精神的「大人」と「子供」についての考察

何が人の精神を大人と子供で分けるのか?

肉体は、見た目にも分かりやすい。

大人の条件は、成熟した肉体であり、子供の条件は未成熟な肉体だ。

機能で見ると、大人の条件は子供を作れるか否かで分けられる。

年齢で分けると、各文化圏で成人年齢が定められている。

では、精神は、何をもって大人と子供を分けるのだろうか?

精神の成熟度

肉体と同じ様に考える場合、精神の成熟度はどうやって計測できるのか?

その指標は様々にあると思えるかもしれないが、実はシンプルだ。

精神的な成熟とは「他者を敬う」と言う事が出来るか、出来ないか、それで決まってくる。

他者を敬えれば、大人

精神が子供であるほど、他人を敬う事は困難になる。

幼いほどに自己を確立し、自分が得をする事に必死であり、常に自分が主役で無いと我慢が出来ない。

目立ちたがり、TPOをわきまえず、いつも自分の事を考えてしまう。

だが、精神的に成熟すると、そんな風だった社会性が変化していく。

自分を中心とした周囲の他人と言う状態が、子供的な精神状態だった。

それが精神が成熟する事で、自分は周囲の他人の中の一個体であると変化するのだ。

すると、自分が常に主役では無い事を、理解する。

つまり、TPOを考え、その場その場で誰が主役で、自分がどういう行動を取るべきなのかを考えられるようになるわけだ。

精神状態が、その様な大人な状態になると、機能面でも変化する事になる。

主役であろうとする事を場面ごとに選べるので、自身が主役で無い場所では脇役に徹する事も出来る様になる。

それは、社会から見ると、そうあって欲しい姿を演じる事であり、歯車の一個として機能している事を意味している。

子供が嫌い=立場をわきまえない下っ端が嫌い

子供が苦手、嫌いと言う人は、肉体的に幼い存在に苦手意識がある訳では、多くの場合は無い。

自分が主役と勘違いして、TPOを無視した行動を取る存在が、煩わしいのだ。

赤ん坊は、泣く。

これは、まさしく、あらゆる場面で自分が主役である主張である。

なので、大人側が子供を主役に思えれば、嫌う理由にならない。

他人の子供は苦手でも、自分の子供は愛せる人は大勢いるのは、その為だ。

また、子供でも、泣くのを我慢したら、少し大人に思える。

我慢とは、TPOを、空気を読んだ行為だ。

だから、大人は我慢を強いられる事が多い。

「ガキだな」「オトナになれよ」の弊害

社会に出ると、何かあった時に他人から「子供じゃないんだから」「大人げない」「大人になろうよ」等の言葉をかけられる事を経験する人もいるだろう。

これらは、その場を上手く回す歯車としての機能から逸脱する事で、浴びせられる言葉だ。

例えば「接待」と言う場では、勝つべき人に勝って貰わない事には、状況が好転しないTPOがある。

接待ゴルフで接待先に勝っては、気分良く商談や相談が出来ない。

これは、お互いの担うべき役割を担っている確認が出来ない為に、接待される側は「TPOを考えないヤバい奴がいる」と感じ、警戒する為だ。

問題は、これが誤ったTPOでも機能してしまう事にある。

例えば、同調圧力が働くような場面、上位の立場から投げかけられる我慢を強いる時などにも、同じように用いられる。

間違った場面で「歯車に徹しろ」と言うオーダーは、鵜呑みにしたらダメだ。

ブラック企業で「みんな頑張って残業しているんだから、一人だけ早く帰るのは良くない」とか、そんな戯言に耳を傾けるべきではないが、環境を支配している人は、この手の言葉を好んで使ってくる。

すると、それが誤っていると言う認識を持ってない人は「自分が間違っている。子供みたいな我儘を言ってはいけない」と勘違いして歯車になろうとする。

他者を敬えない、大人もどきが世の中には沢山存在している事を忘れてはいけない。

我慢強いほど大人に見られるが、間違った環境で我慢をしているのは愚か者のする事かもしれない。

失言する大人達

失言で失脚したり叩かれる人は、世の中に多い。

失言とは、そもそもが「自分を中心に」「他者を敬わず」「その場で主役になる為にノリで」発言する事で起きる。

言わなければ良い事を、言わない事が我慢できない「主役願望」によって、失言は飛び出る。

精神的に見ると、完全に子供のそれなのだ。

失言する大人を見たら「こども大人」と思うと、その人達を優しく見れる、かも?

まず大事なのは、環境が正常かどうか

人が精神的に大人になれるのは、環境が正常かどうかが関わってくる。

例えば、歯車として機能していても、その環境が間違っている場合は、大人になる事が間違いである事がある。

ナチスでは、国の命令でユダヤ人を大虐殺した。

大虐殺に関わった人は、環境の命令を大人になって聞き入れ、実行した。

だが、戦後、戦争犯罪にかかわったとして大勢の人が裁かれる事になった。

WW2ほど大規模な話でなくても、環境が正常でない時に、精神的に大人になるのは、実は正解とは言えない。

歯車に徹して良いのは、その置かれた環境が正常に機能している時だけなのだ。

勝負の世界、趣味の世界は子供の世界

一方で、子供である事を求められる環境が存在する。

それが、勝負の世界や、趣味の世界だ。

勝負や趣味では、本人は、当事者であり、プレイヤーや創作者として主役度が上がってくる。

もちろん、チーム戦では主役度が下がる場合があるが、所属するチームを主役にする為に動く事が求められる。

自分が主役でありたい子供的な精神を持っている人は、こう言った世界に触れられるようにしておくか、こう言った事自体を仕事にするか、大人になるべき世界で主役の様な活躍をする必要があると言う事だ。

これは反対に、こう言った世界では極度の大人的な精神は、嫌われる事を意味する。

真剣勝負で八百長を嫌うのは、子供的精神が大人と見られる環境下で、誤った大人的精神を発揮しているからだ。

子供の世界では、子供である事が正常なわけだ。

子供と大人の両方の精神をバランス良く持っているべき

どちらかに偏り過ぎると、人はおかしくなる。

社会の歯車に徹しても、大人には見て貰えるが、担わされる役割次第では悲惨な人生になる事も多い。

自分の道を突き進んでも、社会との関りが上手く行かないと、非常に生きづらい。

その両方をバランス良く保つ事で、ようやく人生は明るくなる。

人によっては、大人と子供であれる環境が一つかもしれないし、別の人にはいくつもの場所に分かれているかもしれない。

最後になんだが、社会的立場が高い人の中に、赤ちゃんになる事を望む人(まあ、プレイを含めて)が時々いるのも、そうやって子供の心を守ってバランスを取っているのかもと思った次第である。

あなたは、どっちかに偏り過ぎてない?

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