評価・批評について考えてみた
創作物に対する「レビュー」は、昔から重要な物とされてきた。
現在では、インターネットを通じて共有される事で、この重要性は、更に高まっていると言える。
今回は、そんなレビューについて、考察していく。
良い・普通のレビュー
感想(客観的評価)
例えば、絵を始めとした創作物、劇、歌、味、体験、等に対する「感想」は、最も基本的なレビューである。
知人から「あれは良かった」とか「あれは今一つだった」と感想を聞く事で、あなたは興味を持ったり、反対に興味を急速に失ったりする訳だ。
レビューとは、この様に触れた事が無い物に対する「客観的評価」を受け、第三者が選択するか否かを判断する事に役立つ。
この、客観的とは「あなた以外」と言う意味で、評価者は当然、主観で評価をする事になる。
逆に、あなたがレビューをする場合も、あなたは「あなた以外」に客観的であるが、あなた自身は、どんなに排そうとしても主観を持って評価をする事になる。
共感(共有)
次に、触れた事が無い人に対してでなく、触れた事がある人に対しても含めた感想が、共感を呼ぶレビューである。
「あのシーン、よかったよね」とか「あそこが酷かったよね」と言う、具体的な個所を想起させるレビューだ。
これは、共通認識を持っている作品に触れた人ほど、同意する事になるレビューだ。
しかし、作品に触れた事が無い人にも、有用となる事がある。
強烈な感情を共有したくなる様な要素が存在する作品だと、事前に分かる事で、その共感グループに所属したいと言う欲求を呼び起こす事があるからだ。
みんなが「あのシーンは、泣けるよね」と言っていると、そんなに泣けるなら自分も泣いてみたい、本当に泣けるか試したいと思うのが人と言う物だ。
使い方次第のレビュー
ネタバレ(具体的警告・内容提示)
途端にレビューとして人を選ぶ様になるのが、ネタバレだ。
これは、作品の重要な仕掛け、どんでん返し、オチ、あるいはほぼ全てを要点を絞ってさらしてしまう。
作品によっては、ネタバレのレビューをされる事で、面白さが大幅に減衰する事がある。
そういう意味では、作品にマイナスな作用を及ぼすレビューになる事もあるので、取り扱いは注意が必要となる。
しかし、ネタバレの「要素」を、物語の大仕掛けではなく、注意点や敷居を高くしているポイントに絞ると、作品の面白さを損なわず、作品に触れやすくする事になる意味で、大変有用となる。
例えば、推理モノで「犯人はあいつ」と言うレビューは、良くなく、「動機がこんな事だった」なんて書くと、もう面白さは大幅減だ。
だが「ハッピーエンドだった」とか「子供と犬は死なない」とか、反対に「バッドエンド」とか「ゴア表現がきつい」的な、表面からは分からないネタバレであれば、面白さを損なわず、安心して見る事に役立つ。
プロモーション・予告・宣伝
プロモーションや予告は、作品提供者側から与えられる、期待を煽る事前情報だ。
これは、作品の提供者による、事前レビューと言って良い。
しかし、自分の事を自分で良いと言う事は、信用出来るのかと疑問が残るので、試写会や先行して提供・上映された場所で集めた感想を、共に添えて信頼性を高める手法がとられる事が多い。
「全米が泣いた」「全米初登場1位」とかの煽り文句や、「最後の方は涙が止まらなくって」と映画館から出てきた人がカメラに向かって語ったり、映画の上映中に観客が泣いたり笑っている姿を撮影して使う様な手法がよく見られる。
だが、見る人によっては、第三者の意見が少ないプロモーションや予告を、最初から信用していないと言う人もいる。
これは、長らく「広告会社」が見る人を騙すような広告を平然と作ってきた歴史による、大きな弊害と言える。
良くないレビュー
一方で、どう解釈しても、良くないレビューも存在する。
良くないレビューは、総じて「作品に触れる人が損をする」レビューとなる。
実際にレビュー対象に触れないと分からない嘘
最も許されないレビューは、嘘だ。
事実と異なる事は、決して書くべきではない。
例えば、バナナのレビューで「痛いぐらいに辛かった」と書かれていたら、味覚がおかしい人の感想か、いたずらと思うだろう。
分かる嘘も、決して良くは無いのだが、無害な事も多い。
問題となる、レビュー対象に触れないと分からない嘘は、本当に害悪でしかない。
インスタントラーメンのレビューで「味がとても薄く、写真より具は小さく、麺も美味しくなかった」と、事実と異なる嘘を書かれれば、以前より売れなくなる事は想像できる。
少なくとも、新規で買う人は、かなり減る筈だ。
映画の予告で「純愛ラブストーリー」とうたっておきながら、映画の内容が「ノワール(マフィア・ギャングもの等)」だったら、観客は騙されたと思うだろう。
例え「ラブストーリー」の要素があっても、見せ方に騙す意図があれば、それは嘘となる。
宣伝を見てカーナビだと思って買ったら、カーナビ付きの車が来てしまったら、困惑するだろう。
訴求する対象の主体も、付属品も、勘違いが起きない様に、しっかりと明言する必要がある。
感情的過ぎる
レビューとは、客観的な評価である為、感情が乗っても良いのだが、感情的過ぎる場合は、大きな問題となる。
例えば「気に食わないので0点です」と言うのは、極稀に見るが、超感情的なレビューだ。
レビューする以上、根拠を示す必要があり、その根拠を示す為には、少なからず論理的な考え方を必要とし、論理的とは、そのまま客観性に繋がる。
レビュー対象外を加味する
漫画のレビューで「作者の事が嫌いなので、0点です」とか、時々ある。
アプリのレビューでも、「オレのガチャだけ渋い、星一つ」とか、稀に見る。
問題となるのは、評価は作品にするべきであり、作者がクズ野郎かどうか、自分がラッキーだったか否かは、関係ない。
もちろん「無料ガチャを200回は回したが、総じて渋い」と言う客観的な意見なら、それは役立つレビューとなるが。
創作物は、作者とは切り離して考えられる、子供のような存在だ。
誰かの子供に「親が犯罪者だから、お前もきっと犯罪者になる」と言っている人がいたら、ちょっと待てと言う話になるのは分かるだろう。
作者の影響を作品は受けるが、作品に問題のある部分が無い限りは、作品に罪は無い。
親の影響を受けて犯罪をした時、初めて子供も悪い事になる訳で、無罪の子供を親の咎で責めるのはお門違いである。
個人攻撃になっている
作品をレビューする以上、作品には製作者が存在する。
その際「作者のセンスを疑う」とか「この発想はサイコパスのそれ」とか「バカな作者じゃないとこの発想は無理」とか、作品を引き合いに、作者にダイレクトアタックをするのは、マナー違反である。
作者が作っている以上、作者の中から出てきた発想である事は、間違いないが、それを作者がどういう意図で表現しているかは、作者にしか分からない。
分からない以上は、それは推測でしかなく、事実のみを述べる正常なレビューの原則に反する。
どんなに作者が何も考えていなさそうでも、作品を客観的に見る方が、推測が減る分、レビューとしての精度は高くなる。
もちろん、感想として「作者はこんな人かもしれない」と書きたくなる時もあるだろうが、その際は、個人攻撃ではなく、客観的な個人の感想に留めた方が上品になる。
レビューの有効性
上でも触れたが、レビューには「客観性」が重要となる。
当事者による宣伝は、それだけで客観性が低いとみられる。
だから、多くの人は商品を買う際も、販売者の商品紹介ページよりも、レビューが集積しているAmazonや価格ドットコム等の方を信用する傾向が強い。
更に、レビュー数が少ない物より、多い物を見て、総合的に信用する様になっている。
レビュー汚染問題
昨今発生しているのは、レビューの有用性を利用した「レビュー汚染」だ。
一部の業者や悪意ある人々による「嘘の高評価」「嘘の低評価」が膨大な数つくと、レビューが正常に機能しなくなる。
レビューに嘘が混ざっている事が前提になると、客観性による判断がし辛くなって結果的に「人々が本当に求める物」に辿り着く事が難しくなる。
そうなると、不特定多数による数によって客観性が担保されていたレビューよりも、高レベルなレビューをする個人や媒体への信用度が、相対的に上がる事になる。
レビュアー、レビューシステムへの信用度
レビューシステムが汚染を浄化出来ないと、判断し辛い商品の判断は、特定の専門性を持ったレビュアーに依存する事になる。
例えば、長らくテレビゲームのレビューは「ファミ通クロスレビュー」が権威を持っていた。
徐々に、レビュー汚染(ゲーム会社に金貰ったんじゃないかレベルの、大作っぽいが中身がクソゲーへの良い評価があった)が噂され、大作ゲームに関しては信用を失った時期もあったが、低評価レビューへの信頼性は、依然として高いままだった。
40点満点で、40点は信用できなくても、12点とかは信頼度抜群と言った具合だ。
これは、グルメサイトの店舗への☆評価でも、同じ現象が起きている。
有料会員にならないと、星評価が一定以上は上がらないと噂されるサイトが実際にあり、どんなに美味しい料理を出し、大人気だとしても、星が3.5以上行かないなんて感じだ。
そうなると、ファミ通と同じく、星が3以下のヤバそうな店の口コミは信用できるが、上位の店への判断は、難しくなる訳だ。
アマゾンも、レビュー汚染が深刻な為、レビューの真贋を判断する必要がある。
有名人やインフルエンサーも、企業案件によってレビューをしている事が明らかな場合が多い為、信用度と言う意味では危うい物がある。
信用度の高い個人
そこで、人々が頼りにするのが、個人レビュアーである。
例えば、アマゾンレビューには、レビュアーランキングがある。
ランキング上位に食い込むには、レビュー数と、レビューが役立った数等が関わってくるので、役に立たないレビューをしてもランキング上位に行くのは難しい。
これも、汚染される危険性はゼロではないが、真っ当な個人によるレビューであれば、そこには一定の信頼性がある。
レビューの絶対数よりも、一人でも信用できる個人の評価者の方が信頼度が高いわけだ。
レビュアーの専門性
個人レビュアーの信頼度は、レビュアーの属性も加味する必要がある。
例えば、一般人目線や、初心者目線のレビューは、幅広い人に役立つ。
専門家目線のレビューであれば、専門家ならではの切り口での評価によって、更に踏み込んだ情報を得る事が出来る。
ここで重要なのは、誰でもレビューを行って良いと言う事だ。
非専門家は、レビューをするべきではない?
時々、作品の感想に対して「ボロクソ」にレビューされ、それに対して「そんなに文句があるなら、自分がもっと面白い作品を書いてみろ!」と言う創作者がいる。
確かに、創作者からすると、自分の作品がボロボロに悪く言われるのは、自分の子供を赤の他人が「バカだな」とか「親そっくりのバカ」と言っているのに等しい腹立たしさがあるだろう。
しかし、それで「同じ立場に立ってから評価してくれ」と言うのは、言いたい気持ちは理解できるが、明らかに間違っている。
例えば、サッカーでプレイミスをした選手に「へたくそ」と野次が飛んできて、その選手が「なら降りてきてお前がプレイしろ」と言ったら、どうだろうか?
そうじゃないだろ、と思うだろう。
レビューは、誰でも「事実」に基づいていれば、自由にして良いのだ。
まあ「言い方」は、ある。
「へたくそ」と言われて気持ちが良い人は、あまりいない。
だが、悪い言い方の責は、レビュアーにあって、それでコンテンツ提供者側が「同じ目線みたいな言い方をするなら、同じ目線に立て」と言うのは、断じて違う。
あくまでも「悪い言い方をするレビュアー」と言う責任を、レビューしたレビュアーが背負うだけでよく、そこで「相手に目線を合わせる事を求める創作者」になってしまったら、「下手な都合の良いレビュー」か「本当に目線が同じ、同業者のレビュアー」からのレビューしか来なくなる。
自分の作品を悪く言うレビューが減れば、気分は良いかもしれない。
だが、これはこれでレビュー汚染となる。
レビューする人の大半は、一般人である。
つまり、良いレビューばかりが目立つ状況になると、その作品が合わない人が間違って手を取る確率が上がるのだ。
商売的には、良い事に思うかもしれない。
短期的には、売り手側には良いかもしれない。
問題は、長期的に見た時だ。
一般人は、馬鹿ではない。
レビュー汚染に引っかかれば、次回は警戒する。
つまり、長期的に見ると、レビュー汚染された作品と作者と言う印象が残る事になる。
このイメージは、単純に作品と作者の信頼度に関わってくる。
この作者の作品は、レビュー汚染されているから信用出来ないとなれば、当然、最初期に間違って手に取った人が減り、結果的に売り上げは減っていく。
だから、長期的に見ると、良いレビューの水増しも、悪いレビューの削除も、作品の為には、決してならない。
あるがままを受け入れるか、良いレビューも含めて求めないと言う公正さが必要となる。
売れる物が良い物では無い
レビュー汚染の有無とは関係なしに、売れる物ほど質が良いなんて事は無い。
大事なのは「マッチング」である。
ある人にとって良い物でも、ある人にとっては悪い物に感じるなんて事は、良くある。
また、沢山売れている物が優れているのであれば「ミシュラン3つ星レストランの料理」よりも「マクドナルド」や「うまい棒」や「柿の種」が優れている事になる。
売れる物が正義とは、かなり乱暴な考え方だ。
もちろん、売り上げがある物の方が、売れていない物よりも優れている点は、ある。
だが、それは、あくまでも「同じ土俵での比較」であり、それでさえ、単純な比較は出来ない。
「ドラゴンボール」「ワンピース」「鬼滅の刃」「ジョジョの奇妙な冒険」を、ジャンプの大作と言うくくりで比較しても、作品のモチーフ、ジャンル、年代、様々な要素で比較は難しくなる。
また、売れているほど優れている訳ではない事も、同時に分かる。
商業的には、最短で最大の利益を出したコンテンツが優秀かもしれないが、商業的な切り口で全ての創作物を語るべきではない。
最も多く擦られた本は「聖書」だが、最も有用で面白いかと言われれば、人によってかなりのバラツキがある筈だ。
金銭や印刷数を含むコンテンツの量の多さは、指標の一つに過ぎない。
あくまでも、マッチングが重要であり、レビューはマッチングを最適にする為の物でしかない。
酷評は、創作者の為になるか?
せっかく作った作品が酷評されてしまった。
辛い。
これは、作者の為になるか?
これに関しては、作者の受け取り方次第である。
例えば、人にどう見られているか、と言う客観性は、作品の向上やクオリティアップには不可欠な要素だ。
そういう視点で見られると、酷評は、ここを直せば良くなる「可能性がある」と言うポイントを知らせる物になる。
もちろん、それが見当違いであったり、自分が表現したい方向と違う場合もあるが、その判断をするのは、作者となる。
しかし、酷評によって、次回作を作る事が怖くなったり、モチベーションが下がってしまうと言う創作者も、大勢いる。
そうである場合、酷評は、創作の妨げになる為、マイナスに働く。
しかし、レビュアーが何を書いても、それが「作者への個人攻撃」でない限りは、レビュアーに罪は無い。
あくまでも、事実を述べている場合だが。
その場合、作者側で、エゴサーチを控えたり、出来るならレビュー機能を停止したり、わざわざ送られてくる感想やらメッセージを、誰かに事前に見て判断してもらう等、自衛をする必要がある。
レビューする事は、マッチング精度を高める意味で、とても意味がある事だ。
感想やレビューが欲しいなら、酷評も受け取る必要がある。
どちらかだけを受け取りたいなら、言論弾圧ではなく、自分の方でフィルターを用意する必要が出てくる。
面倒に感じるとは思うが、長い目で見ると、レビュー汚染は少ない方が良い。
終わりに
色々な観点で考察してきた。
あくまでも私の考えだが、レビューは「人と何かを最適な形でマッチングする為のツール」だと考えている。
なので、レビュー汚染は、本当に危惧すべき事だと感じている。
レビューを信用できない事ほど、マッチングを遠回りする事は無い。
私自身、良くレビューをするので、知られていない作品や商品が、誰かが興味を持って手に取ったりすると、マッチングの役に立てたと嬉しく思う。