これまでの創作人生
私は、東京生まれ東京育ちの男です。
数年間、名古屋にいた事もありますが、ほぼ東京です。
創作者に憧れを持ったのは、本当に幼い頃でした。
テレビの影響だと思いますが「アーサー王伝説」関係の作品に影響を受け、8ページのアーサー王が剣を抜くまでの拙い絵本を書いたのが相当初期の記憶だと思います。
その後、順当に特撮や漫画、アニメ、映画にハマりました。
最初に泣いた映画は、確か「牡丹灯籠」あたりかと。
人と幽霊の許されない恋愛物として内容を改変された作品で、感動したのを今でも思い出せます。
小学生の時は、漫画部に入っていましたが、絵は描くが漫画は描かないタイプのダメ部員でした。
中学では、陸上の幽霊部員と言う名の帰宅部で、ゲームをしたりアニメを見たりに忙しかったのを覚えています。
高校に入ってから初めて、まともに漫画を描いていた記憶があります。
漫画部でした。
ですが、全然上達しなかったのも覚えています。
初めて同人誌を出したのも、この頃です。
その後、大学で特に学びたい事も無いし、会社勤めは自分には、きっと向かないなと思い、かなり軽い気持ちで漫画学部のある専門学校に入りました。
思い返すと、かなり酷いですね。
そこで漫画について基礎知識を学んだと思うのですが、当時も思いましたが、物事に取り組む為の姿勢や思考等は、学校では教えてくれませんでした。
私は、それが知りたかったのに。
講師の大半は夢破れた人で、技術こそありますが、あまり良い環境では無かったと当時から思っていました。
その人達に、創作者として成功する為の姿勢や思考法は、期待出来ないですよね。
その中で、毎日基礎練習をして、卒業制作をなんとか出して、技術の基礎だけ教え込まれたが現場では使い物にならないと言う状態で、9割の生徒が卒業していく惨状を目の当たりにしました。
その中で、9割の方に入って私も卒業し、それからは、コツコツと作品を作りながらのアルバイト生活が待っていました。
投稿漫画を年に一本描くのが精いっぱいと言う、どう考えてもダメな投稿生活です。
同級生でまともにデビュー出来た人は、片手で足りるぐらいの数だったでしょう。
その人達は、専門学校に入る前から上手い人達ばかりでした。
その後、専門学校時代の講師の方が皆に何度も、呪いの様に言っていた言葉。
「3年頑張って結果が出なかったら諦めた方が良い」
と言う言葉に従う様に、周囲の仲間は次々に諦めて定職について行きました。
確かに、そこまで時間が経つと、デビューを目指しての作品制作の情熱は、熱さを失って行き、漫画家を目指していた事を周囲に言うのも、人前で絵を描く事さえも恥ずかしくなる様な状態に陥っていきました。
細々と、同人誌を創ったり、お絵かき掲示板などに投稿したり。
漫画は趣味、絵を描くのは趣味だと思い込みながら、やりたくもない仕事をしていた時期です。
転機
当時、まだ20代でした。
漫画家には、どうやらなれそうもなく、と言って学歴も手に職も無い。
個人でもサークルでも同人誌を描く事も無くなり、専門学校時代の友人とも疎遠になっていた時期です。
アルバイトから始めた仕事で、社員になる誘いを受けました。
当時やっていた仕事は、あまり好きでは無かったですが、他に選択肢も当時は見えませんでした。
高校卒業前に思っていた、出来そうもないサラリーマンになるのだと、諦め半分に思いつつも、仕事は金を稼ぐためと割り切り、自分はプライベートを精一杯楽しむのだと、自分に言い聞かせて生きていたと思います。
実際、趣味は、その時期に一番増えました。
ロードバイクを始めて箱根に行ったり、BMXに手を出そうとしたり、スケートボードを始めたり、一眼レフカメラを始めてみたり、とにかく「自分に合った何か」をガムシャラに探していた時期でした。
そんな時に、高校時代の友人から唐突な連絡が来ました。
彼は、私を主人公とした物語で言う所の「ヘラルド」です。
その友人が、成長の旅へと私を誘い出してくれた訳ですね。
その連絡ですが、こんなでした。
「うちの会社の社長が、今度新しい事業を始めるから、手伝ってみない?」
と言った趣旨の内容です。
正直、かなり怪しい誘いでした。
ですが、すぐ話に乗った記憶があります。
今のままでは、ダメになると、自分でも危機感があったからです。
葛藤を乗り越える動機と、必要性があり、話に飛びつきました。
形だけの面接後「履歴書も学歴もいらない」と言われ、あっさりと入った会社で私は、その社長の新規事業の手伝いを始める事になりました。
私の物語にとって、この社長さんが重要な「メンター」の役割を果たしてくれました。
社長と仕事をする中で、社長は仕事に必要な技術的な事は何も教えてくれません。
ただ、教えてくれたのは、姿勢や思考法と言った類の物でした。
専門学校時代は愚か、過去の通った学校と言う環境で、ただの一度も教えられなかった物です。
ですが、私が学生時代に、最も学びたいと思っていた物でした。
私は、社長から様々な事を教えられる中で、今までバラバラだったピースが繋がっていく様な感覚を得ました。
私に足りていなかった物は、努力量や技術力ではなく、もっと根本的なマインドとでも呼べるモノである事に、気付かせて貰えた訳です。
ハッキリ言って、この出会いはラッキーでした。
私の人生と言う物語に「ヘラルド」と「メンター」が現れ、私の物語は、分かり易く動き出すに至った訳です。
物語の始まり
マインドを変える上で、私は様々な事を教わりました。
客観性の大切さ、行動と選択、欲求と欲望、目的と目標、事実と真実、そのどれもが言葉で見るだけだと大したことが無い物です。
ですが、一度腑に落ちると世界の見え方を変える、そんな教えでした。
自分の置かれた状況に合わせて、時間を与えられ、自分で考えさせられ、試す機会を与えられ、正解に辿り着くための提示をされ、自然と導かれると言う状況。
その社長さんは、出し惜しみする事なく、成長し続ける為の姿勢や思考を教えてくれたのですから、本当にラッキーでした。
成長や変化を続けられるマインドは、私を自分の人生の物語の主人公にしてくれる物でした。
私は、私の人生と言う物語の中で、目的や目標に向かって行動し続ける必要がある事に気付きました。
行動は、何でも良いですが、そこで私が辿り着いた物が「物語」に係わる事でした。
冷え切っていた創作意欲が熱を帯び始め、私は一人密かに、創作を再開しました。
その内、今まで見えていなかった自分の得意な事や、描きたい物語が見えてきました。
それまでは、漠然と好きな物語を真似、理想のキャラクターを活躍させたいと動かし、行き当たりばったりに創作をしていたのにです。
一度視界がひらけると、それでは、少なくとも自分はダメだと言う事に自分で気付けるようになりました。
社長の下で仕事を続けながら、小説を書き始め、投稿サイトに載せたり、投稿もする様になって行きました。
多い時には、仕事をしながら月に30万字近く書いていました。
創作意欲が溢れて、止まりませんでした。
投稿すると、かなり良い評価を受ける作品もあれば、見向きもされない作品もありましたが、昔ほど落ち込む事は減りました。
新しく投稿すれば、上達が目に見えると言う、昨日の自分よりも上手くなっている事が、素直に嬉しかった、そんな時期です。
この時期、私は自主的に勉強をする様になっていました。
最初は、仕事に必要で読まざるを得ないと言う本が多かったですが、徐々に創作についての本にも手を出す様になったんです。
いつの間にか、あらゆる本を読む事が、そこから学ぶ事が、喜びに変わっていました。
もっと創作を上手くなりたいと思い、脚本術や創作講座など、片っ端から手を出していきました。
その中で、自分に欠けている物に気付き、補い、学んだ理論や技術を実践し、それを体系化していこうと試行錯誤も始めました。
不思議な物で、そんな事をしていると、それが役立つ時が来る時があります。
久しぶりに再会した学生時代の友人が自分とは違ってまだ漫画家を目指してアシスタントを続けていた事を知り、話の流れから物語の相談に乗ったりしました。
ネットで知り合ったゲームクリエイターの友人の、やはり物語の相談に乗った事もありました。
すると、友人の友人と言う風に、関係の輪が広がっていきました。
仕事でゲームの製作に携わる様になる一方で、プロの小説家や漫画家の方に対して、ストーリーアナリストとして助力をするようになりました。
最初は、無料でやっていました。
プロを相手に、初めて相談に乗った時ですが、かなり緊張したのを覚えています。
どんな天才が、凄い人が現れるのだろうと思った物です。
自分は夢破れた失敗者で、目の前にいるのは夢を叶えた成功者です。
でも、そんな事は思い込みでしかありませんでした。
積み重ねてきた実積と、培ってきた技術に、大きな差こそありますが、同じ人間です。
出会った人の中には「真面目に天才だろ、この人」と言う人も、何人もいましたが、そう言う人程、相手を肩書では判断しない事も知りました。
本当に実力のある人は、実積や技術力と一緒に肩書がついて来るだけで、相手を肩書だけで判断する事はしません。
創作に対して、明らかに余裕や自信があるんです。
肩書にこだわっていたそれまでの自分が恥ずかしくなる思いでした。
実力が無いから、肩書で自分を大きく見せたいのだと、気付かされた経験でした。
その中で、わかった事がありました。
私は、自分でも無自覚の内に、物語を読み解いて、分かり易く分解し、どうすれば良くなるかを提示する、と言う二ッチな技術に特に秀でていました。
社長の下で最初に基本的なマインドを学び、その後、様々な創作の師匠と呼べる人達と出会い、さらに多くを学び、今も学び続けている事で「物語を見る目」が培われていました。
それから暫く、ストーリーコンサルタントやスクリプトドクターの様な事を続け、その内、全く私の事を知らない人にもサービスとして提供出来ないかとココナラと言う個人単位のスキル提供サービスに登録してみました。
スクリプトドクターなる仕事の存在が海外にある事を知ったのも、このぐらいの時期でした。
二度ほど「アドバイスの言い方」で炎上しかけました(汗)が、アドバイスした内容でのクレームは今の所、一度もありません。
現在
悩みとしては、ストーリーアドバイザー(ストーリーコンサルタント、スクリプトドクター)自体が二ッチな存在な上に、特に日本では表に出る仕事ではなく、関わった案件も私が表には出ない事です。
また、創作者自身、プライドが高い人が多く、私と関わった事を率先して公言する人は少ない為、公表出来る実績が一向に増えません。
ですが、立ち位置的にそれは多少は仕方が無いと言うのも分かっています。
ですが、やはり寂しくも感じます。
創作において、創作者が主人公であって、ストーリーのアドバイザーは、メンターでしかありません。
「わしが育てた」とついて回られるのでは無いかとか、「自分の作品じゃなくなってしまう」と不安に思う気持ちも理解出来ますが、真っ当なメンターは、そんな事はしないですし、ビジネスで関わる以上、こちらも自分の仕事が減る様な事はしません。
その内、もう少し日本でも、物語の監修・アドバイス・アナライズ・コンサルタントが気軽に現場に呼ばれる様な環境になってくれれば、つまらない物語は減ります。
断言できます。
海外でスクリプトドクターと「脚本の医者」と言われるのは、医者が薬を使ったり手術すれば患者を治せる様に、調子の悪い物語を治す事がロジカルに可能だからです。
頼って頂ければ、クリエイターやアーティスト、そして経営者は、創作やプロジェクトの市場での成功率が上がり、読者や視聴者と言う立場でも面白い物語にありつけ、良い事尽くめの筈です。
拙い思い出話にここまで付き合って頂き、ありがとうございました。