正義の話をしよう
正義は非常に人気のあるテーマの一つだ。
何が正義で、何が悪か?
フィクションでも現実でも、この問題は常に問われ続けている。
今回は、そんな「正義」を説明したい。
正義の価値観
正義とは、何なのだろうか?
これは、辞書で調べると「道徳的で道理の通った事、概念」等と説明される。
つまり、一定の「筋が通った事」は、基本的に「正義」なのだ。
大前提として、
- 筋が通っている
事で、そこに最低限の正義が宿ることになる。
だから、別の正義観を持つ人との間で、正義の擦り合わせと言う争いが起きる事になる。
「何が最も重要な概念か」と言う価値観によって、複合的に正義が決まる。

図は、何を重要と考えているかによって、どの社会に属するかを表した物になる。
図内では単純に分け、要素も絞ってしまっているが、全ての要素を社会も人も必ず持っていて「どの価値観に重きを置いているか」によって、正義の立ち位置が変わってくる。
例えば「自由と言う権利を守る事こそが正義」と言う価値観は、リベラル寄りな人に多いし「人はルールによって統治された方が効率的に幸せになれる筈」と考えるのは、保守寄りな人に多い。
「持つ物には義務があり、持つ物を活かす事が正義」と言う価値観は、封建制度のあった貴族的感覚からの流れ、いわゆるノブレスオブリージュ(ノブレスオブリッジ)の精神で、この正義観は、どちらかと言えば西洋的だ。
どの価値観に重きを置いていても、それが正常に働いている場合は、その正義には、一定の筋が通り、価値観の一致した人達には住みよい社会になる。
だが、正義とは、社会や人によって歪められ、腐敗する事がある。
この、腐敗した正義が、正義面をする事で、より正義の話が混乱する事になる。

図は、裏の正義とも言うべき物を表した物だ。
表と対になる様にしている。
正義が正義のまま裏返ると、途端に正義は社会を蝕み、人を苦しめる物になる。
道徳的で、道理が通っていて、筋が通っているだけでは、正義は駄目なのだ。
正義の条件
ここまで色々説明した通り、正義の最も重要な条件は、一定の客観性である。
これを実現するには、相手を想定した客観性と、自分の主観性の、一致が必要だ。
つまり、主観的な正義を振りかざす行為は、相手の客観性次第では悪になる。
これは、国は勿論、SNS上で起きる議論にも当てはまる。
多くの人は、主観性は何も考えないでも発信出来るが、相手を想定した客観性は考えても当てられる事は少ない。
相手の考えと言うのは、相手に聞くまでは分かりようが無いからだ。
これは、相手と対話をして、更に相手に本心で話して貰わなければ分からない事である。
つまり、正義であるには、相手とのコミュニケーションが「絶対条件」に入ると言える。
コミュニケーションをとらずに、ルールだからで取り締まるのは、実は正義では無いのだ。
だが、力があると、人はコミュニケーションを取るのが無駄に思える。
力で従わせた方が、遥かに速いからである。
その仕組みによって、権力者は正義を自ら手放すと言うわけだ。
態度の悪い政治家、警察官、軍人、等の力を持ち、正義を背負った立場にある筈の人が職務を遂行しているだけで反感を買う理由は、コミュニケーションを否定した姿勢にあると言える。
真の正義は、コミュニケーションにある。
だから、正義の味方は対話を試みるのだ。
おわりに
正義には、立位置、立場、時期、タイミングによって人だけでなく社会で大きく違う前提があり、その上で重要なのは、コミュニケーションと言う事でした。
客観性があり対話を試みる人は、姿勢としては常に正義の側にあります。
反対に、主観的で対話が不能な人は、正しいとしても姿勢としては常に悪の側と言えます。
客観性のあるコミュニケーションこそが、正義の条件と言うのは、人によっては意外に思えるかもしれません。
この記事が、正義を考える参考になり、正義をテーマとした作品を創る助けになれば幸いです。
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