がある。
総責任者となれば、アイディアが実現すれば大勝ちするし、失敗すれば悲惨な結末が待っている。
この手法は、責任者の人望に問題があると、上手くいっていない時にプロジェクトが大きく失速する事になる。
下位の責任も功績も無い実作業者に、頑張る理由が無いと言う状況が起きえるからだ。
何事も、自然さやバランスがある程度あった方が、上手く行きやすいと言う事だ。
駄目な責任者
良くあるのが、責任を取らず功績だけを、姑息にかすめ取ろうとする責任者の存在だ。
中心となるアイディアを出した訳では無く、仕切りが下手で機能を果たせず、出資せずに高い給料を貰い、実作業は何もしない。
自分のアイディアを無理やり入れ、命令で下位を疲弊させ、上手く行けば自分の功績にし、失敗すれば責任は上位か下位になすりつける。
これが、想像しうる最底辺の責任者像だろう。
組織の人間であれば、想像すると顔の一つや二つ浮かぶのでは無いだろうか?
問題は、現実の組織では、一定数こういった者が紛れ込む事で、現場には大きな混乱が起きる事が普通だと言う事だ。
理想を目指す必要はあるが、基本は問題を内包していると考え始めた方が、問題の対処が容易くなる。
ある種の性悪説に基づく、2割の優秀な者、6割の平凡な者以外の、2割の自己中心的な人々の存在を無視する事無く、向き合う必要は、常にある。
こういった人種を上位に立たせず、万一にも立たせるとしたら責任を取らせる仕組みを作る事が重要となる訳だ。
その際、責任を取るのは、駄目な責任者では無く、駄目な責任者を責任者にしたもっと上位の判断を誤った責任者かもしれない。
どちらにしても、駄目な責任者を守る様になると、組織は一気に劣化が進み、優秀な管理者や実作業者のモチベーションが下がり、流出を招くことになる。
そうなれば、いずれは組織としての力を失い、破綻する末路が待っている。
良い責任者
良い責任者とは、責任を全て背負う責任者では無い。
必要以上の責任を独占する責任者も、責任者としては駄目な部類である。
負うべき最適量の責任を負い、中心となるアイディアの実現に全力を尽くす人、それが責任者の本来のあり方だ。
- アイディアを出したら、アイディアを出した分だけ責任と功績があり、
- 仕切りでプロジェクトを動かせば、選択と行動に責任と功績があり、
- 出資したならば必要出資分や全体の%に応じて責任と功績があり、
- 実作業をしたならば、実作業で関わった部分にのみ責任と功績がある。
失敗やトラブルがあったら、解決に全力を出すが、負うべき責任は常に役割最適量以上は負うべきではない。
良い責任者とは、必要最適量、自分の請け負う責任を果たし、アイディア実現の為なら責任をとり続ける覚悟が出来ている人だ。
その責任の覚悟とは、自分の意思でアイディア実現に関わる決意である。
これは末端でも同じ事だ。
責任と功績は、名義上の責任者ではない関係者にも、関係分の責任があり、功績がある。
ただし、それを名声や報酬として享受できるかは、また別の問題である。
また、2割の駄目な人々が放棄した責任に対して、他の8割の人々がカバーしなくてはならないと言う事態が発生する事は、ある意味で最初から分かっている事だが、その事に対して責任を取らされる可能性があっても、責任を感じるのは、また少し違う話なので、補足する。
放棄された責任は、誰かが責任を取らないとアイディアが実現しない場合、誰かが責任を負う事になるのは間違いが無い。
だが、誰かの責任放棄は、責任を負う事になる人にとってしてみれば、トラブルやアクシデントでしか無く、責任放棄が発生して、肩代わりをする事が決まり、自分の意志で取り組む事で、初めて責任が被さるものだ。
失敗を誘発でもしていない限り、他人の失敗で責任を感じる必要は、一切ない。
だが、世の中には必要以上に責任を感じ、自分の物である様に振舞う、ある種の自意識過剰な責任者が一定数いて、ストレスに苦しんでいたりする。
プラスでもマイナスでも無く、あくまでも必要最適量の責任を負い、成功の暁には必要最適量の功績を享受するのが良い責任者である。
責任を負っていない責任者問題
上でも少し触れたが、責任を負わない人は、驚くぐらい必ず発生する。
これは、アイディア実現に向けた意識の差や、価値観、個人の差に由来する。
人類を天才の人格者をベースに並列化でもしない限り、この問題は根本解決が難しい。
その中でも厄介なのは、他人に言われただけで実作業をする「やる気が無い人」や「辞めたり、肩書を返上すれば責任を取れると勘違いしている者」の存在だ。
彼らは、全員「責任」を勘違いしている。
上でもすでに触れたが、責任を正しく取れる人だけが、関わった分の自分の功績を正しく享受できる前提を分からずに、立場に胡坐をかいて、無意識に周囲から搾取してしまうと、バランスが崩れ始める。
責任とは「最後まで面倒を見るか、実現可能性をあげる為に判断し続ける」と言う事だ。
責任者の辞任とは「実現可能性をあげる為に、より優秀な人に席を譲る」と言う事以外は、ありえない。
それ以外の辞任は、責任をとってでは無く、責任を放棄した「逃避」でしか無い。
捨てた責任は、誰かが負わなければならないまま、アイディア実現の場に残る。
負った責任からの「逃避」は、それが散々旨い汁を吸った後であれば、アイディア実現に対して明確に「害悪」だ。
責任が発生した後に手を引くのは、アイディア実現への放棄であり、それが一人プロジェクトなら自己責任であり、実現しないだけで他人には大きな問題が無いが、組織やチームの事だと、一気に関係のパスがある分、事態は複雑化する。
つまり、アイディア実現までの覚悟が無い人は、責任を負うのはリスクがとても高いと言える。
要するに、責任を負う気が無い人が「出世」と言うワードに踊らされて人の上に覚悟無く立つのは、多くの人が想像している以上に危険な選択なのだ。
おまけ:責任と功績の重みづけ
「新規性の実現」
アイディアでは、中心的アイディアに新規性が必要になる。
新しい要素が無い物は、既にある物だ。
新規性が高い物の実現ほど、責任をとる事は難しく、実現できた功績は大きい。
「実用性」
アイディアは、新規性の次に実用性に価値がある。
役に立たない要素が新しくても、大きな価値は生まれない。
「汎用性」
アイディアは、実現した時に使える範囲の広さと深さに価値がある。
これが、難しい。
抽象的であるほど範囲は広くなるが、抽象的では実現までに距離がある。
具体的であるほど範囲は狭くなるが、その方が実現性は始めから高い。
つまり、必要範囲の広さと深さを持った抽象度と具体度のあるアイディアである方が好ましい。
実現が難しい程、責任を負い続けるのは重く、実用性と汎用性が適正であれば功績が応じて大きくなる。
「成功確度を上げる」
アイディアの実現には、とても大きなエネルギーが必要になる。
実現まで支えてくれたり、協力的である事は、アイディア実現には重要な要素となる。
古今東西、パトロン、ファン、投資家、家族、友人と言った所までも含め、理解のある周囲の協力はアイディア実現に必要不可欠な要素である。
例えば、芸術家や作家を目指す人には、必ず『肯定』してくれる第三者が存在する。
人によっては、肯定しなくても「邪魔をしないだけでも助かる」と感じるパターンもあるだろう。
それぐらい、周囲の環境によって成功確度は変わってしまうのだ。
おわりに
責任は、何かに関わった時点で発生し、成し遂げた時点で功績がセットで発生すると言うような事でした。
責任は怖いと言うイメージもあるかもしれませんが、責任を果たさなければ何も得られないと考えると、成功には大なり小なり必要な物と考える事も出来ます。
また、責任を果たさない責任者が、どれほど危険な存在かも分かったと思います。
- 責任と功績は、関わる事で義務と権利が自動発生する。
- 正しい責任の範囲は、関わった必要最適範囲であって、人に押し付けるのも人の責任にまで責任を感じるのも良くない。
- 責任を果たした分だけ、功績を享受できる。
- アイディアは実現しないと意味も価値も持たないが、重要な要素。
- 大きな功績が欲しければ大きな責任を負う必要がある。
等の、基本がわかっていれば、自分の責任を適量果たし、果たした事への功績を得て成功を手に出来るし、他人の無責任に振り回される事になっても精神をやられずに対処できる筈です。
物語の登場人物毎の責任を考えれば、取るべき行動が見えたり、手柄の程度も適切に測れ、そこにはリアリティが生まれます。
この記事が、責任を自然な物と認識し、現実とフィクションから悪戯な無責任を減らす助けになれば幸いです。