ちゃんと感動させるには?
「感動ポルノ」と言う言葉がある。
これは、悪い意味で使われる言葉である。
主に、「こうすれば感動するんでしょ?」と言う製作者側の意図がバレバレな「泣かせに行く」表現が多用されている下品なコンテンツを侮蔑する時に使われる。
例えば「感動的な雰囲気で登場人物が死ぬ」とか「不幸な人が必死に頑張っている」なんて演出は、非常に多く見る機会がある物だろう。
だが、多くのコンテンツは「感情装置」としての機能があり、コンテンツにお金を始めとしたコストが支払われるのは、そこに「感動体験」があるからだ。
つまり「感動」と言う要素自体は前提であり、それが何か条件があって「感動ポルノ」と呼ばれるか「感動作」として受け入れられるか、明暗が分けられる境界があるわけだ。
この記事では「感動ポルノ」にならない為に、何を気を付ければ良いのかを解説していく。
感動の条件
まず「感動ポルノ」と言う侮蔑の表現は、ある意味で非常に的を射ている。
ポルノ≒露骨で直接と言う事であり、性的興奮を誘発する事を目的に製作されるアダルト・ポルノ作品の、感動による興奮版と言う事だ。
つまり、性的ポルノが裸や性描写によって性的興奮を誘発させようとしているのに対して、感動ポルノは死や不幸等によって悲しい等の感情の動きを誘発させようとしているわけだ。
しかし、そう言った露骨で直接的な表現では、大きな感動は生まれない。
それは、ポルノ作品を見て、どの作品でも性的に興奮するわけでは無いのと同じ事である。
つまり、ポルノ作品の中に見た目はエロスな筈だが性的に興奮しない物がある様に、見た目は感動的だが感動出来ない作品が感動ポルノと揶揄されるわけだ。
では、何が真の意味で感動を誘発させるのだろうか?
1:動的(行動)
まず重要となるのは、感動は動的と言う事。
動的と言うのは、状態が変化している必要があるわけだ。
それを表現するには、行動が分かりやすい。
例えば、
- 立ち上がった。
- 泣いた。
- 怒った。
- 笑った。
とか、可能性は無限大だ。
何らかの要素が動的に変化する事を描けないと、この後でしっかり感動させられない。
2:普遍的感動要素(犠牲)
人は、目の前の情報で感動するわけでは無い。
情報は、トリガーに過ぎない。
人が感動するのは、既に自身の中にある感動するスイッチを、情報取得によって押されるからと言える。
なので、普遍的な感動要素が無いと、感動のしようが無い。
だからこそ、露骨で直接的な、時にポルノと揶揄される表現が使われる事になる。
この条件が一番分かりやすいからこそ、ここだけは誰でも抑える。
だから、感動ポルノは、下品に死や不幸で涙を誘おうとする。
こう言った概念の要素は、それだけで心をかき乱す。
でも、これだけでは、連想させるだけで、感動には繋がらない。
3:個人的感動要素への連想(大事な存在)
情報が具体的になると、普遍性は下がっていくが、当てはまる人には深く刺さる様になる。
普遍的感動要素が、個人的感動要素へと繋がる事で、感動の準備が出来る。
- 大事な人、家族、恋人、友人、恩人
- 幸せであるべき人、善人、被害者、守られるべき存在
みたいに、要素に触れた人が自分の知っている物に置き換えて理解しやすくする思考パターンを利用して、連想によって要素を繋げてしまう事で、感動のトリガーに指がかかる事になる。
ここまでで、「大事な存在が犠牲になる行動を取る」と言う条件が、段々と揃ってきた。
4:共感出来る動機
動機に共感が出来ないと、感動の共有は出来ない。
「3」の人が、「2」の状態になる危険を冒して「1」の行動をとるだけの理由が必要であり、そこに納得感が必要となる。
5:犠牲による尊い喪失
人は、大事な人や物を失うと、とても大きな喪失感に襲われる。
その時に流れるのが、悲しみの涙だ。
喪失を経て得る物があって、ようやく報われた喜びによる感動の涙も流れる事になる。
順に説明しよう。
例えば、
- 立ち上がった。
と言う動的変化に、普遍的・個人的感動要素を付与する。
- 兄は、立ち上がり、犠牲になった。
と、実際はキャラを立てたり、もっと限定的な存在にした方が良い。
名前を始めとした性格や設定の描写があった方が、感動出来る。
だが今回は、あなたにもし、親友と呼べる人がいるなら、その人を当てはめて考えて欲しい。
親友よりも、両親兄弟姉妹の方がイメージしやすいなら、それでも良い。
で、尊い喪失をここに付与すると、どうなるか、見てみよう。
- 犯人が警察から逃げる為の人質にと、私に銃を向け、ついて来るように言った。その時、兄は立ち上がり、自分を代わりに連れていく様に言った。
みたいに「誰」が「何の為」に「行動」して、それによって「犠牲」が払われ「尊い喪失」が発生するかが描けると自然な感動に繋がるが、要素が足りていないと、感動が起きないか、感動ポルノと責められる事になる。
6:前提あっての、報い
因果応報。
人は、原因と結果の原理を、対象の生き方等にも当てはめて考える。
つまり、善人は努力が報われて欲しいし、悪人には悪事の報いが訪れて欲しいわけだ。
自己犠牲は、基本的に善の行動であり、自己犠牲には一定の報いが与えられる表現が最後に入ると、物語の場合は大きな感動が生まれる。
自己実現は、自己中だけなら負の行動となる事が多く、自己中には周囲に迷惑をかけた一定の報いが襲い掛かる。
負の報いは、感動と言うよりは、スッキリだ。
終わりに
いかがだっただろうか?
この法則は、かなり広い範囲の感動創造に使える。
例えば、スポーツの場合、
- 勝利を目指し、仲間の為に、ボロボロになりながらも、最後まで戦い、犠牲を払って優勝する
と言う展開は、しっかり描けば王道で熱い筈だ。
だが、どれか一つでも要素が減ると、感動は少しずつ目減りすると思う。
+α:他ベクトルの感動について
ベクトル(方向性)が別方向になると、起きる感動の方向性は、まるで別物になる。
例えば、「何の為」にが自己実現や自己中な「行動」だと、感動の種類が変わって来る。
「尊い犠牲」を「無駄な犠牲」にすると、見る人に「怒り」や「憤り」とか「困惑」と言う感情の動きを発生させる事も可能だ。
また「犠牲」が「自己犠牲」では無く、他者に強いられた「被害」による「他者犠牲」であれば、加害者は大きなヘイト(憎しみ)を買う事になる。
要素のベクトルは、とても重要な要素なので、もし上手く感動を作れていないと感じたら、目を向けてみよう。
では、またね。