「自己責任」を問うなら「環境責任」が常にセットと言う話

自己と環境、責任の所在

自己責任とは嫌な響きの言葉だ。

だが、元々自己責任に嫌な意味合いは含まれていない。

歪めて使われるうちに、今の様なイメージが染みついたのだ。

自己責任とは「自己の判断によって生じる責任」だ。

関連記事に責任と功績のあり方とは?があり、参考にして欲しいが、要は責任とは言ってしまえば「問題の解決まで面倒を見る事」である。

つまり、自己責任とは「自分の判断で生じた解決すべき問題を最後まで面倒みる事」となる。

だが、自己責任を考える際、自己責任だけで話を終わらせる事は、重要な要素が抜け落ちる事に繋がる。

それは、人が環境に左右されると言う大前提で生きているからだ。

「自己責任」を語るには、同時に「環境責任」の話もする必要がある。

例えば「貧困」の話をする時、貧困に陥った個人に無条件に「自己責任」と言うのは、余りにも無責任だ。

結果的に「自己の判断」によって貧困に陥ったとしても、そこには「環境の影響」が常に存在している。

分かり易い環境要因として『バブル崩壊、就職氷河期、失われた20~30年、リーマンショック』等の分かり易いマイナス要因に巻き込まれた場合「自己の判断」の成否問わず「貧困」に陥る場合がある。

要するに、犯罪や事故に巻き込まれるのと同じ感覚だ。

非が無くても、人は不幸に陥る事が普通にある。

事件は誰の責任?

この前の事だ。

京アニ放火事件で、記事か何かで「自己責任論」を語って炎上した人がいた。

だが、炎上は当然の結果に感じた人が多かっただろう。

被害者には「自己の判断」による過失は無く、テクニカルな「環境要因」によって悲劇に巻き込まれたと見るのが自然な状態だったからだ。

良質な作品を提供した結果、逆恨みされてはたまった物では無い。

犯人と言う被害者から見た「環境の責任」を本来は責めるべきであり、多くの正常な判断力を持った人々は、犯人を生み出した環境にこそ目を向けた。

その結果、犯人の取り調べが待たれる中、犯人の生い立ち等がマスコミによって報道されていた。

これが、事件や犯罪の場合、被害者に対して「自己責任」だけを問うのが間違っている事が、非常に分かり易い。

分かり易い「犯人」と言う責任を負うべき存在があるからだ。

なのに、経済や軽犯罪等の話になると、途端に自己責任論を話したがる人が現れる。

これは、環境責任と言う分かり難い物を見ようしないパターンと、環境責任に自分が含まれている為に正当化するパターン等が原因として考えられる。

つまり、環境責任に含まれるパターンとは、直接か間接的に犯人の立ち位置と言う事だ。

それを成功と定義し、肯定する事は、自己責任を考えるよりも容易い。

被害者に自己責任を押し付ければ、それで済む話だからだ。

THE自己責任

話を変え、極端に分かり易い例を出そう。

試験の日が決まり、試験範囲は周知され、授業では何度も分かり易く教えられ、赤点を取れば再テストや補習が確定で、救済を拒否すれば留年だとしよう。

その状況で、バカなのに試験勉強をせず、赤点を取ったがテストも補習も拒否し、留年したとする。

これは、ほぼ満場一致で赤点を取った人の「自己責任」だろう。

つまり「環境責任」にあるかもしれない「自己責任から逃れる言い訳」を作れる状況を許さない、整えられた状況だからである。

これは、管理が行き届いた環境では起きうるが、管理し切れない環境で実現するのはかなり難しい。

自己、責任?

これが、勉強はバッチリだったが、テスト当日に風邪をひいたとしよう。

それも、体調管理は徹底的に気を付け、不幸にも偶然に菌を貰ったのが原因だった。

現在の学校では、粋な先生か優しい先生でもない限り、救済を認めない事が多い状況だろう。

第三者からすると、体調管理を頑張っていた、万全でテストを受ければ確実に受かっていたと言うのは、客観的に測る事が難しい定性的な情報で、下手をすれば負け惜しみや言い訳にしか聞こえない。

だから、ルールにただ縛られる管理者は、ルールだからと「運が無かったのも自己責任」と切り捨てる。

こんな事は日常的に起きる事で、学校だけでなく仕事でだって日常的に起きる。

この「不運による環境責任の自己責任」を個人に毎回背負わせれば、当然だが、本来は負わなくていい分の責任を、日常的に意識し、負った場合は果たさなくてはいけなくなる。

これが、社会をどんどん不寛容にする。

その結果、責任が無い事にまで誰もが責任を負う事になり、自分の責任だけを果たす正しい人さえ「責任感が足りない」と言う事になる。

これは、社会がかかった病気である。

環境責任の自己責任化

環境責任は、環境を作る全ての存在に責任がある。

例えば、同調圧力は、その環境の全員に責任が生じる。

しかし、責任を取るのは、大抵の場合、押し付けられた個人だ。

環境責任は、環境が責任を持って果たしてくれない事が多い為、負債は不幸な個人が払う事になる。

更に、台風や嵐といった自然災害は、人為的では無いので巨大な負債をまき散らすが、責任の負いようが無い。

その際、自己責任論者は環境責任の分を個人の自己責任として、社会が負った負債を無理やり回収しようとする。

それによって、災害時にも仕事の責任を気にする様な歪な状況が生まれ、人は背負わなくていい責任を気にして生きる事になる。

自己責任は、背負うべきだ。

だが、環境責任まで背負わせるべきではない。

犬に咬まれた人がいたら「犬に狙われる格好、臭い、場所、顔、どれかが自己責任」と考えるよりも「不幸だった」で終わる事の方が多い。

痴漢に遭った場合、痴漢に遭う場所にいたり、誘うような恰好をしていた事よりも、明らかに痴漢に非があってしかるべきだ。

雷に打たれても「背が高いのが悪い、外にいるのが悪い」と自己責任を追及するよりも「不運だった」で良い。

勿論、分かって犬を怒らせたり、誘惑したり、金属製の長い棒を頭上に掲げていたのなら自己責任となるが、自己の判断で非のある選択をしていない限りは、環境責任で終わる方が健全な時もある。

個人が負わなくていい責任は確かにあるし、誰も果たす事が出来ない責任だって世の中には、確実にある。

その責任を果たせるのは、自己犠牲的な人であり、人はそれを正義の味方や英雄と呼ぶ。

だが、誰もが正義の味方や英雄になれない事も、同時に認めないといけない。

健全なのは、自分が負うべき責任を果たす方であり、他人に押し付けられた責任まで果たすのは、むしろ不健全だからだ。

まとめ

人が背負えるのは、本当に「自己責任」の部分のみで、「環境責任」まで背負う事になれば簡単に壊れると言う話でした。

逆に、この原理を悪用して「自己責任」を「環境責任」として逃れようとする人もいますが、それも当然ですが悪です。

人は、負うべき「自己責任」だけ負えば十分で、「環境責任」も、「他人の責任」も本来的には負うべきではありません。

仮に、自己犠牲的に環境の責任を負う場合は、負わされては決していけません。

それは、生贄であり、人身御供です。

英雄や責任者は、自分の意志で、自分や環境の為に、環境の責任まで背負う覚悟を持つ人なのです。

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