どこからがアウト?
創作において基本的に全ての表現は「モチーフ」を通して行われる。
「モチーフ」と言う「何を表現するか」は、創作とは切っても切り離せない物だ。
そのモチーフとは、物だけでなく「概念」までも含まれ、実に多岐に渡る。
モチーフの中には「犯罪」に類する物も多く含まれる。
そして「犯罪」をモチーフとする創作物は、時に社会的に叩かれたり、規制されると言う事が起きる。
では、どのタイミングで、どうして叩かれたり、規制されたりと言った事が起きるのか、この記事では、その事について考察していく。
犯罪か、タブーか
まず、最初に線引きとして有力なのは、この「犯罪」か「タブー(禁忌)」かである。
犯罪とは、国や地域によって「法的に定められた禁止行為」である。
つまり、殺人も窃盗も暴行も詐欺も違法薬物も一律に「犯罪」と言える。
一方でタブーとは、国や地域によって「慣習的に定められた禁止行為」である。
こちらは曖昧な部分があるが、その地域の共通認識として「ダメ絶対」と大半の人が言うであろう大半の事が含まれる。
例えば「食人」や「近親婚」や「小児性愛」等は、現在は多くの文化圏でタブーとされる。
これら「犯罪」と「タブー」は、時に一致する事があり、それが「タブーとされる犯罪」として、表裏どちらの世界に属していても絶対に超えてはならないラインの一つと言えるだろう。
超えてはならない一線=表立つ事が危険
ここでポイントとなるのが「超えてはならない一線」とは、タブー視する文化圏で絶対に表立って言ったり行ったりしてはいけないと言う所だ。
超えてはならない一線でなければ、それが許容される文化圏では、受容されると言う事だ。
例えばどこかの国の刑務所内で「何をして刑務所に?」と言う囚人同士の会話があったとする。
その文化圏で許容される範囲が広い行いの場合、普通に「窃盗で」等と答える事が出来る。
その文化圏では、当たり前の事だからだ。
しかし、文化圏のタブーに触れていると、例えば「見ず知らずの子供相手に通り魔を」とでも言えば、その文化圏の犯罪に対する許容範囲が広くても、要するに、凶悪な犯罪者であっても「ドン引きする行為」の場合、その文化圏から危険視され、排斥されると言う事だ。
問題は、犯罪を伴わない「タブー」の場合でも、重さは違うが似た現象が起きる。
これが刑務所の様な特殊な環境ではない一般的な文化圏の場合、「人肉の味って気になりますよね」とでも執拗に自己紹介すれば、ハブられる事にもなる。
実際に「タブーを犯したか」どうかではなく、「タブーに興味がある」と言う事で警戒をされる為だ。
その文化圏での「犯罪」か「タブー」か「タブーの犯罪」か、と言う観点が、まず重要となるわけだ。
興味があると、やってしまう?
次に問題となるのは「興味がある」人は、「実際に行動に移すか」と言う問題になってくる。
創作でモチーフとして「犯罪表現」を使う場合に、問題として取り上げられるのは「犯罪に興味を持たせ、呼び水とならないか?」と言う懸念点で話し合われる事が多い。
この問題を語る上で重要になるのは「実行のコスト」と言う考え方になる。
犯罪とは、すべからく「実行のコスト」が異常に高い。
普通の感覚、ここでは「社会的な規範」を理解している人であれば「実行のコスト」が「決して見合わない」と言う事を理解出来る。
犯罪であれば犯人として追われる「それ自体が犯罪者に社会が課したコスト」であり、そんな莫大なコストを払ってまで犯罪を犯す事は、通常の判断能力下では、決してあり得ない。
犯罪の多くは、実行のコストを踏み倒す自信がある(逃げ切る算段、逃げている間も生活を維持出来る計画)か、コストを支払う覚悟がある(逃げ続ける、あるいは逮捕・収監・刑に服する)か、犯罪と認識していない(幼い子供がお店の商品手に持って店から出てきてしまった等)と言う状況があって、初めて行える。
なので「実行のコスト」を考えずに、あるいは考え抜いた末に「実行に移す」と言う事は、大半の人にとっては「面倒くさい」か、馬鹿らしい程に「非合理的」な為、「犯罪表現」によって興味を持ったとしても、実行に移すと言う事は、極稀である。
つまり、99%(感覚値)の人にとって関係無い事なのだが、「1%の人には、影響がゼロではないのでは無いか?」と言う問題が残る。
興味があるから惹かれるか、興味を持ったからのめり込むか
そこで、次に見るべきは「興味があるから創作物に惹かれる」のか、「創作物で興味を持ったからのめり込む」のか?
と言う問題だ。
「卵が先か鶏が先か?」と言う話だが、この問題の答えは簡単だ。
先にも触れたが「犯罪として認識していない」事で起きる犯罪がある以上、犯罪として認識させる事は非常に重要な事となってくる。
その際、ルールを口頭や文面で知らされるよりも、遥かに簡単かつ確実に相手に伝える手段があり、それが『物語(ストーリー)』と言う形で、教訓やエピソードとして伝える事になる。
つまり「犯罪表現」をモチーフとした物語によって、人々は「犯罪」や「タブー」に対して理解を深め、実行コストの重さを疑似体験出来るのだ。
興味があって創作物に触れるなら、そこでコストの重さを体感し、疑似体験して満足する。
偶然触れた創作物で興味を持った場合でも、やはりコストの重さを同時に体感し、コストを払わずに疑似体験をする為に同系統のモチーフを扱った創作物を渡り歩く事になる。
つまり、犯罪をモチーフとした創作物は、現実世界で犯罪者を増やす事は、ほぼ無いと言える。
だが、ここで次の問題が見えてくる。
創作物によって「極めて僅かな確率であろうとも、犯罪者が生まれる事を許容するのか」と言う問題だ。
少数派の為に我慢をするか?
これは、その文化圏の価値観にも関わる問題だ。
犯罪表現が犯罪者を生み出す事は、ほぼ無い。
戦争映画を見て戦争を始める政治家も、ミステリーを見て密室殺人を犯す殺したい人がいる人も、圧倒的少数派である。
でも、「極稀とは言え、実行のコスト計算が上手にできない『ヤバい人』が影響を受けて犯罪を犯すのなら、取り締まった方が良いのではないか?」と考える人がいる。
これに関しては、価値観の問題なので私個人の意見となるが、私は少数派の為に大多数の健全な(あるいは健全を装える、理性ある人々が)我慢をする文化は、それこそ我慢出来ない。
第一、少数派を生み出さない為に「どこまで我慢するのか?」と言う話だ。
例えば、この記事の執筆時、Twitterのトレンドで「ラブドール」がランクインし、一種の炎上騒ぎが起きていた。
これは「表立つことが危険」と言う認識が甘かったユーザーが、見事に表立ってしまい、許容出来ない文化圏の人たちのタブーに触れてしまった事で起きた炎上事故だ。
タブー派の文化圏の言い分の大半を要約すれば「犯罪者予備軍」と言う扱いで、擁護派の冷静な人達の言い分を要約すれば「実際の被害者がいない」「個人で楽しんで何が悪い」「叩きやすい表現を叩いているだけ」と言った感じだ。
で、炎上している人は「表立つことが危険」と言う見えないルールに抵触して燃えてこそいるが、表立って犯罪は犯しておらず、文化圏のタブーに触れる「大きな声では言えない趣味」を持っているだけである。
それ以外は、少数派の「実際に手を出す人」と同列に扱われながら、少数派の為に我慢を強いられている最中と言える。
多くの人は、これが「ラブドール」と言う「実行コストが数十万円で済む疑似体験コンテンツ」ではなく、「犯罪の予行演習」に見えたり、あるいは「気持ち悪い」と感じたかもしれない。
しかし「興味が無い人にとって気分が悪い物を取り締まる」と言うのは、行きつく先はエンタメと芸術の死滅である。
「ラブドール」が「ロリコン漫画」や「エログロ映画」等に変わっても、世間の反応は同じだろうが、例えば「アイドル」に変わった場合、人々はどう感じるだろうか?
現在、日本で活躍している大半のアイドルは、デビューは「未成年」である。
純粋にアイドルとして応援している人が大半だろうが、ファンの中には「性的視線」を送っている人がいる事は、否定出来ない事実だろう。
では「未成年アイドル」を、少数派の危険な存在から守る為に「禁止する」と決まったら、人々はどう思うだろうか?
「アイドルを禁止するのでなく、ヤバいヤツを取り締まれ」と、日本の人は思うはずだ。
比較するコンテンツに隔たりを感じるかもしれないが、これは同じ事だ。
「ラブドール愛好者」は、そもそもが「タブー」の領域にいる為に全く違く見えるが、「アイドルファン」と、「コンテンツ消費者」と言う立場では何も変わらない。
ただ、タブーを意識して「表立って公言できる」か「公言するとタブー文化圏の人に気持ち悪がられるか」の差でしかない。
創作者サイドのモラル
しかし「犯罪表現が何でもやって良いか?」と言うと、それもまた違ってくる。
創作者にもモラルが求められるのだ。
例えば、「犯罪は犯罪として描くか、犯罪と明示する」と言う必要がある。
犯罪行為を表現する上で、実行コストが実際よりも遥かに軽い表現をする場合は、特に「これは都合の良いフィクションである」と言う旨を伝えないと、勘違いをする人が出てくる。
これは、創作者サイドのリスクヘッジであると共に、読解力の低い人に対して暗に「現実でやるなよ」と言う警告でもある。
また、多くの創作物では「犯罪表現」をモチーフにする場合は、過度な実行リスクを同時に表現する。
例えば、残酷描写のある犯罪ゲームとして有名となった「グランドセフトオートシリーズ(GTA)」では、犯罪を犯すと物凄い量の警察がやってくる。
この様に、犯罪表現と社会の犯罪に対する態度は、セットで表現する事が適切と言える。
つまり、GTAは犯罪を取り扱いながらも、非常にモラルを意識させる作りとなっている。
他に「エルダースクロールシリーズ」では、人の物を盗むと人々に警戒されたり、衛兵に捕まったりする。
これも、盗む事ができるモラルの低いゲームではなく、犯罪と罰をセットで描いた教育的側面があると言えるわけだ。
犯罪行為の疑似体験コンテンツの棲み分け問題
上記の様なゲームや、一般作品の場合、犯罪と罰や、実行コストをセットで描く事でバランスを取る事が出来る。
また、大多数のコンテンツ消費者は、まともであり、極少数の「ヤバい人」こそ取り締まるべきと皆が理解出来る。
では「ラブドール」や、興奮を目的とした「エロ漫画」等の、よく叩かれる、叩かれやすいコンテンツは?
犯罪行為を想起させたり、そのまま犯罪行為を疑似体験させつつ、罰をセットで表現しない・出来ないコンテンツは、どう言った立ち位置で存在すれば良いのか?
それとも、存在自体が「悪」なのだろうか?
まず大前提として「モチーフ」と言う何を表現するかと言う地点では「悪」の概念は発生し得ない。
むしろ、危険なのは「表現」としての「何を使って表現するか」である。
例えば「漫画」は、ペンとインクと紙や、デジタル環境であればパソコンと描画ソフトで表現する。
インクの染みや、データで表現していると言う事だ。
そこに犯罪性は無い。
一方で、例えば「人をさらってきてビデオカメラで撮影」と言う手法でも、漫画と似た表現が出来るかもしれないが、これは一発アウトだとわかるだろう。
では、正当な報酬を払い、納得の上で演技をお願いすれば?
ここで、何がグレーゾーンを作り出しているかが分かる。
犯罪における実被害者や疑似的被害者の「納得」、つまり「了承」を得られるか、と言うタブーとは別の問題が発生するのだ。
「納得」と「犯罪やタブー」、両方に問題が無い場合に「クリーンなコンテンツ」となるが、どちらかに問題があると「グレーなコンテンツとなり」、どちらにも問題があると「ブラックなコンテンツとなる」。
で、犯罪行為の疑似体験型コンテンツだが、ゲームや漫画では、当然だが非実在キャラクターを通して表現される為に、納得もクソも無い。
作者が「納得してるよ。劇中劇だよ」と言えば納得している事になるし「20歳以上で判断力のある大人だよ」と言えば見た目が幼かろうが、それは演技をする大人と言う事になる。
特に、見た目の問題は、現実の幼く見える成人は未成年扱いしないと言う大前提がある為、見た目ではなく実年齢で判断される以上、見た目ほどどうとでもなる物も無い。
それがフィクションで非実在のキャラクターなら、議論するだけ無意味と言える。
つまり「ラブドール」だろうが「エロ漫画」だろうが、それ自体には何も問題は無いのである。
問題が発生するのは、タブー圏の人との棲み分けだけになる。
その際、まず気にするべきは、タブーを犯す疑似体験を欲する側の意識となる。
コンテンツがクリーン(同意が得られるか必要なく、犯罪もタブーもない)であれば、公言できる。
コンテンツがグレー(同意が必要なく、犯罪やタブー)であれば、公言する事はリスクにつながる事は、しっかりと意識しておくべきだ。
うっかりタブー圏の人の目に触れてしまったら、悪者として徹底的に叩かれる事となる。
これは、一種の差別にも見えるかもしれないが、文化的にタブーに触れている以上は、排斥や排除を試みる反応が来るのは、仕方がない部分がある。
これは、コンテンツクリエイター側も、消費者側も、である。
コンテンツがブラック(同意が必要かつ、犯罪やタブー)の場合、そもそも許されない。
同意を得たとしても、タブーに触れてる時点で、ブラックなコンテンツが許される事は決して無いのだ。
日本と外国の違い
例えば、日本以外の外国では、「ロリコン・ショタコン表現」は「タブー」かつ明確に「犯罪」となっている所が多々ある。
その文化圏では「タブーかつ犯罪」なので、アウトである事が分かるだろう。
一方で、歪んだ建前社会の日本では「登場人物は18歳以上です」の注意書きによって、表現は許容されている。
それが「おかしい」とか「気持ち悪い」と感じるのは、十分に理解出来るが、そういう文化である以上は、我慢出来ないなら外国に引っ越すか、政治家になれば良い。
全く反対に、タブーでも犯罪でも無い国も、歴史的に見ればいくらでもあったし、現在もそうである地域と言うのは、僅かにだが残っているなんて話もある(結婚年齢が10歳前後とか)。
そうなってくると「世界的に子供を守ろう」と言う外圧が日本にかかる事も理解出来る。
この動き自体は、良い事だが、これと「表現の自由問題」は、表現対象が「タブーに触れている」点で関係しているが、同列に語って良い物ではない。
先にも書いたが「不愉快な表現を全て無くす」とか「社会的タブーに触れている表現は許さない」と言う事の行きつく先は、エンタメや芸術の死滅だ。
これに異を唱える人がいるが、異を唱えようが無い事実である。
異を唱える人に問いたい。
「あなたの好きな物を全員が好きですか?」と。
興味ない人もいれば、必ず「不愉快」に感じる人もいるのが、表現だ。
なので、表現の規制は、子供を救うと言う普遍的な物の様に一律で語るべきではなく、慎重に行わなければならない。
それが「どんなに不愉快な表現」であってもである。
これは、別の物に例えると、もっと分かりやすい。
例えば、極端な話が「異常者に人権は必要か?」と言う話だ。
法治国家である以上、人権は全員に平等であり、犯罪者になってしまった時に初めて取り締まられるが、その時でさえ人権は守られるのだ。
表現も、同じ事なのである。
問題は、TPOを無視しすぎると、ドレスコードと同じように周囲から白い目で見られると言う事だ。
犯罪行為疑似体験コンテンツの存在意義
「未成年を性対象としたエロ漫画」「未成年サイズのラブドール」「暴力ゲーム」と、コンテンツカテゴリーの中に犯罪を内包する要素が存在し、その疑似体験の為に生み出されるコンテンツ達。
タブーや犯罪の疑似体験を、エンタメとして楽しむ事、それ自体に問題は無いのだろうか?
と、考える人もいるかもしれない。
これは、上記した棲み分けさえ出来ていれば、ハッキリ言って問題ない。
この疑似体験コンテンツ達は、クリエイターやアーティストの想像した世界観の具現化である。
つまり「創作者の妄想」に実体を与えた物である。
妄想をする事は?
当然だが、合法である。
「想像」する事は、少なくとも現代においては、一切の罪に問えない。
想像の産物を創作する事も、想像のアウトプットでしかなく、本来は何をアウトプットしようが罪にはならない。
では、何が罪になるのかと言えば「行動」である。
準備を具体的に進め、実行に移したりしない限りは、罪にならない原則がある。
想像の産物をいくら持っていても、行動に移しさえしなければ、表現がタブーを犯していたとしても、無害なのだ(棲み分けに失敗すると不快に見られるが)。
では、犯罪の疑似体験コンテンツの存在意義は、何だろう?
犯罪の疑似体験による、犯罪の抑止だろうか?
そんなのは、建前でしかない。
エンタメの基本は、感情を動かす、つまり興奮させる事にある。
つまり、格好つけずに存在意義を言えば「それに興奮する」人を満足させる為にある。
その結果、犯罪が減る事は恐らく殆どない無いし、逆にそれで増える事もない。
どんなにタブーや犯罪でも、そのモチーフで興奮してしまう人がいる以上は、その人達が興奮する妄想をする権利は、誰にも奪えない。
想像の共有をしたって、それは想像でしかない。
実際のタブーを犯したり犯罪行動に出ない限り、実体のあるコンテンツに触れていようが、想像しているだけなのだ。
犯罪の疑似体験コンテンツは、一切の罪にはならないが、タブーや犯罪に触れる以上、棲み分けが必要と言うだけなのだ。
取り締まりたい側の領海侵犯
しかし、この問題を複雑にするのは、コンテンツ作成者や消費者側だけではない。
「不愉快警察」とでも言うべき「自分は清廉潔白だから不快な物を叩こう」と、わざわざ犯罪行為の疑似体験コンテンツを探し、棲み分けが出来ていたとしても乗り込んでいって取り締まろうとする人々がいる事で、事態はややこしくなる。
これは「伝統的に野生動物を狩って生活している原住民がいる所にわざわざ行って、動物愛護を声高に叫ぶ迷惑系活動家」と何ら変わらない。
タブーや犯罪への「拒否反応」は、自身の文化圏を侵犯された時に行う事であり、他所の文化圏に乗り込んで行う事では、基本的に無い。
その文化圏には、その文化圏なりのルールがあり、それが、傍から見てどんなにバカらしかったり不条理や不合理だとしても、他人に口を出されてすぐに直す様な事ではないからだ。
例えば、あなたが自室で未成年の美少年や美少女が登場するエロ本を読んでいて、いきなり親が部屋に入ってきてあなたにキレ散らかしたら?
あなたが、リビングでエロ本を読んでいたら、家族にたしなめられても文句は言えないだろうが、これも文化圏の衝突と言える。
TPOは、取り締まる可能性がある側にも、大いに必要なのだ。
それを守れずに、不愉快だと家族があなたのコレクションを全て処分したら?
そこで争いが起きる事は、分かるだろう。
家族に対してTPOを守れても、赤の他人に対して守れない人も、その反対の人もいれば、どっちも守れない困った人も、世の中には大勢いる。
あなたがコンテンツの制作者や所持者であれば、自分がタブーを犯したコンテンツを持っている自覚と棲み分けをしっかり行い、表に出していいかはTPOをしっかり見定めよう。
その上で、棲み分けているのに領海侵犯を受けた場合は、相手にしてはいけない。
だが、うっかり自分がタブーを公表してしまった場合は、痛みを覚悟する必要がある事は心に留めておこう。
タブーや犯罪をエンタメやアートとして消費している時点で、一定の後ろめたさは、世界・国・地域と言った大きな文化圏に対しては、持っておくのが、恐らく周囲の人間が望む姿だからだ。
人を傷つけるモチーフの境界線
犯罪やタブーを扱う以上、創作者にはモラルが求められる事は既に語った。
だが、他にも実は気を付けなければならない事がある。
それが「人を傷つける表現」だ。
これは「不愉快」とは、明確に違う。
不愉快とは、気分を悪くする以上に害は無く、見る側が避ける事で被害を受けないで済む。
つまり、棲み分けるだけで、無害となる。
ここで言う「人を傷つける」とは、「不愉快」を通り越した表現である。
それは、「個人攻撃」だ。
犯罪をモチーフとする創作を行う際、モチーフとして実際の事件や出来事を扱ったり、ベースにする事は、よくある。
だが、ここで、犯罪者だから、あるいは、被害者だからと、安易にモデルにするのは「個人攻撃」になってしまう事があり、実は危険をはらんでいる。
どんなにその人を「あなたが嫌い」とか「みんなが嫌い」とか「みんなに嫌われている」としても、想起させる以上は、完全にフィクションか、本人が見ても許せるレベル(イメージではなく、本人に見られてマジで訴えられないと言う事)でないと、痛い目を見る事になる。
個人攻撃や品位や尊厳を貶める表現は、モチーフ当人が住み分けて見ないとしても、その周囲の人が間接的に影響を受ける範囲にいて見れば、接触する可能性があり、棲み分けが難しい上に、名誉棄損にでもなれば洒落では済まされない。
例え、ほぼ確実に犯罪者だとしても、刑が確定しない限りは下手なモチーフ化は危険である。
冤罪事件の可能性が無い訳でないのだ。
モチーフとして扱うのは、モチーフとなる当事者本人が既にいないか、当事者本人が納得しているか、刑が確定している等、「状況が安定してから」の方が安全と言う事である。
そうでない場合、加害者となるのは創作者側になるリスクがあるからだ。
終わりに
以上、犯罪表現に対する考察でした。
思想が違う人が見ると、恐らく「被害者を減らす為なら取り締まれ我慢しろ」と思うかもしれませんが、優先して取り締まるべきはコンテンツではなく、行動に移した犯罪者の方です。
罪を犯す人は、コンテンツが無くたって罪を犯します。
残念ながら、コンテンツを取り締まるぐらいの事で犯罪が減る事は、ほとんど無いです。
紀元前のエジプトで人類最古の創作小説が生まれたと言われます。
つまり、それ以降に具体的なコンテンツが生まれていった訳です。
紀元前のコンテンツが生まれる以前のエジプトは、犯罪の無い理想郷だったと思いますか?
それ以前の絵画や、洞窟壁画が描かれる以前でも良いです。
コンテンツが犯罪を作る事はありません。
あえて言うなら、自己中心的な考えや、嘘が犯罪を生み出します。
想像の具現化を止めても、脳に想像力がある以上は、人を止める事は出来ません。
それさえも取り締まると言うのなら、その先にあるのは完全なディストピアです。
「じゃあ、コンテンツ由来の事件で実際に被害にあう人が生まれても良いのか?」と反対の思想の人は思うでしょう。
恐らく、コンテンツ由来の事件を想像すると怖くて、気味が悪くてたまらないでしょうが、逆に「コンテンツを取り締まっても事件は大して減らないのに、なんでコンテンツにこだわるの?」と言う話で、結局は嫌いな表現をていよく弾圧している人が殆どです。
本当に犯罪を減らしたいのであれば、コンテンツではなく、犯罪の実行コストが高い、平和で幸せな社会を目指せば良いので、本気で有害コンテンツ弾圧が世界の為だと考えている人は、どこかでピントがずれています。
本当に行きたい目的地は、あらゆる人にとって有害コンテンツの一切ない(つまり、コンテンツの無い)不寛容な世界か、棲み分ける事であらゆる物をエンタメに昇華出来る寛容な世界か。
その両極端な世界の間にある、良いバランスの世界を模索する事が、コンテンツの表現を考える事になります。
どちらの世界にも、どんなに取り締まってもどうしようもない犯罪者が絶対にいて、それに伴う不幸な被害者もいるのなら、どちらに住みたいかだと思う訳です。