対話だけでは、全ての問題を解決出来ない
正義とは何か?と言う記事で以前、正義は相手とのコミュニケーションが「絶対条件」に入ると言う話をした事がある。
立場が違えば正義が違う事がある為、「対話」が前提として正義には必要になると言う事だ。
で、対話をする場合、人の数だけ意見があり、その中には綺麗な答えが出ない話題もある。
そう言う場合、対話で結論が出せない問題の、結論の出し方について今回は話をしていこうと思う。
対話する姿勢は正義だが、対話で答えを出そうとすることが正しいとは限らないと言う話だ。
対話は出来るが答えが出ない問題の認識
まず、前提として、答えが出ない問題がこの世には存在する。
答えが出ない問題は、対話その物が目的になってしまい、どんなに時間をかけても答えが出ない。
その前提を理解しないと、答えが出ない事に、延々と無駄な時間を使う事になる。
残念な事に「民主主義は対話で答えを全て出せる」みたいな幻想を抱いている人も、時々見かける。
だが、この認識はハッキリ、かなり大きな間違いだ。
では、どういう問題が、答えが出ないのだろうか?
答えが分からない事
これは、かなりシンプルだろう。
答えが分からない事は、対話で答えが出る筈がない。
対話で出来るのは、分からないなりにどうするかと言う相談であり、予想の共有であり、見えないままに進む方向を決める落としどころ探しになる。
例えば、
- 未来
- 未解決問題
これらを話題にしても、答えは対話では出て来ない。
答えが出せたら、未来人か預言者か、世界一の天才がその場にいる。
その人の話をよく聞こう。
だが、そんな事は、普通は無い。
未来は、実際に未来が訪れないと正確には分からない。
未解決問題は、問題を解くしかなく、答えを見つけるのに対話が必要ない事の方がむしろ多い。
対話は一種の衝突だが、問題解決の基本は協力にある。
そこで、答えが分からない事について対話する際は、どういう方向性で協力出来るのかの話し合いになる。
もちろん、協力出来ないで終わる事もあるし、方向性が定まらない事もある。
その場合は、現実を受け入れるしかない。
並行・並列同時に存在しうる、定量化不能な物の優劣
いきなり分かりにくいかもしれないが、順に説明する。
並行・並列同時は、比較する物が同時に存在すると言う事だ。
既に存在している場合も、理論的に同時に存在が可能と言うだけでもOKだ。
定量化不能とは、優劣の基準が数字化出来ないと言う事になる。
大抵の場合は、「気持ち」と言う奴を指す。
これが同時に当てはまると、もう優劣の答えは綺麗に出ない。
例えば、仮に「宗教を世界で一つにする」みたいな会議が行われたとして、結論は対話で出ると思うだろうか?
まず、出ない。
もし両者が納得出来る答えが出るとすれば、話し合っている人達が、予め落としどころを共有出来ているからであり、対極な立場の人による純粋な対話で答えは出せない。
もし、それで答えを出すことこそが民主主義と思っているなら、それは大きな間違いだ。
そんな物は、事前の根回しと、既定路線で進む、独裁主義である。
仮に、定量化を試みて「信者数」や「創設年」で数字のバトルをした所で、どれか一つに決まる事も無いし、全部の要素を併せ持った一つの宗教が出来る事も無い。
宗教の良し悪しは、綺麗に定量化出来る物では無いし、並列での存在が可能だからだ。
これは、十字軍遠征や聖戦などの侵略行為でも綺麗に一色に染めるのが困難なぐらい、難しい事だ。
宗教以外にも、好きな炭酸飲料、好きな携帯電話会社、好きなコンビニ、こう言った「好きな」みたいな定性的尺度の優劣をつけようとする事は、対極の立場での対話では不可能である。
宗教の場合は「改宗」が存在するが、これは対話では無く、改宗する理由が予め存在しての改宗であり、対話による純粋な「改宗」は困難を極め、ほぼ不可能だ。
「好きな」または「嫌いな」を定量化するには、数字の根拠となる指標が必要不可欠になるが、それで何かが変わる事は、ほとんど無い。
映画ランキング、芸能人ランキング等も、興行収入や人気投票で優劣こそ付けられるが、ランクが付いた所で、それは指標の一つにしかなならない。
例えば、ジブリが好きな人は、鬼滅の刃が興行収入1位だからと言って、ジブリより面白いと思うかどうかは別の問題だ。
一つの定量的指標の優劣は付けられても、定性的要素が含まれた全体の優劣は決定しない。
全てを定量的要素に分解して数字的な総合点を付ければ優劣は決められるが、多くの場合求められるのは、必要な一つの指標だけだったりする。
少し余談
最近だと、夫婦別姓の選択を可能にするかどうかで揉めているが、同姓・別姓に優劣は無いし、同姓で困るのも別姓で困るのも「気持ち」の部分が大きく、極めて定性的な話題であり、この議論で貴重な時間を使っている人達は、かなり残念だ。
定量化を試みて「戸籍の管理システムを変えたくない」とか「家系図の管理が楽」とか「伝統が」等と言っている様だが、定性的な部分が強い話題である以上は、そんな要因がいくつあったって、それでは綺麗な答えは出ない。
そもそも、一般人の戸籍制度自体が、江戸以降、主に明治時代より後の物であり、浅い伝統を守りたがるのは歴史を知らなさすぎて呆れる他ない。
「結婚の実感があった」とか「墓を管理する心構えが」みたいな定性的な個人の意見を言っている政治家は、そんな意見で結論がいつか出ると本気で思っているのだろうか?
定性的な「お気持ち表明」は、落としどころを探すのにさえ役立たない。
SNSかチラシの裏でどうぞと言う意見だ。
余談の余談
仮に、この問題の根幹が定量的に数値化される類の問題なら、議論は長引かなかっただろう。
日本では同姓を前提にした国のシステムが動いていて、海外では別姓を前提にした国のシステムが動いていると言う前提で、仮に日本のシステム上で同姓で困ったなら、困った問題を解決するべきであり、別姓にしたいと言うのは、そもそもが「気持ち」の問題なのだ。
気持ちがどっちでも良い問題なら、具体的な困った事を解決すれば済む。
困った事は、希望を定量的にするための言い訳で、本質的に「馴染みのある姓名を名乗りたい」と言う気持ちの問題が中心である以上、探すのは綺麗な答えでは無く、最初から落としどころであり、落としどころとは両方の立場の人がそれぞれ妥協出来るポイントを探す事だ。
同姓を維持したい人は、同姓を維持しつつも別姓を許す事を妥協し、管理システムも一部手直しをする妥協を許容する必要があるし、別姓支持派は結婚で同姓を選ぶ権利を妥協しつつ別姓を管理するシステムの責任を取る事は許容しないと話は進まない。
どちらかが勝って、どちらかが負けるのは、明らかな優劣があるか、決定者の優劣が明確な場合だけだ。
「クラスのみんながswitchを持っているから買って」と子供がねだって来た時に「クラスのみんなって何人ぐらい?」と定量化するのは、あまり意味が無い事だと分かるだろう。
子供は、switchが欲しいのであって、クラスのみんなは定量化の材料でしかない。
話し合うべきは、どういう落としどころで、両者が妥協してswitchを買うかだ。
子供は誕生日やクリスマスまで我慢を強いられたり、お小遣いやお年玉の一部提供を求められるかもしれないが、どうすればswitchが買ってもらえるかの交渉は出来て、話は進む。
絶対に買わないと言う保護者なら、その理由を話すだろう。
その理由が馬鹿らしければ子供は反発するし、納得出来れば更に妥協し、譲歩する事でswitchを手に入れる筈だ。
妥協も譲歩も子供が不可能なら、我慢するしかない。
一般家庭でも出来る事が、なぜ国会だと、大の大人達が出来ないのだろうか?
ちなみに、一応断っておくが「お気持ち」が無意味で、悪いのではなく、個々人の「お気持ち」自体は大切だが、議論の場で表明する事に、その人が超重要決定者でない場合に意味が無いと言う事だ。
そもそも、実利を伴う伴わない関係無く、より多くの人の「お気持ち」が満たされる方向で対話とは進む物だ。
その時、個々のお気持ちは、もはや突出させても意味は無い。
それは、言いたがりな人が場が見えていないか、それぐらいしか言う事が無いぐらい無能なだけで、既に対話の中に内包されている事だ。
宗教でも、姓名でも、意見に推しがある人は、それが好きな事、便利だと感じている事は、大前提だ。
今更、こんな良い所があると言う「お気持ち利点」をテーブルに乗っけた所で、他の人からすると「お前は、な」と言う以上の感想は出て来ない。
せめて、定量的利点か定量的欠点をあげて、落としどころを探す材料にするべきである。
気持ちは大事だが、対等な対話の席では意味がないのだ。
なので、こういう発言ばかりする人は、同意見の人以外から「バカな人」と思われる事になる。
誰しも、好きを推す時に(嫌いをけなす時にも)、やってしまう事があるので、建設的な議論の場では気を付けよう。
仲間内のお気持ち表明座談会や、SNSでなら、幾らでも披露して共感しあえば良い。
決定権が無い物
答えを決める決定権が無い物の事は、基本的に意味がある答えが出せない。
自分の中で納得が出来る事には、自分が決定権があるので答えが出せる。
それは分かるだろう。
だが、それが他人の事になると、それだけで決定権は持たないのも、分かる筈だ。
例えば、当事者不在で「隣の家の壁が白が良い」と言う事が、対話の末に決まったとしても、何の意味も無い。
もしかしたら、非当事者間の話としては面白いかもしれないが、答えは出せるが、答えに意味がないのだ。
「娘の結婚相手は、なるべく優良物件なイケメンが良い」と娘不在で家族が話し合って決めたとしても、娘と結婚相手の話であって、その答えにどんな意味が見いだせるだろうか?
この、自分に決定権が無い物を決めようとする人は、結構いる。
話のタネで、面白く、あるいは興味深くシミュレーションするのなら構わない。
そうでないなら、余計なお世話である。
だが、大真面目に、色々な場面で自分達が決めなければと考える人が本当にいるのだ。
自分が決められるのは、自分を含めた自分が完全に管理する範囲の事だけだ。
どんなに身近でも、親友の気持ちは変えられないし、あなたの命令を何でも聞く部下や後輩のプライベートまで変えるのは出来ない。
それを行うには洗脳が必要だが、それは悪の領分になる。
対話で答えが出ない事の答えの出し方
対話では、絶対に綺麗な答えが出ない問題をどう処理するか。
どうやって結論を出せば良いのだろうか?
方法は、いくつかある。
対話だけで綺麗に答えが出ない問題だと認める
まず、これ。
これが出来ないと、この先に進めない。
ちなみに、答えが出せる問題でも、考えるのが正直だるければ、これで先に進める事は出来る。
それが良いか悪いかは別にして、ね。
問題解決のスタートは対話だが、問題を解決に至らせるのは、時にお互いの意見を聞き入れ合う事ではない事を認めよう。
条件が矛盾すれば、以降は平行線だ。
優劣では無く、妥協と許容の落としどころを探り合い、考える
勝ち負けを考える以上、話し合いは平行線になる。
どちらかの完全勝利や完全敗北は、綺麗に答えが出ない問題では、そもそも考えるべきじゃない。
自分の意見が通って、相手を論破すれば気持ちいいかもしれない。
でも、正しさの主張と言う意味では勝ったように見えるが、定量的な事(数字、明確な答えがある物)にしか使えない。
定性的な事(お気持ち、答えが分からない事)では、論破のしようが、そもそも無い。
答えが出ない話題は、そもそも定性的なのだから、話し合う当事者は客観的で定量的でないと、話し合いにならない。
主観的で定性的な意見ばかりを言う当事者は、自分の意見を通す事に一生懸命な子供である。
そんな駄々っ子は、こう言った対話の席では邪魔になる。
必要になるのは、建設的な交渉であり、これは双方が決定権を持って説得し合う事だ。
必ず、どうしたら譲れるかをお互いがカードを準備しておく必要がある。
譲る気が無いなら、そもそも交渉にならない。
そう言う駄々っ子をたしなめる事が出来る立場の、対話を管理する人がいると、対話が一気に進む事もある。
会議の進行役とか、議長やその場の責任者と言った存在だ。
そう言った立場の人が駄々っ子の場合は、もうどうしようもない。
その対話の席は、始まる前から終わっているのだ。
落としどころを探り合わずに、意見交換を延々して、いつか落としどころが現れると思っている人は、その考え方を改めるべきだ。
意見をいくら出しても、探り合う事をしなければ議論のテーブルの上を散らかしているだけだ。
落としどころは、探りあえ。
多数決
多数決は、答えを出す意味では、かなり手っ取り早い方法だ。
妥協や許容と言った落としどころを探さずとも、恨みっこ無しで採決すれば良い。
どの意見が支持されているかの結論が、コミュニティ内で出る。
ただ、これは多数決のやり方を気を付ける必要がある。
例えば、明らかに票の分布に片寄りがある物事を多数決で決めていくと、少数派の意見を、そもそも無視している事になり、大きな不満が生まれる事になる。
そこに、正義は無い。
あくまでも、多数決をしてみないと結論が分からない事を、可視化する為に行う必要があるわけだ。
また、定量化は出来るが、それが正解かは、本当の答えが出るまでは分からない。
アンケートも、この手法だ。
例えば、政治家の選挙は投票で決まるが、その政治家が本当に良い仕事をするかは、実際の行動で決まってくる。
他に、イギリスのEU離脱の様に、錯綜する情報によって投票する先が歪むような危険は、常に存在する。
選挙の不正は、いつの時代も大きな問題だ。
また、多数決をする場合は、質問の聞き方で答えが変わる現象は、非常に有名だ。
「どっちが良いか」と「どっちが悪いか」だけの違いで、変わってしまう事もある。
責任者の判断に委ねる
これは、独裁的な決定法だ。
そもそも、独裁の方が民主主義よりも決断が早いのは、答えが出る事も出ない事も関係無く、一部の力を持つ人の一存で決めてしまえるからである。
未来や未解決問題に対する決断は、この方法でさっさと方向性を決め、どう協力するかの対話を始めた方が決まりやすい。
この手法の問題点は、判断を下す人の知能指数、倫理観や道徳観に依存し、対話や多数決では選ばれえない人が割を食う可能性がある事だ。
要するに、個人の好き嫌いが決定を大きく左右する事がある為、かなり客観性が高い人でないとコミュニティ全体を危険に晒す事になりかねない。
世界の失敗した独裁者の政治を見れば、その危険性は分かる筈だ。
間違った時に、間違いを認めて方向転換も早い責任者だと、リカバリーも素早く出来る。
間違いを認められない責任者が独裁的に決めて、方向転換不能になると地獄を見る事となる。
また、サイコロを振ったり、運に任せるのもこの判断と同じだ。
責任者の勘や経験値に頼れないなら、コインの裏と表と言うのもサックリ決まって悪く無い。
もちろん、それが正しいかどうかは、結果を見るまで分からない。
コミュニティのルールに照らしてみる
校則、社則、法律、憲法、国際法、ローカルルール、そう言ったルールに照らしてみると、現状の優劣が見える事がある。
ただ、この方法はルールを変えようとして対話をしている時には使えないので注意が必要だ。
ルールを変えようとしている時は、コミュニティ内では無く、より大きな世界のルールを参考にすると世の中の進む方向に合わせて落としどころを出しやすい。
その際、便利さだけでなく道徳、倫理、幸福度、等が、ルール変更によって何が以前よりも良くなるのかを認識しておくと、失敗が少なくなる。
単機的な利便性だけを求めていると、ルールを変えない事が最も楽になってしまう事が往々にあるからだ。
可能なら両立させる
二つの対極な意見を戦わせて、そもそも一つに絞る必要が無い事もある。
上で触れた宗教は、一神教である事を各宗派が妥協する事で両立状態にある。
この妥協を我慢できなくなると、宗教戦争が起きてしまう。
他所は他所ウチはウチ、みんな違くてみんな良い、と言う寛容な精神は、とても大切だ。
無理に解決しようとしない
結論も落としどころも出ないなら、無理に答えを出さないのも手だ。
時間が解決や、時効をもたらす事で区切りや決着がつく事もある。
終わりに
国会、会社、学校、色々な所で答えが出ない事を延々と話し合っていると思う。
昔から人間は会議が大好きだ。
対話は、人を仕事した気にさせてくれる。
だが、物事を前にすすめるのは、対話の先で結論が出て、それが実際の行動に移された時である。
実行に移される事が無い対話は、無駄なお喋りだ。
「この話題、そもそも、答えが出せる話題かな?」
と、考える癖がついていると、落としどころを決める方向で話が出来る、かもしれない。
なぜ、かもなのかと言うと、対話には相手が必要だからだ。
相手が前提を理解してないと、答えの出ない対話から延々と抜け出せない。
そう言う相手が求めているのは、相手、つまりあなたが折れてくれる事で、我儘を通したいだけの場合が多い。
あらゆる意味で、気を付けよう。
おまけ
- 対話は出来るが答えが出ない問題の認識:「あれ、これって話し合いで綺麗に答え出る?」
- 答えが分からない事の認識:「未来でも、超複雑とか、超難しい事でもない、よね?」
- 並行・並列同時に存在しうる事の認識:「これって、どっちかに決める必要ある? 両立で良くない?」
- 定量化不能な物の優劣の認識:「正確に数字にして比較出来ない? お気持ちの問題?」
- 決定権が無い物かの認識:「これって、私達は、そもそも当事者(変化で気持ち以外が影響を受ける)かな?」
- 責任者の判断に委ねているか否か:「これって、偉い人の意見が最後に通るのが決まってない? 話し合いが本当に必要?」
- ルールに照らし合わせる:「どっちがコミュニティにマッチしているか? どっちがより多くの人の幸福度をあげるのか?」
- 対話だけで綺麗に答えが出ない問題だと認め、共有しているか:「相手の人は、綺麗な答えが出せない事を分かっているかな? お喋りしたいだけじゃない?」
- 優劣では無く、妥協と許容の落としどころを探り合い、考える必要性の認識:「どこに落としどころがあるだろう? 自分はどこまで妥協して我慢出来て、相手はどこまで妥協して画面してくれるだろう? 相手は、そもそも譲る気がどのぐらいあるだろう?」
- 多数決で白黒つける覚悟:「それでも決まらないから、有力な案の優劣を数値化しよう。数字には従おう」
- 無理に解決しない覚悟:「中には、時間が解決する問題もある」
これぐらいやっておけば、無意味な会議も減るかもね。
苦言
とりあえず、非当事者のお気持ち表明は、ただの嫌がらせや一種のテロと言う事は認識しよう。
例えば「あの絵が嫌らしすぎる」とか「あの写真が卑猥すぎる」とか「映画の配役が差別的に見える」とか「あのマークは反社会的」とかで、駄々をこねて意見を通そうとする様な場合だ。
せめて、お気持ち以外の部分で当事者であれよ、とね。
フェミニズム、ポリコレ、政治活動、等々の『ごっこ』を利用した駄々っ子のせいで、作品にケチを付けたり、クリエイターの邪魔をするのは、マジで勘弁して欲しい。
と、「お気持ち」を表明した次第だ。
大変、見苦しくて申し訳ない。
と、ね?
お気持ち表明って、個人では大切だけど、あんま「役に立たない」でしょ?
体感してもらえたのなら、幸いだってばよ。