昔話を分析・解説
今回のテーマは「泣いた赤鬼」。
昔話と言いつつ、1933年に発表された児童文学である。
実は、そんなには古くない。
泣いた赤鬼
引用:Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A3%E3%81%84%E3%81%9F%E8%B5%A4%E9%AC%BC
著者:浜田廣介
プロローグ
とある山の中に、一人の赤鬼が住んでいた。
日常の時、切欠の時、悩みの時
赤鬼はずっと人間と仲良くなりたいと思っていた。
決意の時、試練の時
そこで、「心のやさしい鬼のうちです。どなたでもおいでください。おいしいお菓子がございます。お茶も沸かしてございます」
という立て札を書き、家の前に立てておいた。
危機の時
しかし、人間たちは疑い、誰一人として赤鬼の家に遊びに来ることはなかった。
絶望の時
赤鬼は非常に悲しみ、信用してもらえないことを悔しがり、終いには腹を立て、せっかく立てた立て札を引き抜いてしまった。
切欠の時
一人悲しみに暮れていた頃、友達の青鬼が赤鬼の元を訪れる。
悩みの時
赤鬼の話を聞いた青鬼はあることを考えた。
それは、「青鬼が人間の村へ出かけて大暴れをする。そこへ赤鬼が出てきて、青鬼をこらしめる。
そうすれば人間たちにも赤鬼がやさしい鬼だということがわかるだろう」という策であった。
決意の時
しかし、これでは青鬼に申し訳ないと思う赤鬼だったが、青鬼は強引に赤鬼を連れ、人間達が住む村へと向かうのだった。
試練の時
そしてついに作戦は実行された。青鬼が村の子供達を襲い、赤鬼が懸命に防ぎ助ける。
作戦は成功し、おかげで赤鬼は人間と仲良くなり、村人達は赤鬼の家に遊びに来るようになった。
人間の友達が出来た赤鬼は毎日毎日遊び続け、充実した毎日を送る。
危機の時
だが、赤鬼には一つ気になることがあった。
それは、親友である青鬼があれから一度も遊びに来ないことであった。
今村人と仲良く暮らせているのは青鬼のおかげであるので、赤鬼は近況報告もかねて青鬼の家を訪ねることにした。
絶望の時、契機の時、解決の時
しかし、青鬼の家の戸は固く締まっており、戸の脇に貼り紙が貼ってあった。
それは
「赤鬼くん、人間たちと仲良くして、楽しく暮らしてください。もし、ぼくが、このまま君と付き合っていると、君も悪い鬼だと思われるかもしれません。それで、ぼくは、旅に出るけれども、いつまでも君を忘れません。さようなら、体を大事にしてください。ぼくはどこまでも君の友達です」
という青鬼からの置手紙であった。
赤鬼は黙ってそれを2度も3度も読み上げ、涙を流した。
解説
短い内容の中で、パラダイム的には多くの要素が詰まった学ぶ事が多い作品である。
名作童話と言われる所以でもある泣けるラストだが、青鬼の手紙によって「主人公が本当に大切だった物を失う」”絶望”、「主人公の問題を解決する為に旅に出る」”解決”、「ぼくはどこまでも君の友達」と、本当に大切な物が完全には失われていない”契機”が詰まっていて、実に濃厚だ。
このワンシーンは、どんでん返しとしてしっかり機能しつつ、感動できる物語に必要な要素を一か所で「兼ねている」わけだ。
他に、注目したいのが、冒頭の赤鬼が立て札作戦を失敗するシーンだ。
ここで、主人公が一度失敗する事で、青鬼と言う相棒の有難味が増すと共に、どうして青鬼がそんな行動を取ったのかの根拠となっている。
この冒頭に1エピソードある事で、物語はリアリティを増しつつ、
- 立て札作戦
- 青鬼悪者作戦
- 明かされる青鬼の本当の作戦
と、感情の波が起きるパラダイムのセットが3か所になり、読んでいる側は感情の上下が短い物語の中で頻繁に起きる。
だからこそ、この「泣いた赤鬼」は、切なくて泣けるだけでなく、しっかりと面白いわけだ。
別の作品に活かすには?
「泣いた赤鬼」は、認められない夢を無理やり叶え、その代償を支払う物語だと言える。
- その環境のルール上、認められない夢が主人公にあって、
- それを叶える為に主人公の夢を応援する相棒が手を貸し、
- 夢をどうにか叶えるが、その代償は、あまりにも大きい。
そう言った要素を備えた物語なので、それらの要素を変えれば、ガラリと雰囲気の変わった作品になる。
名作映画「ガタカ」の場合は、主人公の夢は宇宙飛行士で、相棒は身分偽装の為の身分提供者だった。
未来が舞台で、SF作品だが、基本構造は泣いた赤鬼と同じと言って良い作品だ。
こんな感じで、主人公が環境に認めて貰えない夢を持つ事、それを叶える為に協力してくれる相棒と出会う事が、同系統作品を作る際には不可欠だ。
現代を舞台にするなら、現代の文化的常識では許されない夢を持って、それを叶える為に協力してくれる相棒を登場させる必要がある。
環境に認められない夢は、危険や犯罪行為以外に、タブーとか常識に大きく反する夢なら何でもいい。
例えば鬼を猛獣にしたら、現代で無くとも檻の外に出る事がそもそも難しそうだろう。
猛獣が人と友達になりたくて、別の猛獣が一芝居を打つとすれば、モチーフが変わっただけでそのまま「泣いた赤鬼」だが、絵面としては別物に見える筈だ。
一芝居打たずに、変身する薬や魔法を使って欺くとかすれば、全くの別物になるだろう。
要は「モチーフ」と「夢の目的」と「叶えるための作戦」の2つをずらせば、もう別物となるが、1つだけずらした程度だと似て感じると言う事だ。
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