昔話を分析・解説
今回のテーマは「花咲かじじい」「ヘルメースときこり」。
花咲かじじい
引用:青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/#main
著者:楠山正雄
プロローグ
一
むかし、むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがありました。
日常の時
正直な、人のいいおじいさんとおばあさんどうしでしたけれど、子どもがないので、飼犬の白を、ほんとうの子どものようにかわいがっていました。
白も、おじいさんとおばあさんに、それはよくなついていました。
すると、おとなりにも、おじいさんとおばあさんがありました。
このほうは、いけない、欲ばりのおじいさんとおばあさんでした。
ですから、おとなりの白をにくらしがって、きたならしがって、いつもいじのわるいことばかりしていました。
切欠の時
ある日、正直おじいさんが、いつものようにくわをかついで、畑をほりかえしていますと、白も一緒についてきて、そこらをくんくんかぎまわっていましたが、ふと、おじいさんのすそをくわえて、畑のすみの、大きなえのきの木の下までつれて行って、前足で土をかき立てながら、
「ここほれ、ワン、ワン。
ここほれ、ワン、ワン」
となきました。
悩みの時、決意の時、試練の時
「なんだな、なんだな」
と、おじいさんはいいながら、くわを入れてみますと、かちりと音がして、穴のそこできらきら光るものがありました。
ずんずんほって行くと、小判がたくさん、出てきました。
おじいさんはびっくりして、大きな声でおばあさんをよびたてて、えんやら、えんやら、小判をうちのなかへはこび込みました。
正直なおじいさんとおばあさんは、きゅうにお金持ちになりました。
危機の時
二
すると、おとなりの欲ばりおじいさんが、それをきいてたいへんうらやましがって、さっそく白をかりにきました。
正直おじいさんは、人がいいものですから、うっかり白をかしてやりますと、欲ばりおじいさんは、いやがる白の首になわをつけて、ぐんぐん、畑のほうへひっぱって行きました。
「おれの畑にも小判がうまっているはずだ。さあ、どこだ、どこだ」
といいながら、よけいつよくひっぱりますと、白は苦しがって、やたらに、そこらの土をひっかきました。欲ばりおじいさんは、
「うん、ここか。しめたぞ、しめたぞ」
といいながら、ほりはじめましたが、ほっても、ほっても出てくるものは、石ころやかわらのかけらばかりでした。
それでもかまわず、やたらにほって行きますと、ぷんとくさいにおいがして、きたないものが、うじゃうじゃ、出てきました。
欲ばりおじいさんは、「くさい」とさけんで、鼻をおさえました。
そうして、腹立ちまぎれに、いきなりくわをふり上げて、白のあたまから打ちおろしますと、かわいそうに、白はひと声、「きゃん」とないたなり、死んでしまいました。
絶望の時
正直おじいさんとおばあさんは、あとでどんなにかなしがったでしょう。
けれども死んでしまったものはしかたがありませんから、涙をこぼしながら、白の死骸を引きとって、お庭のすみに穴をほって、ていねいにうずめてやって、お墓の代わりにちいさいまつの木を一本、その上にうえました。
契機の時(切欠の時、決意の時、試練の時)
するとそのまつが、みるみるそだって行って、やがてりっぱな大木になりました。
「これは白の形見だ」
こうおじいさんはいって、そのまつを切って、うすをこしらえました。
そうして、
「白はおもちがすきだったから」
といって、うすのなかにお米を入れて、おばあさんとふたりで、
「ぺんたらこっこ、ぺんたらこっこ」
と、つきはじめますと、ふしぎなことには、いくらついてもついても、あとからあとから、お米がふえて、みるみるうすにあふれて、そとにこぼれ出して、やがて、台所いっぱいお米になってしまいました。
危機の時
三
するとこんども、おとなりの欲ばりおじいさんとおばあさんがそれを知ってうらやましがって、またずうずうしくうすをかりにきました。
人のいいおじいさんとおばあさんは、こんどもうっかりうすをかしてやりました。
うすをかりるとさっそく、欲ばりおじいさんは、うすのなかにお米を入れて、おばあさんをあいてに、
「ぺんたらこっこ、ぺんたらこっこ」
と、つきはじめましたが、どうしてお米がわき出すどころか、こんどもぷんといやなにおいがして、なかからうじゃうじゃ、きたないものが出てきて、うすにあふれて、そとにこぼれ出して、やがて、台所いっぱい、きたないものだらけになりました。
欲ばりおじいさんは、またかんしゃくをおこして、うすをたたきこわして、薪にしてもしてしまいました。
絶望の時
正直おじいさんは、うすを返してもらいに行きますと、灰になっていましたから、びっくりしました。
でも、もしてしまったものはしかたがありませんから、がっかりしながら、ざるのなかに、のこった灰をかきあつめて、しおしおうちへ帰りました。
「おばあさん、白のまつの木が、灰になってしまったよ」
契機の時 (切欠の時、決意の時、試練の時)
こういっておじいさんは、お庭のすみの白のお墓のところまで、灰をかかえて行ってまきますと、どこからか、すうすうあたたかい風が吹いてきて、ぱっと、灰をお庭いっぱいに吹きちらしました。
するとどうでしょう、そこらに枯れ木のまま立っていたうめの木や、さくらの木が、灰をかぶると、みるみるそれが花になって、よそはまだ冬のさなかなのに、おじいさんのお庭ばかりは、すっかり春げしきになってしまいました。
おじいさんは、手をたたいてよろこびました。
「これはおもしろい。ついでに、いっそ、ほうぼうの木に花を咲かせてやりましょう」
解決の時
そこで、おじいさんは、ざるにのこった灰をかかえて、
「花咲かじじい、花咲かじじい、日本一の花咲かじじい、枯れ木に花を咲かせましょう」
と、往来をよんであるきました。
すると、むこうから殿さまが、馬にのって、おおぜい家来をつれて、狩から帰ってきました。
殿さまは、おじいさんをよんで、
「ほう、めずらしいじじいだ。ではそこのさくらの枯れ木に、花を咲かせて見せよ」
といいつけました。
おじいさんは、さっそくざるをかかえて、さくらの木に上がって、
「金のさくら、さらさら。
銀のさくら、さらさら」
といいながら、灰をつかんでふりまきますと、みるみる花が咲き出して、やがていちめん、さくらの花ざかりになりました。
殿さまはびっくりして、
「これはみごとだ。これはふしぎだ」
といって、おじいさんをほめて、たくさんにごほうびをくださいました。
解決の時(試練の時)
するとまた、おとなりの欲ばりおじいさんが、それをきいて、うらやましがって、のこっている灰をかきあつめてざるに入れて、正直おじいさんのまねをして、
「花咲かじじい、花咲かじじい、日本一の花咲かじじい、枯れ木に花を咲かせましょう」
と、往来をどなってあるきました。
するとこんども、殿さまがとおりかかって、
「こないだの花咲かじじいがきたな。また花を咲かせて見せよ」
といいました。
解決の時(危機の時)
欲ばりおじいさんは、とくいらしい顔をしながら、灰を入れたざるをかかえて、さくらの木に上がって、おなじように、
「金のさくら、さらさら。
銀のさくら、さらさら」
ととなえながら、やたらに灰をふりまきましたが、いっこうに花は咲きません。
するうち、どっとひどい風が吹いてきて、灰は遠慮なしに四方八方へ、ばらばら、ばらばらちって、殿さまやご家来の目や鼻のなかへはいりました。
そこでもここでも、目をこするやら、くしゃみをするやら、あたまの毛をはらうやら、たいへんなさわぎになりました。
解決の時(絶望の時)
殿さまはたいそうお腹立ちになって、
「にせものの花咲かじじいにちがいない。ふとどきなやつだ」
といって、欲ばりおじいさんを、しばらせてしまいました。
おじいさんは、「ごめんなさい。ごめんなさい」といいましたが、とうとうろう屋へつれて行かれました。
解説
善性の優しい正直者が勝ち、悪性の自己中心的な存在が身を亡ぼす類の昔話。
外国では、ギリシャのイソップ寓話「金の斧」「金の斧銀の斧」等の名前で有名な「ヘルメースときこり」等がある。
ヘルメースときこり
著者:アイソーポス
切欠の時、決意の時
正直なきこりが斧を川に落としてしまい嘆いていると、ヘルメース神が現れて川に潜り、金の斧を拾ってきて、きこりが落としたのはこの金の斧かと尋ねた。
試練の時
きこりが違うと答えると、ヘルメース神は次に銀の斧を拾ってきたが、きこりはそれも違うと答えた。
最後に鉄の斧を拾ってくると、きこりはそれが自分の斧だと答えた。
ヘルメース神は、きこりの正直さに感心して、三本すべてをきこりに与えた。
危機の時
それを知った欲張りな別のきこりは斧をわざと川に落とした。
ヘルメース神が金の斧を拾って同じように尋ねると、そのきこりはそれが自分の斧だと答えた。
絶望の時
しかしヘルメース神は嘘をついたきこりには斧を渡さなかった。
欲張りなきこりは金の斧を手に入れるどころか自分の斧を失うことになった。
解説のつづき
この類型の物語は、人以外の存在によって人間の「格」が判断され、それぞれに因果応報的な報いが与えられる。
その文化圏で良いとされる行いをする事で、ご褒美を貰えると言う話だ。
「ヘルメースときこり」では「嘘」が悪と言う考え方だ。
一方で「花咲かじじい」の場合は「欲ばりおじいさん」が引き合いに出されるが、欲ばりが悪いのではない。
欲にも善悪があるのは、普通に考えれば分かるだろう。
欲ばりおじいさんが持つ悪性は、きこりの「嘘」とほぼ同じで、言ってしまえば「自分の為に他人を蔑ろにする事」であり、花咲じじいの持つ善性は「正直」を内包した「他者を尊重する事」である。
しかし、花咲かじじい自身 「他者を尊重する事」 で、白や臼を失って、傍から見れば愚か者だ。
だが、人知を超えた裁定者が見ているのは、「欲ばりおじいさんが100%騙そうとしているのに騙される愚か者」と言う部分では無い。
それは、欲ばりおじいさんが悪いと言う、だけの話である。
詐欺師の被害者が馬鹿だから、悪いと言う事にはならない。
詐欺師が常に悪く、被害者は賢いか愚かかと言う話である。
悪と愚かさは、別の物と言う話だ。
- 悪は他人に損を強いる
- 愚かは自らに損を強いる
- 善は他人に得を与える
- 賢さは自らに得を与える
この様に、上手い相関関係があるのでセットで語られる事が多い概念だ。
つまり、愚かであろうとも、善性を持って生きてさえいれば、いつか誰かが見ていて善性部分で愚かで損をした部分もカバーして報われると言う物語なわけである。
まあ、現実では善性を持ちつつ、賢くもありたいのが正直な所だが。