作品の作者分身度合いを考える
「矛盾だらけでつまらない」「登場人物がナチュラルサイコパス」だから作者もそうだろう。
もしくは「作者が犯罪者」「俳優が犯罪しちゃった」だから作品も犯罪者の様に制限しよう。
こういう考え方は、現代の世の中に蔓延っている。
昔から根強く信じられている。
共通認識としての正解が、恐らくだが、まだ無い問題だ。
今回は、この問題について考えてみたい。
「作品=作者派」と「作品=作者の子供派」の争い
これが基本だと思っている。
先に言っておくと、私は「作品」とは、作者の子供の様な存在だと考えている派だ。
「作品=作者」に近く感じる作品もあるが、それでも「作品は作者の子供」と言うスタンスを崩す事は無い。
本人か、その子供かの解釈で起きる違い
まず、作品を作者の分身と考える場合は、作品の引き起こす全ての事象の責任を作者が負い、作品も作者の人間性も含めて見られる事になる。
一方で、作品が作者の子供と考える場合は、作品に遺伝的、思想的、教育的、愛情的、保護者的、様々な責任は背負っているが、作品の引き起こす全ての事象は作品自身に込められた力であって、作者の責任はあくまでも間接的だ。
この考え方は、反対に実際の人に当てはめて考えて見ても面白い。
子供を「親を部分的に反映した不完全な複製体」と考えるか「親の影響を受けた別の存在」と考えるかぐらい違う。
また「子供は親の物」と考える別派閥の人は、また違う考え方を持つかもしれないし「子供は家の物」と考える人は、チーム、サークル、会社、等の生み出した母体にこそ責任があると考えるだろう。
時代や文化の価値観によっても違うし、人に対してと人以外に対してでも変わってくるだろうが、考え方としてはおよそ合っている筈だ。
作品内にいる作者
作者が生み出す以上、そこには作者の要素が入り込む。
趣味、手癖、嗜好、思考、思想、倫理、道徳、技術、等々だ。
子供には両親の遺伝子が受け継がれる様に、作品には作者の創作遺伝子が受け継がれる。
登場人物の思考がそのままの時もあれば、作者が見た事がある人の思考がトレースされる場合もあるし、作者が求めている思考をシミュレーションしている場合も、登場人物を通してより大きなテーマを描こうとしている場合もある。
そう考えていくと、作品内にいる作者そのものは、多い作品もあれば少ない作品もある事が分かるだろう。
実写俳優の即興劇と、大勢のクリエイターが関わった大作アニメ映画では、感じる作者率は大きく違う筈だ。
ここからは「作品=作者の子供」と言う考えをベースに少し話していく。
ダメな作品は、不良な子供
出来の悪い状態で無理やり発表された作品の多くは、何かしらの育児放棄や虐待をされた子供だと私は考えている。
人によってはキツイ例えだ。
親からの暴力、悪い教え、教育の放棄、過度の放任、等の環境で育てられ、枠からはみ出したイメージが近い。
だから、作品がどんなにダメでも作者には、一定の責任はあるが、全責任は無い。
子供を育てる親の力不足や、悪意には、子供を歪ませたのなら責任はある筈だ。
でも、だからと言って子供が事件を起こした時に、親が同罪になる事は無いだろう。
ただ、同罪にならなくても「周囲の大人に恵まれなかったのかな」と、外野に思われるぐらいは仕方がない事にも思える。
子供は、理想論では、まず愛情を持って育てるべきだし、問題児のまま放置するのを好ましいとは言い難い。
ダメな作者は、至らない親
作品はすごく良いのに、作者でガッカリする経験をした事がある人は、いると思う。
でも、良い作品には、その親なりの愛情が注がれていて、そこには嘘はない筈だ。
例え、赤の他人には酷い事をする様な親でも、自分の子供を愛しているなんて事は、良くある。
出来が良い子供の将来が、ダメ親を否定する為に閉ざされるのは、可哀そうでは無いだろうか?
もし、その理論が社会的に成り立つのなら、一度でも大きな失敗をした人は、子供にまで咎を背負わせる事になってしまう。
また、ダメ親の子供が成功しているからって、嫌いな親を援助する事を止めさせるために子供まで破滅させるのは、明らかにやり過ぎだろう。
終わりに
皆さんは、どうお考えだろうか?
作品は、作者自身か、作者の子供か、作者個人の物か、関わったクリエイター・アーティスト全員の物か、責任の主体はそれぞれが持つのか、一心同体なのか……
他にも、色々な考え方があると思うが、いずれにしても創作物と創作者と、創作物を愛する人が幸せになれる環境を望みたいと思う次第だ。