表現警察について考察

正しくても間違い?

科学、文化、歴史、MECE、矛盾、リアリティ、ポリコレ、等々……

あらゆる創作物は下敷きにしているモチーフやルールが大前提で存在し、モチーフ表現の正しさの度合いは作品によって大きく違う。

その際、何らかのレベルが高い事が望まれるジャンルで発生するのが、表現警察による「ここ、間違っていますよ(ドヤッ)」と言うツッコミ問題である。

今回は、表現警察の是非について、簡単に考察していく。

基本、フィクションにケチをつけるのは野暮

まず大前提として、リアリティレベルの云々を抜きにして、創作物は全てフィクションの側面があるので、「作り物」に対して「本物では無い」と言う指摘その物が、そもそも間違っている側面がある。

漫画の神様と言われる手塚治虫に、

当時東大医学部の学生から嘘を書くなと抗議の手紙をもらったとの事である。それに対して手塚は、東大生ともあろうものが、漫画に嘘があることすら知らないのかとコメントしている。

Wikipedia引用

こんなエピソードがあるのは有名だし、

スターウォーズ監督のジョージ・ルーカスが、

one of the rules is that there’s sound in space.

So there’s sound in space. I can’t suddenly have spaceships flying around without any sound anymore because I’ve already done it.

I’ve established that as one of the rules of the — of the — of my galaxy and I have to live with that.

https://billmoyers.com/content/mythology-of-star-wars-george-lucas/

<機械翻訳>

そのルールの1つは、宇宙に音があることです。
だから、宇宙空間には音がある。

もう突然、音もなく宇宙船が飛び回るなんてことはできないんです。
私はそれを、私の銀河系のルールの1つとして確立し、それに沿って生きていかなければならないのです。

と、1999年のインタビューで語っているのも有名。

いきなり権威を盾にして非常にアレだが、深く考えずに分かる説得力と言う意味では、コレに勝る物はないだろう。

作り物に対して、現実的に完璧な本物を求めるのは、基本的に間違っている。

フィクションは、あくまでもフィクション世界の、もう一つの現実として楽しむ事が、重要になるわけだ。

野暮でも言わないと気が済まない心理状態は、なぜ起きる?

野暮でも、間違っていても、それでも気になる表現と言う物は確かに存在する。

それに気づいてしまうと、人によっては作品を楽しむ事が阻害される事もある。

手塚治虫が何と言おうと、医療表現の明らかな間違いがあれば、医者は気になるかも知れない。

ジョージ・ルーカスが何と言おうと、宇宙で音が鳴る事を許せない科学者もいるだろう。

その原因は、作品を見る人が求める表現の正確さレベルと、作品が許容するフィクションレベルにギャップが生じる事にある。

要は、作品に対して持っていた期待を、見る人が裏切られたと感じた時に、野暮って分かっててもチクリと言いたくなると言う心理状態になるわけだ。

コンテンツとしてのツッコミ

人は、ツッコミが好きだ。

ツッこむ方は気持ち良く、ツッコミが刺されば見ている人も気持ち良い。

表現警察の取り締まりは、基本はツッコミである。

YouTube上で一時期「クソラノベレビュー」や「なろう系漫画レビュー」「クソゲーレビュー」「クソアニメレビュー」「クソ映画酷評」等々の、コンテンツのダメな所にツッコミを入れていくジャンルが流行った時期があった。

今も、一定数残っていて、人気チャンネルも存在するだろう。

一方で、ツッコミを入れる側から突っ込まれる側になって炎上したチャンネルも少なからず存在する。

2022年1月25日、Twitterでアニメ版プラネテスをJAXAの人が酷評したら、

と原作者に返され、思わぬ炎上を見せ、創作者界隈では話題になり勢い良い燃え広がりを見せた。

受け入れられるツッコミと、受け入れられないツッコミに分かれるのは、どこが分かれ目だろうか?

フィクションにツッこむと野暮

ツッコミは、共感する人が多いほど支持される。

つまり、大勢が間違いだと感じている事に対してツッこむ方が、支持されやすい。

その点、創作物へのツッコミは最初にも書いた通り「フィクション」と言う大前提があるので、ツッコミに対して「フィクションですから」を返されると、表現警察は何も出来ない。

より正しい方が勝つので、状況的に「フィクションですから」よりも正しい状態に持っていけるロジックが無ければ、どうしたって勝ち目はない。

つまり、表現警察は「フィクションですから」よりも正しいとされるロジックに、論理的に展開出来るツッコミをしないと、そもそも取り締まりようがないわけだ。

前提のフィクションへはツッこまず、説明と考察を

そもそもフィクションって事は分かっている。

それでも「現実では、こうだ」って言いたい。

そうなっちゃうのが、頭でっかちになりがちな専門家と言う物。

専門家の心の中では、レイザーラモンRGの「あるある言いたい」が聞こえている。

今こそ自分が注目されるチャンスと錯覚する。

その場合は、「作中ではこうだけど、現実ではこうだよ」とか、作品をより深く楽しむ助けになる解説オジサンに、せめてなろう。

その上で、考察しよう。

現実的に考えて、どういう設定があると作中のフィクションが実現できるのか、とかをだ。

みんなに嫌われる表現警察より、フィクションと現実のミッシングリンクを埋める等、考察出来る専門家であろう。

その方が、双方幸せになる。

ミッシングリンクを埋める事が出来ない場合は、作品を見ていないか、想像力が乏しい。

そんな状態では、現実ベースの話しか出来ない。

一歩立ち止まって考えるのだ。

作品の話をしている人達は、全員フィクションベースの話をしている現実を。

ツッこむなら、フィクションの中の現実を前提に

フィクションは、あくまでもフィクション世界の、もう一つの現実として楽しむ事が、重要になると先に書いた。

つまり、フィクション世界の現実は、設定として固定され、フィクション世界内では現実の事である。

となると、その前提を無視したり間違える事へのツッコミは、受け入れられる可能性が高い。

「フィクションですから」と言う逃げが、もはや使えないからだ。

世界設定ではなく、作品のガバガバ設定ならば、ツッコミは刺さるし面白くなる。

それでも問題は存在する。

ツッコミは共感されるし面白いが、作品や、ひいては作者の至らなさへのツッコミが基本となるので、創作者からすると「もうやめて!とっくに私のライフはゼロよ!」となりかねない。

これは、創作者側からすると、マジで恐ろしい。

だが、ツッコムなら設定よりも、矛盾の方が納得感はあるのは間違いない。

双方に必要になる寛容さ

ツッコミを入れる側にも、入れられる側にも、寛容さが必要だ。

攻撃はエンタメになり得るが、至らない創作者を攻撃して得る笑いは、いじめの側面がある事も理解するべきだ。

学校の教室で絵を描いている人の絵を勝手に取り上げ「こいつ絵クソ下手くそじゃん」と吹聴する様な嫌な奴には、なってはいけない

ツッコミは、入れられる側の同意や許容、あるいは入れられて然るべき理由があって、ようやく正常に機能する。

ツッコまれる事が美味しいと感じられる度量、至らなさに気付き改善したい向上心、誰の目にもツッコまれても仕方が無い行動やTPOの後ろめたさ、そう言った条件が無い作品に対しての過度なツッコミは、傍から見ていられない悪趣味さが出てしまう。

同時に、攻撃を受けるツッコまれる側も、寛容さが必要になる。

まず、作品を発表した以上は、第三者に見て貰う事が前提になり、作品には賞賛だけでなく酷評も飛んでくる事は想像に難くない

その際、見るべきは作品のファンであり、その人達を楽しませる事が作品の使命だ。

作品のファンから寄せられたツッこみは、目や耳が痛くても一度は受け入れ咀嚼し、次の作品の糧にするぐらいの気構えが欲しい。

もしくは、一蹴するぐらいの強さだ。

もちろん、作品の根本否定や、ファンの思い通りにならなかった不満に付き合う必要は大抵の場合存在しない事を前提にだ。

ツッこみ、ツッこまれ、双方にそのぐらいの分別とバランス感覚があった方が良いだろう。

明らかに作品が良くなる助言には、耳を傾けた方が良い場合もある事は間違いなく存在する。

身から出た錆は、時に烙印となる

自己満足で完結するのも一つの選択肢だが、それで気が済まないのが創作者と言う物。

痛い思いをせず、苦労も少なく、成功したいと考える人が出てくる事がある。

発表するが、酷評は受けず、拙いなりに成功し、後で上手くなればいい。

気持ちは理解出来るが、大事なのは、そんなに良い所どりが出来ない事だ。

言論統制はダメだし、点の操作もロクなことにならない。

他人に見せれば評価され、悪い所があれば酷評が来うる。

だが、酷評を言論統制すれば手痛いツッこみが裏で醸造される。

影響が小さければ噴出しないかもしれない。

しかし、影響が大きくなるにつれて「その場にある歪み」を正そうとする力が働いてしまう。

前提として、人々はツッこみたくて、間違いを正したくてしようが無いのだ。

すると、言論統制や裏工作での点数稼ぎをした人は、ツッこみたい人達の恰好の標的となる。

作品外の問題であっても、間違いは正される事になり、その場合は「フィクションですから」が通用しない。

言うなれば、ツッこみがジャーナリズムや告発的な側面を持ってしまい、社会悪としてコンテンツ消費される事になるのだ。

小さなズルは、超えられない壁を乗り越える為には必要に見えるかもしれないが、罪の清算が必ず付いて回るのを覚悟しなければならない。

実力があっても酷評は、必ず飛んでくる。

実力がない状態で酷評を避けるのは不可能であり、言論統制は別の形で噴出する。

実力があれば、小さなきっかけで売れる事はある。

実力がなければ、ズルをきっかけに売れる事はあるが、そこには違和感が残る。

売り物にならない物を嘘で売ろうとする事は、明らかな悪事である。

宣伝広告は欲しがる人に機能と満足を適切に届く様に伝える事だ。

そこに嘘があれば誇大広告だし、ターゲットが間違っていればクレームは出て然るべきだし、レビューやクチコミでステルスマーケティングの裏工作をしても一部の人は違和感に気付き暴こうとする。

間違った事を正当化しようと、もぐら叩きやチキンレースで勝つのは至難の業で、必ず報いを受けさせる力が働き続ける。

なので、後で地獄を見たくないなら、実力をしっかり付けた方が結果的に遥かに楽と言えるだろう。

終わりに

表現警察は、基本的に嫌われると言う話でした。

専門家が作品のリアリティアップの為に助言を求められたり、監修するのとは根本的に違います。

表現警察は、創作が進行中の作る側の場に呼ばれていない、本来楽しむ側の発言での取り締まり活動だからです。

創作物は、作品と、作品を楽しむ人を最優先とするコンテンツであり、そもそもがフィクションです。

楽しめなかった時点で、表現警察向けの作品では無かったと言えます。

その辺を理解せずに「専門家面」をして発言するのは、子供達が鬼滅ごっこで遊んでいる所にズカズカ入って行って「鬼はいない」「呼吸でそんな事出来ない」と言い始める知らない大人みたいな物。

それは、誰がどう見ても格好つかないですよね。

リアリティレベルがどんなに上がろうと、この図式からは逃れられません。

創作側にいない以上は、作品とは楽しむ姿勢で向き合い、劇中で出てくる設定は「そういうもの」と受け入れるのが正解です。

受け入れられないなら、見るのをやめれば良い。

時計仕掛けのオレンジ方式で見ていないなら、ですが。

リアルさを期待して見て、自分の期待したリアリティレベルに達してなかったとお気持ち表明しても、「そうだね。残念だったね」としか声のかけようがありません。

だって、現実じゃなくて、フィクションの中の現実ですから。

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