差別とは何か?

差別の定義

差別とは、一種の文明病である。

一人では発生しないし、二人では発生したとしても解消が容易だ。

つまり、「人類の人口増加」が第一に差別を生んでいる原因と言える。

第二の原因は、生物の認知機能にある。

経験によって生物は、「判断を効率化」する為に「思考のショートカット」を形成する。

例えば、目の前に突然ライオンや、刃物を持った人が現れたら?

大抵の人は「危険」と判断する。

これは、事前に思考のショートカットが出来ている為に出来る、危機回避機能が働くが故に出来る芸当だ。

この認知による危機回避機能が、過剰に働く結果、起きるのが「思い込み」だ。

そして、この思い込みが、差別を生み出す。

実態では無く、事前情報によって形成された思い込みが、差別に繋がるのだ。

差別と区別

だが、それだけで差別が必ず生まれるわけではない。

分類・カテゴライズと言った種類分けと言う「線引き」は、宇宙が出来た時から138億年間も自然に行われ続けている。

自分と他人、別々の物、そう言ったレベルから線引きは、昔から自然な事だ。

現代でも、あらゆる物に線引きが行われている。

国、宗教、人種、性別、何にでも線引きはあるが、そこに差別は、それだけでは存在していない事が分かる。

それは、これは区別であり、ただの線引きだからである。

区別は、「物事を効率的にする」効果がある。

先の例えで、ライオンや刃物に対する反応は、危機回避として効率的だ。

ライオンを見るたびに「ライオンとは何か?」を一々考える必要は無く、肉食動物だから危険かもしれないとすぐに逃げる事が出来る。

このままでは、差別を成立させる為の構成要件が足りない。

思い込みが生む、間違い

先にも書いたが、思い込みが差別に繋がる。

では、思い込んだ物が、どの様な状態だと差別になるのか?

実態では無く、事前情報によって思い込んだ時に発生する物は、何か。

それは「誤解」や「間違い」である。

つまり、実態にそぐわない状態を勝手に想像し、その思い込みによって判断する。

これが「差別」である。

差別とは、

  1. 「特定の区分(線引き)」に対して
  2. 「事前に認知した(知った)情報」を根拠に
  3. 「必ずしも当てはまる訳では無い条件」の情報を適応させ
  4. 対象の「実態と関係無く」判断している

状態が「差別」である。

これは、レッテルやラベルを貼った状態でもある。

つまり「外から判断出来る情報から、相手を決めつける」と言う事だ。

ジャムの瓶の中に必ずジャムが入っているとは、限らない。

中身がジャムなのか、ピクルスやビスケットが入っているかは、見てみるまでは分からないのだ。

限りなく確認不能な危険性に対して

ライオンの例えでも分かるが、基本的な機能として「区別」する事は、危機回避に役立つ。

ライオンが満腹だったり、飼いならされた人懐っこいライオンである可能性を考えるよりも、ライオンを一括りに危険と判断した方が、安全性は高まる。

その際、良いライオンが不当な扱いを受ける可能性が出てくるが、それは許容範囲だ。

これは、記事執筆現在騒がれている「新型コロナウィルス」問題でも言えてくる事だ。

各国でウィルス罹患の可能性がある人を、国や地域、施設が出入りを制限している。

これに対して、罹患していないかもしれない人に対して不当と考える人の気持ちは分かるが、問題はそこでは無い。

ライオンと同じで、死と言う可能性がある危険なウィルスによるパンデミックが現実に起きている。

ウィルスは、目に見えないライオンで、そのライオンが無意識に体内にいるかもしれない可能性がある以上、その確率が高い人はライオンと同じなのだ。

その際、検査をしてウィルスが陰性である事が証明されないと、その人が良いライオンか、あるいは悪いライオンであるかの判断が出来ない。

良いライオンの場合は、拘束や検査で不便を強いられる事になるが、外側から見て判断出来ない為、仕方が無い部分がある。

万が一、悪いライオンだった場合は、全てが手遅れになる。

実際のライオンなら、噛まれる危険性があるし、それがコロナウィルスならパンデミックによってライオンよりも大勢が死ぬ危険性があるのだ。

実害のある危険性がある以上、これは差別では無く、区別をした上での必要な危機回避である。

これを差別と言う人は「私には危機管理能力が無い」と言っているのと同じだ。

害のレベル

そこで問題になるのが、どのレベルからが実害になるか、である。

伝染病は、集団感染や死に直結する為、実害がある事が分かる。

致死の可能性が無くとも、実害がある。

ただの病気や、伝染・感染を制御できる病気の場合はどうだろう?

例えば、ハンセン病は昔であれば隔離され、不当な扱いを受けた。

これは、どうしたら感染するかを誰も理解していなかったり、理解しても先入観や生理的な所で拒絶していた為だ。

だが、感染しないのであれば、そこには伝染病と言う点で実害は無い。

エイズの場合、血液や粘膜による感染があり得るが、感染制御が可能である。

そう言った病気だからと言って、入国であったり、施設の利用を拒否したりは、差別となる。

既に、危険性の実態が分かっている点で、良いライオンか悪いライオンかと言う議論とは違う所にあるからだ。

不安と不快は、実害か?

区別をする際、実害は無いが、不安や不快になる要素と言う物が存在する。

これは、個人によっても感じ方が大きく異なる。

感染しなかったり、感染を制御出来る病気に対して、不安になる人や、不快を感じる人がいるのは分かるだろう。

だが、危険と言う実態と現実が乖離している以上、それは差別になる。

しかし、条件が変われば差別にならない事もある。

例えば、エイズに罹患した人が、悪意を持って感染させようとするなら、それは危険と言う実態を持った事になるので、十分に実害があると言える。

ちなみに、わざと隠して、感染拡大等を起こす様な危険行為をした場合は、傷害罪に問われるし、それが原因で病気が感染して、死に直結すれば傷害致死罪として罪に問える。

だが、そう言った悪意を相手が持っていない以上、そこにあるのは、あくまでも不安や不快だけで、実害は無い。

つまり、見た目や申告によって嘘が無い実態が分かっている状態で、悪意が無ければ、そこに実害は無いと言える。

その状態で、不当な扱いをすれば、それは差別となる。

実害が無い物に対して、不当な扱いをする事は、差別なのだ。

逆に、実害が出てしまうと、それに対して「この扱いは差別だ」と主張する事は難しくなる。

繰り返すが、客観的な「実害の有無」が、重要な分かれ目となる。

表現の自由は害を生む?

では、昨今、問題となる表現の自由について考えて見よう。

表現の不自由展問題

特定の差別的な表現を除けば、実害は無い。

コンセプトが表現の不自由である為、差別的、侮辱的な表現は、それ単体では展示の中にある限り問題にならない。

その上で、誰かに訴えられたら、裁判で戦うか謝るかすれば良いだけの話。

不愉快な人は、見なければ良いだけだ。

実害が生まれるとすれば、差別を助長させたり、名誉棄損などがあるが、展示しない事には実害があるかは分からず、実害が出れば責任を取ればいい。

責任が取れないなら、出展する事がそもそも間違いだ。

ストライクウィッチーズ問題

「パンツじゃないから恥ずかしくないもん」を合言葉に、今尚メディア展開が続いている男性向けの人気コンテンツだ。

問題となったのは、自衛隊員募集のポスターに起用されたキャラクターが、スクール水着姿だった事。

この件で、実害は?

当然ながら、無い。

女性差別では無いし、悪意も意図も無く、一部に不愉快に感じる人がいるかもと言う配慮が欠けていたかどうか、その程度の問題だ。

スクール水着による「子ども」や「下着」への連想や、TPO的な話だ。

珍妙な格好のキャラクターだが、性的と言う意味で言えば水着や下着のモデルの方が刺激が強い。

表現が作品を知らない人にとって上品では無かっただけで、ビールの広告に水着のモデルが使われるぐらいの物である。

宇崎ちゃん問題

献血ポスターに起用された漫画のキャラクターが、巨乳で献血には不適切だと騒ぎとなった。

これも、当然だが、実害は無いし問題にならない。

まず、巨乳の是非だが、現実にも巨乳の女性は存在している為、当然だが巨乳は罪でも無ければ猥褻でも無い。

次に、巨乳を描いたり、公共のポスターに起用する事が問題かと言うと、それも問題にならない。

巨乳を描く事で性的な魅力がアップしようが、何だろうが、それがフィクションで狙った存在だとしても、実害はどこにも無い。

また、巨乳と偽る事が罪ならば、胸パッドは悪となる。

当然だが、偽乳も一部の男性がガッカリするだけで、やはり罪ではない。

女性を武器にする事は、当然ながら社会的にも問題にならないので、宇崎ちゃん問題に関しては完全にイチャモンである。

女性の魅力を武器にする事が悪になってしまったら、タレント、アイドルは勿論、受付嬢、モデル、ホステス、風俗と言った特定の性別でないと出来なかったり優遇される職業は全滅だ。

鬼滅の刃、恋柱問題

登場するキャラクターの服装が、胸の谷間を強調しているとしてSNSで話題となっていた程度の話だが、一応。

大事な部分が隠れていて、猥褻物陳列罪等に当たらない以上、服装は個人の自由だし、キャラクターデザインは作品の作者の自由だ。

それを深読みして残念と言うのは、美術館で裸婦画に文句を言うぐらい滑稽だ。

見たくないなら見に行かなければ良い。

気に食わないなら、自分がもっと良い物を作ればいい。

出来るなら、ね。

ヒロアカ、ネーミング&誕生日問題

登場キャラクターの名前が「丸太(マルタ)」で、実験の被験者を連想させるとか、登場キャラクターの誕生日がヒトラーと同じとか、そんな話。

まず、名前だが、明らかな差別用語や放送禁止用語かつ、ひねりが無い場合を除いて、グダグダ言うなと言うのが全てだ。

ネーミングが笑えなくて悪意があるなら、そんな作品は無理して見る必要が無いだけである。

笑えたり、悪意が無いなら、そう言う名前と言うだけでそれ以上の意味は無い。

嫌なら見るな、鬼滅と同じで以上である。

わざわざ見に来て、韻を踏んでいる、そう読み取れると文句を言っているのは、例えば同姓同名の人に対して気に食わないから変えろと言うぐらい無茶苦茶だ。

世界には膨大な言語があって、偶然エロマンガ島なんて島もあったりするが、問題にならないでしょ?

誕生日も、うるう年含めて366通りしか無い物に対して、地球の人口が70億を超えていて、その中の何割かが犯罪者や戦犯と考えると、誕生日だけで文句を言うのがどれだけバカげているか分かると思う。

一切悪人を生まない誕生日があるなら知りたいし、どのレベルの悪人からNGなのかを定量化出来るならしてほしい。

また、違法アップロードを見ていたという噂もあるが、それは全く別の問題で、単純に違法アップロードをした人と、知っていながら見た人が悪いと言うだけで、名前へのイチャモンとは別の問題だ。

読者は作品を読む権利はあっても、作品に介入する権利は基本的に持ち合わせていないのは基本だ。

これが通ってしまったら読者の意見を反映させる事が常態化してしまう。

読者のアイディアを反映させるのも作者の自由なので、今回の判断は総合的考えると作品の魅力アップ(棘になりうる角を取る意味で)に繋がるかもと言うのと、名前が重要ではないキャラクターだった事が言えるだろう。

ラブライブ問題

スカートの影が鼠径部を意識させるとネット上を中心に問題となった。

これも、全くもって問題が無い。

宇崎ちゃん問題と同じレベルだ。

絵描きが裸体を書いて服を着せる工程や、画の腕前の問題で影やしわ、乳袋の様なファンタジーな服が生まれたとプロの漫画家やイラストレーターが擁護していたが、実害が無い以上、そもそも問題が無い。

ここまで来ると、何にでも文句を言えて、連想ゲームで被害者になれるのだと感心してしまう。

異種族レビュアーズ問題

これは、差別とは別の問題を抱えていた。

モザイクをかけているから大丈夫と言って、ストレートなエロアニメを流していたのだが、話題になり過ぎた。

ぶっちゃけ「僧侶枠(主に女性向けショートエロアニメ放映枠)」と、放映時間の長さ以外大して変わらないのだが、話題になった分だけ注目を集めてしまい、チキンレースで崖の下に落ちて行ったイメージ。

当然、不快に思う人はいるかもしれないが、実害は無い。

良くも悪くもテレビで流すには下品過ぎた。

セクシャルな表現は、どこからが罪か?

コンテンツにおいて、表現の自由で問題になるのは、大きく分けて「エロ」と「暴力」と言う、刺激が強い物が殆んどだ。

その中でも、エロは、どこからが罪となるのか?

どこまで行くと、実害が発生するのだろうか?

大前提として、個人を基準としてしまうと「匙加減」の世界となってしまう。

その結果が、上記した数々の、問題が無いのに問題となった例達だ。

個人の匙加減は、全てを受け入れて行くと何も表現出来なくなる。

表現をする以上、全員に受け入れられる表現等存在しないからだ。

つまり、基準は、社会と言う集団によって決められる事になる。

社会が決める基準も、文化や時代によって変わってくる。

日本と中国では違うし、アメリカとイスラム圏でも全然違う。

ほんの数千年前には、裸と言うだけでは性的でさえなかった時代がある。

ほんの数百、数十年前には、足を出すだけで性的だった時代もある。

現代日本の話をする時は、現代日本と言う括りで、区分をはっきりさせて話をする必要があるのだ。

その上で、日本では性に対して裏では開放的なのに、表では恐ろしいまでに閉鎖的な態度がある。

外国では所持をしているだけで逮捕されるエロコンテンツが認められていたり、暗黙の了解で許されている反面、「裸」になると見える身体の「突起と穴」はモザイクの対象で、そんな国は日本ぐらいだ。

日本は、モザイクの下を連想させる物をタブー視する傾向がある。

海外では、モザイク文化は無いが、同じ場所をモザイク無しで、エロを目的として表現する事を、タブー視したり、TPOを分ける文化が多い。

そう言う視点で見ると、異種族レビュアーズが日本だけでなく外国でも問題視されたのは、モチーフが「性行為」と言う住み分けが必要な区分にも関わらず、それがしっかり出来ていなかったからと言える。(凄く当り前だが)

また、それ以外の事で、漫画やアニメを問題視する人々は、個人的に潔癖や敏感が過ぎる、想像力が豊か故に記号から「エロ」や「暴力」を読み取ってしまい、勝手に害や不快感を感じる人々と言える。

乳袋や鼠径部の影が、その下を連想させたり、注目を集めると言う言い分も分からないでもない部分もある。

だが、日本と言う社会が、その点を無害と許容していて、大多数の人も実害を感じていない以上、ディストピアを望んでいないなら、それらは無暗に取り締まるべきではない。

不寛容を突き詰めれば、ディストピア化は着実に進むのだ。

一度ディストピア化が進むと、戻す事は大変な労力を要する事になる。

問題を感じていて、どうしても取り締まりたい人は、個人の感想や推測、思い込みでは無く、明らかな実害を訴えないと、モンスタークレーマーとしか誰も見てはくれない。

それが出来ないなら、残念ながら日本が、その人の性に合っていないと言う事しか出来ない。

海外への引っ越しを考えるのも手だろう。

不快の正体

そもそも、不快とは、事前につけられた心の傷跡に、触れる物に対して感じる物だ。

触れる物は、それだけでは悪い物では無い。

要するに、トラウマ的な心の傷が痛む事で、触れうる物が不愉快に感じるのだ。

例えば、暴力を受けた人が、暴力的な物を嫌うのは分かる。

ゴキブリを嫌悪して育てば、ゴキブリを不快に思う様になる。

だが、暴力的な物が不快に感じられても、それに実害が無い限りは、暴力的な物でしかない。

ゴキブリも、不快だがその個体が具体的に悪さをした訳ではない。

問題は、不快に感じる原因の心の傷跡の方にある。

これを物理的な傷口で想像すると、より分かりやすいと思う。

あなたが包丁で手を切ってしまったとする。

包丁は危ない物に思えるし、怖く、不快かもしれない。

だが、包丁を全てこの世から無くすのは、話として飛躍しているのは、分かると思う。

必要なのは、傷の手当と、包丁の正しく、安全な使い方をマスターする事だ。

男性に暴力を振るわれるなどして、男性恐怖症となった人にとっては、良く知らない男性が、包丁の様な存在に見えるかもしれないが、だからと言って全ての男性をどうにか出来ないのも分かるだろう。

傷跡があるから、連想させたり、傷口に触れる物が不快に思える。

大事なのは、傷に触れる物を攻撃する事ではない。

傷を癒し、傷口に触れそうな物から身を守り、正しい距離感を計る事だ。

昔、親、教師、友達、彼氏等から嫌な経験を受けて、それが傷になっている場合、悪いのは、その攻撃して来た個人であり、同じ括りの人ではない。

トラウマの加害者が悪いのであって、トラウマの被害者が加害者になっては、解決は望めない。

向き合うべきは、自分についている傷跡と、傷跡の本当の原因だ。

「言葉」の解釈による誤解や問題

言葉とは、大半の人がイメージで曖昧に使う。

すると、似ていても全然違う意味で使われる様になる。

差別について語るなら、公平、平等、公正、均等、対等と言った言葉を理解する必要がある。

これ等は、間違って使うと身を亡ぼす事になるぐらい、意味が違う。

公平・公正

公平、公正とは、

  • 何かに基準を決めて、基準を満たす様に揃える事

である。

例えば、バリアフリーは障碍者の人であっても「誰でも施設を同じ様に使える様にする」と言う、基準に対して揃えている。

良くある例え話で、生垣の向こう側を見たい時に、背の高い人には何も無いが、背の低い人には台を用意する奴がある。

これは「生垣の向こうを見る」事が基準となり、その条件に揃えた考え方だ。

平等・均等

一方で平等、均等とは、

  • 何かを一律になる様に決めて、一律に揃える事

である。

例えば、ケーキを切り分ける時、同じ大きさに切るのは平等だ。

例え、身体の大きさが違っても、同じ大きさのケーキが手に入る。

これは、社会主義的な考え方に近い。

消費税も平等だ。

対等

対等とは、

  • 特徴を無視して、横並びの状態に揃える事

である。

例えば、会社に勤めている時、平社員と部長と社長は、肩書や影響力に差があり、立場は対等では無い。

だが、会社の外で別の関係性を形成できれば?

「釣りバカ日誌」では、平社員のハマちゃんと、社長のスーさんが、釣り仲間と言う関係によって対等になるのが魅力の作品だ。

対等とは、特徴を無視出来る状況下で、横並びとなる事だ。

以上の、似ているが全く別の言葉と言う認識を持った状態で、次の言葉を考えて見よう。

男女平等

平等とは、何かを一律になる様に決めて、一律に揃える事だ。

だが、考えてみて欲しい。

男女の権利を平等にするのは、ケーキを均等に切り分ける様で気持ちが良い。

だが、根本的に男女は、生物学的な構造も役割も違う部分が、どうしたって存在する。

つまり、平等にするだけでは、色々と足りないのだ。

「男女」に対する公平と対等

平等にしたって、女性の地位向上には足りない物が多すぎる。

必要なのは、

  • 何かに基準を決めて、基準を満たす様に揃える
  • 特徴を無視して、横並びの状態に揃える

と言う、別の視点だ。

例えば、平等だけで会話をすると、公正で切り返されると何も言えなくなる人がいる。

ケーキを同じ大きさだけ食べたかっただけなのに、気が付くと話が変わっているのだ。

力仕事も同じ様に女性もすべき、兵役を女性にも課すべき、みたいな話だ。

要するに、男が受け持っている「したくない事」もケーキの様に平等に分けるべきと言う話である。

つまり、会話が平等と公平で既に噛み合っていないのだ。

だが、そもそも男女には身体的特徴で差がある為、そこを考慮しないで全てを平等にする事は、現実的では無い。

最近ではパワードスーツ等の電動アシストによって平等に出来る土壌が出来て来たが、そう言った社会的な変化が背景に無いと、どうしようもない問題だ。

これは、話が噛み合えば、それだけで会話が成立する問題でもある。

男女公平なら、話は分かる。

学校や就職に関する様な「機会均等」の考え方は、言葉に反して公平の話であって、平等の話では無いのだ。

男女対等と言うのも、言葉の意味が分かれば、理解出来る筈だ。

特徴で差が生まれない区分において、男女を対等に扱うのに反対する人は、今の世の中では少ないだろう。

これら、平等、公平、対等を使い分けていく事で、多くの人が想像する「男女平等」がようやく実現するのだ。

これらを混同して話をしている限りは、会話は前に進まない。

得をしないは、損?

女性専用車両、レディースデイ、等と言った女性が得をする制度は、平等の話をするだけだと、「無くせ」か「男性版も増やせ」と言う話にしかならない。

だが、区分の外側が得を出来ない、つまり損をした気分になる物は、果たして差別なのか?

これには答えが出ている。

実害が無ければ、損をした気分になるぐらいでは、差別では無い。

女性専用車両によって、客観的に見て明らかな実害が無いのなら、そこに差別は無い。

それはレディースデイも同じだ。

問題となるのは、本来なら実害が無い物に対して、実害を生み出す人だ。

例えば、得をするでは無く、特権にしてしまうと話が変わってくる。

区分の外側が割を食ってしまい、明らかに損をする場合は、そこに納得性が無ければ、もはや差別となってしまう。

レディースデイの割引分を男性客が払うなんて事になれば、その店には納得出来る男性客以外は行かなくなるだろう。

それでも、納得いかなくても、どうしても利用したい男性客は、甘んじて差別を受ける状態となるわけだ。

この、納得性と、選択の自由の有無もポイントとなってくる。

一定の納得性が無く、そこに選択の自由も無く、実害があるなら、それは十分に差別となる。

損を取り戻すための過剰な得は差別?

教育の無償化や、人種や性別による枠の割り当て等は、人によっては差別だと感じるかもしれない。

全員が一律で、完全に実力主義の方が、一見すると公平に見える。

だが、機会平等を考えると、恵まれた環境の人と同じ視線の高さになる様に、恵まれない環境の人に下駄をはかせる必要が出てくる。

個人として見ると、ギリギリ恵まれた環境に入ってしまった人が一番割を食うが、社会として見ると全体の公平性を高める事が出来て、得しかない。

その際、恵まれた環境の最下層にいる、最も割を食った、つまり損をして、実害を被った人は、差別をされたと感じるかもしれない。

これは、差別なのか?

答えは、下駄の履かせ方次第である。

例えば、事前に下駄を履かせる事が分かっているなら、選択の自由がある。

勉学を頑張るでも、自身の生活水準や環境を下げて下駄を履く側にまわるでも、選択肢は沢山ある。

公平を作り出す下駄が、秘密にされている場合、これは問題となる。

選択肢が無く、区分で切り捨てられるからだ。

つまり公平とは、情報がオープンである事が、絶対なのだ。

嘘や秘密がある時点で、それは差別につながる。

避けて通れない話「人種差別」

人種差別は、人種によるレッテル貼りにって実害を被る物だ。

個人の実態と、イメージに乖離がある時に問題が起きる。

日本人なら刺身が好き、イギリス人なら紅茶が好き、アメリカ人ならハンバーガーが好き、と言う思い込みでもてなされたら、レッテルと実態が違う人は実害を被る。

刺身が苦手、紅茶より珈琲、ベジタリアンと言った特徴を持っている可能性があり、イメージと実態が確実に一致しない以上、害が出たら差別となってしまう。

黒人だから運動神経が良い筈、ラテン系だから情熱的な筈、と言った思い込みも、実態と差が大きければ害が出る可能性がある。

大事なのは、社会に対しては社会を、個人に対しては個人を見る事だ。

焦点を正しく合わせられれば、差別は避けられる

上記の、表現の自由関係で多くの不愉快な思いをした人がフェミニストを自称する人達に対して一定の反感を持ったと思う。

ここで、フェミニストを一律で迷惑な人と決めつければ、迷惑でない女性の権利や地位の向上を真面目に考えている真のフェミニストを差別する事になってしまう。

恐らく、ヴィーガンや動物愛護団体、環境活動家も、同じような立場の人がいるだろう。

差別や社会問題の実害を正す為に、新たな実害を生んでいる迷惑な人と一律にされたら、真面目に行動している人達が割を食う事になる。

911テロの後は、イスラム圏の人達がテロリストと一律の扱いを受け、差別に苦しんだ。

こういった差別は、個人を見れば避けられる。

相手をライオンと思っている人には出来ないかもしれないが、野犬なのか飼犬なのか程度の見極めを遠目にできる人なら、差別を避けて個人を個人として評価出来る筈だ。

勿論、全員にそれをしていては、とんでもない時間とコストがかかる。

なので、レッテルを、区分のラベルを見て、全員に当てはまらない物は、実態と違う事を前提に考えれば、それだけで差別は大幅に減らせる。

ちなみに、害を他人に与える人は、実害と実態が一致している状態なので、差別を受けている状態から外れてしまう事がある事も、一応書いておく。

過激派の環境テロリストや、ヴィーガン、フェミニストは、社会問題や差別と戦う為に、自らが社会問題や差別をする側に踏み入れてしまう人がいる。

大抵の場合、碌な結果にならない。

少年漫画じゃないが、復讐は何も生まないし、相手と同じになったら闇墜ちで負けなのだ。

おわりに

差別は、思い込みが生む「間違い」で、差別を受ける側に実害がある物と言う事でした。

これから先も、差別が完全になくなる事は、当分の間は無いでしょう。

ですが、この記事が差別に対抗・抵抗する知恵を得る助けになれば幸いです。

※この記事は、加筆修正する可能性があります。

スポンサーリンク

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください