そもそも実在するのか?
メディアの変化によって、はじめて遭遇するエロコンテンツの形も、昔とは大きく違うだろう。
今回は、人生で初めて遭遇したエロマンガを、興味本位に探したという下らない話。
はじまりは、不安に駆られて
はじめて遭遇してしまった「それ」は、あまりにも衝撃的だった。
始まりは、少年から青年向けの漫画しか存在を知らない時期。
小学生だっただろう。
時代は電子書籍なんて登場するより、ずっと昔。
町には小さな個人経営の書店が溢れ、本を買うには本屋を使うしかない。
本はビニール紐で縛ってあるか、立ち読み出来る様に素のまま棚に置いてある事が当たり前。
小さな本屋なので人気作以外は最新刊ぐらいしか置いてないし、入れ替わりも、売り切れも頻繁だ。
書店の店主は、はたきで本棚を掃除していたし、いつも万引きに目を光らせていた。
そんな時代のエロ本は、今から考えると驚くぐらい雑な管理で、店先の雑誌ラックには普通に少年ジャンプとか週刊誌とかの並びで、エロ雑誌は端っこに陳列されてたし、店内では子供が見てしまわない様にと言う配慮から、棚の高い位置や、レジ横や前にエロ本コーナーがあるのが当たり前だった。
付録でもついてない限りは、エロ本でも立ち読み自由である。
ここで言うエロ本は、いわゆる黄色い「成人」マークなどが付けられた本で、マークが無い本は漫画なら青年漫画の棚に何食わぬ顔で紛れ込んでいたりもした。
住み分けが今よりも曖昧な時代である。
そんな時、小学生で既に「サザンアイズ」や「ベルセルク」やらを好んで、少年誌よりも過激で面白いと読んでいた可愛げのない私は、少年漫画も好きだし、少女漫画も好きだし、四コマ漫画とかも好きだった。
で、「それ」は、何食わぬ顔で四コマ漫画の棚に、紛れ込んでいたのだ。
成人マークのついているエロマンガの単行本と、4コマ漫画の単行本のサイズが同じだったので、棚サイズが同じ事。
その本屋では、エロ本は棚の一番上、大人でも足台に上って取る位置にある事。
それが、元の位置に戻されなかった原因と推測できる。
エロ本を立ち読みしたかった誰かが、行きは決死の覚悟で棚の最上段に手を伸ばして取ったのだが、立ち読みをしたのか、思った内容では無かったのか、買わずに本を棚に戻す際、帰りも棚の最上段に本を戻す事を面倒がったのだろう。
小さい本屋の本棚は、狭いスペースに多くの本を置くので、本屋によっては結構ギュウギュウに本が並べられている。
最上段の棚で、その状態から1冊を抜いて、戻すには、本を出すよりも高いコストがかかる。
本と本の隙間を開け、そこに本を差し込み戻す必要がある。
そんな作業、正直誰もしたく無い。
しかも、それがエロ本で、周囲や店主の目が光っている場合は、余計にしたくない筈だ。
その本を直前に手に取った人が、買う気のない学生とかならば、もはやスニークミッションの様な緊張感をもって本を手に取り、バレない様に読み、安全に棚に戻したいと思っても仕方が無い。
恐らく、そんな事があって4コマ漫画の棚にその本は紛れ、成人マークの意味を分かっていない無垢な少年の手に取られるに至ったわけだ。
最初、裸の女性の絵が表紙に描かれたそれを手に取った少年の反応は、悪い事をした様な罪悪感でいっぱいだった。
だが、ベルセルクとかサザンアイズとか見てるし、おっぱいぐらい何でもないと強がるだけの耐性は出来ている。
最初は青年漫画どころか、少年サンデーで高橋留美子先生が描く女性の胸を見るだけでも、後ろめたさがあったのに、強くなったものだ。
で、ちょっとした耐性を持っていい気になり「それ」を試しに開いてみた。
すると、どうだろうか。
ビックリするぐらい、面白く無い。
当時、性教育は全然受けてないし、エロに興味も欠片も無い。
女性の裸なんて、母親と風呂に入った時に見るぐらいの物。
女性の身体がどうなっているかなんて、欠片も知らない。
そんな時期にエロ漫画を見ても、興奮なんてしようが無いのだ。
更に、日本にはモザイク文化が存在し、手に取ったエロマンガのモザイクは、それはもうシッカリとしていた為、肝心の部分が白く抜かれ、何を描いているのかも意味が分からない。
なので、興奮して読みふける事も無いし、どうにかして買おうとかも全然考えず、サラっと読んでもとの四コマ漫画の棚に戻してしまった。
ただ、興奮こそしなかったが、幼いながらに謎が残った。
劇中の登場人物達は、何をしていたのだろうか?
皆目意味不明でも、それだけのインパクトが「それ」には確かに存在したのだ。
そして現在、そんな事もあったなと、すっかり薄汚れた身で「今読んだらどんな感じだろ?」と、その本を探そうと思った。
幸い、記憶力には自信があり、出来事にインパクトもあった為、本のタイトルは正確に覚えていた。
ただ、作者等は、子供だった事もあって興味が無かったらしく、全く見てもいなかった。
なので、タイトルと表紙のイメージだけを頼りに、探す事にしたわけだ。
そこで、思いもよらぬ事が起きた。
インターネットで検索しても、同名の別作品がヒットするだけで、該当するエロマンガが、まったく見つからなかったのだ。
まさか、別の本のタイトルと混同している?
それとも、この記憶が攻殻機動隊よろしく、存在しない物なのか?
エロマンガ大捜索
イマジナリーエロマンガだったのでは?
と、自分を疑いつつ、私はどうにか探そうとインターネットで色々調べ始めた。
当時、後に読んだ記憶がある他のエロマンガのタイトルを調べると、覚えている物は軒並みヒットする。
当時の年齢や他に売っていた本から発行年代を推測して調べたり、タイトルを似たワードに変えて調べたり、詳しそうな人に聞いたり。
だが、その時は、結局なぜか見つける事が出来なかった。
長い時間の中で記憶が歪み、存在しないエロマンガにすり替わっていたかもしれない事実は、奇妙な感覚だった。
確かに手に取って読んだ感覚も、本のタイトルや表紙絵のイメージも、思い出せる。
しかし、こうも調べても見つからないとなると、その記憶自体が間違っている可能性がある。
それから私は、河原に捨てられていたエロマンガ雑誌や、放置自転車のかごの中で朽ち果てていくエロマンガ、誰かが縛って捨てたエロマンガ、そう言うニアミスしたが読まなかったり、読めなかった物も捜索して見る。
すると、そいつらは、結構ネットで調べれば見つかり、場合によっては現代でも購入方法があったりするのだ。
なんで、最初のエロマンガだけ見つからない?
求めた答えは忘れた頃に
それから結構時間が経った。
「それ」を探すのもやめ、本屋にもすっかり行く回数が減り、もっぱら電子書籍かAmazonでの通販で本を買うのが当たり前に。
TSUTAYAカードはファミマと駅ビルのポイントカードになり下がった頃。
SNSは、凄い。
世の中には、何にでも専門家がいて、それはエロマンガにも言える事だ。
何かの機会にタイトルを言ったら、秒で該当の本を教えて貰えたのだ。
ネットに無い情報が、誰かの頭だかパソコンのデータベースには、あるのだ。
この時の感動は、行方知れずだった旧友の所在が分かったぐらいに大きかったりする。
ご対面
タイトルや作者で調べると、前に調べた時には一切見つからなかったのに、古本を扱う通販サイトで「それ」が、やっすい価格で売られているのを見つける事が出来た。
すぐにポチっとカートに追加し、ワクワクで買う。
荷物は、やる気のない梱包で数日後に送られてきた。
小汚い袋や納品書をはがし、いよいよご対面。
古本にしては綺麗な状態の「それ」が、目の前にある。
人生で初めて遭遇した、正真正銘のファーストコンタクト・エロマンガである。
記憶通りのタイトル、表紙に、感動で打ち震える。
同時に、なんで以前は検索しても見つからなかったのかが、マジで分からない。
いざ、再読
どんな物か、さっそく読んでみる。
なるほどなるほど、と。
当時は、ミリも意味が分からなかった描写の意味が、手に取るようにわかる。
そして、ビックリするぐらい古い絵かつ、現代のエロマンガに慣れた汚れ切った目には、あまりにもエロくない。
もはやモザイクの有無ではなく、エロマンガ黎明期の遺物と言うか、電気自動車がブイブイ言ってる世の中で、蒸気自動車をノスタルジーだけで買って後悔しているのに近いと言うか。
思い出は、曖昧な思い出のままの方が良い。
そう、思うには十分な、マイナスのインパクトがそこにあった。
初恋の人に数年越しに再会したら、なんか大した人じゃなかったというか、恋は盲目と言うか。
かくして、初めて遭遇してしまったエロマンガを探すと言う遊びは、なんともビターなエンドを迎えたのだった。
終わりに
ちなみに今は、初めて買ったエロマンガと共に、仲良く本棚に陳列されている。
まあ、本の内容よりも、捜索が謎解きみたいで楽しかったという話でした。