ポリコレって?
ポリコレは言葉としては1917年に登場したが、ドイツへの皮肉として使われると言う形だった。
現在の意味合いに近づいたのは1940年の事で、生まれも育ちもアメリカの言葉であり、概念だ。
その意味は「政治的に正しい」と言うもの。
で、昨今の「性別・人種・民族・宗教・容姿・職業・文化・信仰・思想・性癖・健康状態・身体障害・精神障害・年齢・婚姻状況・等々」に対してポリコレを叫ぶ人が言いたいのは「政治的に正しい」=「差別・偏見を減らし公正・中立であるか」と言う話になる。
「差別・偏見を減らし公正・中立であるか」と言うフィルターを通し、あらゆる差別的表現、偏見的表現、不公正さ、偏った表現を無くしていけば、一見すると綺麗で理想的な世界に近づく様な気もする。
だが、実際にはポリコレは「使い処」と「使い方」が大事であり、それらを間違えると、本当にロクでもない「表現規制」や「言葉狩り」の口実になってしまう、取り扱い注意の概念だ。
今回は、ポリコレについて解説していく。
ポリコレの利点と欠点
ポリコレは、当たり前になっていた古いルールにメスを入れる切欠となる。
これは、ポリコレの大きな利点の一つだ。
例えば「看護婦は男性もなる可能性があるから看護師の方が適切」みたいな、昔と状況が違い、伝統と現実にミスマッチが起きているルールを修正するには、そこに「問題」が必要となる。
つまり「ポリコレ的に間違っている」事の表明をする事で、問題を提起し、それを訂正する流れを作る「切欠」となる。
一方で、あらゆる物にポリコレと言うフィルターをかけると、中には具合が良くない物が出てくる事がある。
その代表が「創作物」だ。
創作物は、個人やチームが、テーマに沿って一つの物を創作する事で形になる。
なので、絶対に個人やチームの「価値観」が内包される事になる。
創作の際、ポリコレと言うフィルターをかける事で、表現を「差別・偏見を減らし公正・中立であるか」と言う観点から見る事が出来るようになる。
このポリコレフィルターを通す事で、表現は幅広い層に受け入れられやすくなり、結果的に些細な表現の「違和感」から、不愉快になる人を減らす事が出来る。
この使い方は、正しい使い方と言え、創作物に対してもプラスに働く。
だが、間違った使い方をすると、ポリコレフィルターは、創作物を歪に歪める事になる。
あくまでも、ポリコレフィルターは「差別・偏見を減らし公正・中立であるか」である。
しかし、間違った使い方をする人は「差別・偏見で損してきた人達を優遇する口実」に使ってしまう事がある。
悪いと「差別・偏見してきた人を攻撃する表現」にまで変わってしまうのだ。
ポリコレによる「差別・偏見で損してきた人達を優遇する口実」の弊害
「女性を男性と公正・中立にする為に、表現の中で立場を引き上げよう。主人公は女性だし、男性の様に強くしよう」
「同性愛者を異性愛者と公正・中立にする為に、沢山同性愛者を登場させよう」
と言うのが、良く無いポリコレの考え方だ。
主人公が女性でも、男性の様に強くても、同性愛者が沢山登場しても、全く問題はない。
では、どうして、このポリコレフィルターが問題かと言うと、既にある作品の設定を歪めてポリコレに合わせている事に問題がある。
そもそも、本来「政治的に正しいから」と言う理由で、創作物の主人公が女性になったり、同性愛表現が登場する訳ではない。
物語であれば、重要設定や、テーマや、コンセプトに「マッチするからこそ」の、女性であったり、同性愛と言う設定であり、最優先は創作物が「表現したい事」である。
大事な事だからもう一度言うが創作者が「表現したい事」が最優先すべき事であり、その上でポリコレフィルターにかけて直しても「表現したい事」が揺るがない部分以外は、ポリコレに反しているとしても表現として歪めるべきではない。
だから、主人公が男女どっちでも、誰を好きでも、人種や国籍がどこでも良いと言う設定でないなら、無理に、または無暗にポリコレに沿わせるのは得策ではない。
創作に置いて、設定一つとっても「それでなければならない」理由付けが必要になる。
下手に設定を変える事は、この理由付けの根拠となる表現が必要となり、それはやり方を誤れば創作物の雑味となる。
その場合「ポリコレ」を期待する少数派は満足するかもしれないが、「作者の作品」を期待する多数派は、不満が残る結果になる事が多い。
「日本沈没2020」「ラストオブアス2」等の最近の作品は、ポリコレ色が強すぎて、どちらも本来のファンから大きな反発を受けてしまった。
ポリコレに反する人物をわざと悪役として出したり、設定を歪めて世界観から変わったり。
ポリコレフィルターによって歪んだ表現は、見ている側もそこが歪んでいると「しっかり感じ取れる」と言う事を、創作者は理解しておくべきだ。
終わりに
ポリコレは、創作に置いては「より万人受けする為に直せる所を直す為の指針」と言う、フィルターであり、ただのフィルターである以上は、どうでもいい表現は変えれても、設定を変える力は本来は無い、と言う話でした。
余談ですが、少し前にニュースであった「キャラクターの人種と演者を揃える」と言うのは、創作物として表現上のリアリティを高めたりと言った「作品向上」等の目的が無い状態で、行うのは、ポリコレとして見ても間違っています。
本来は、どの人種であっても、誰でも演じる事が出来る(創作物の設定上問題が無ければ)と言うのが、妥当でしょう。
あと「現実の女性や黒人は成功の機会に恵まれなかったから、機会平等を考えて優遇するべき」と言うのも、全ての物や人に当てはめるのは、危険な考え方です。
性や人種差別で機会を得られなかった人に機会平等をもたらす働きかけ自体は素晴らしい物ですが、現実と理想にギャップが大きいほど、ギャップを埋める作業が発生するのが世の常です。
ギャップを埋める努力は、社会として続けなければなりませんが、それが今の世代に実現するかどうかと言うのは別の話です。
ギャップを埋める為に、はかせる下駄が高くなれば高くなるほど別の問題が起きます。
例えば、教育機会を奪われていた人に下駄をはかせて大学まで行かせたとしても、それだけで上手くいく訳が無いですよね。
下駄よりも、ギャップを埋める為の長期に渡る実際の働きかけが、人と人の溝を埋めると言う訳です。