一度、捨てよう
創作をしていると、真面目なだけではダメな場面に遭遇する事がある。
普段、真面目に考えている人ほど、真面目に不真面目を考えてしまい、どうしても面白くならない時がある。
そんな時、常識を一度捨てるのが、とても重要になる。
普通で、常識的で、理解出来ると言うのは、真面目の領分だ。
ならば、それを捨てれば、どうなるか?
そもそも、普通、常識的に、等を考える事からの解放
あらゆる前提の放棄は、人の想像の幅を広げ、自由にしてくれる。
すると、前提と言う枠組みによって阻害されていた想像領域に意識が行く様になる。
そうなれば、突拍子もない組み合わせが、無限に生まれる事になる。
この効果は、とんでもなく大きな効能を人によっては与える事になる。
外へ、外へ
前提を捨てて自由な発想でアイディアを組むと、それは、通常では、決してあり得ない物ばかりになる。
例えば、恋愛をモチーフに作品を書こうと思ったとしよう。
普通は、男女と考えがちだ。
しかし、前提が外れると、人同士なら何でも良いかとなる。
更に、人と人じゃなくても良いと思えてくるかもしれない。
更に更に、人の必要は無いとか、動物でなくても良いと思えるかもしれない。
幽霊だって良い。
もっと前提を捨てると、本来意思がある存在にこだわる必要さえ無くなる。
人形の恋愛でも、星の恋愛でも、パンとソーセージの恋愛でも、何だってありだ。
最低片方に恋愛感情が必要なんて真面目に考えると考えがちだが、見ている人が恋愛だと分かればそれさえも捨てて良い。
恋愛その物に踏み込んでも良い。
好きな人を、傷つけたくなる、殺したくなる、食べたくなる、そう言う恋愛だとしても、前提が無いなら自由だろう。
スケールを整える必要も、前提が無いから無い。
虫と車が恋愛したって構わない。
前提を捨てると、とにかく制限が無くなる。
むしろ、外へ、外へと、自分が無意識に作っている制限の外側に意識が向く様になる。
もし、真面目な人が、その状況を真面目に見た時に荒唐無稽と考えてブレーキが掛かるなら、「なっとるやろがい」と無理やりにでも肯定して、あり得ないと言う気持ちを封殺しよう。
状況の意味や経緯は、どうでも良い。
その状況、それ自体に、今は面白さを見出している。
勢いで行くなら、その状況をシミュレーションで動かす
捨て去った前提の上に成り立つ、面白いアイディア。
その状況を動かしてみよう。
その際、気をつけたいのが、前提を捨てた状況の上に成り立っているが、その状況には、その状況のルールが適応され、それに従う必要があると言う事だ。
シミュレーションで動かす以上は、ルールに従う必要がある。
そのルールが真面目なら、変な状況で真面目なルールで状況が動いていくし、ルールも前提を捨てているなら特殊なルールに従う必要がある。
例:アンパンマン
前提を無くした自由な設計で作られた世界は「そう言う設定」で押し切っている。
それを理解出来ない人は、作品のターゲットでは無くなる。
だが、作品世界内には一定のルールがあり、住人達は、それに従って生活している。
勢いだけじゃないなら、そうなった経緯を練り上げる
物語に勢いをつけるなら、とにかく前に進め、そういう物と全てを突っぱねる必要がある。
だが、もし、その状況にリアリティを付与したいなら、どんなにあり得ない状況だとしても、そこに至った経緯を設定し、必要であれば描く必要がある。
これは、荒唐無稽な状況であればあるほど、難易度が上がる。
一方で、それを上手に設定できると、見る者を唸らせる事が出来る。
作品と向き合う時点で「とんでもない設定」とか「そう言う世界」と受け入れていた層が、「実は」を叩きつけられるのは、大きなどんでん返しとなるからだ。
例:けものフレンズ
けものフレンズは、獣をモチーフにした美少女が登場するコンテンツとしてスタートした。
一見、獣が擬人化した世界だが、サンドスターと言うキーアイテムによって、獣が人型に変化した物だと言う設定が存在する。
この、ちょっとした経緯の説明によって、作品の設定は現実との橋渡しが行われ、一気にリアリティが増している。
例:ソーセージパーティ
ソーセージやパン、他にも様々な物に人格がある、そう言う世界だと思いきや。
実は、物は物なのだが、人格も実際にあって、それに人は気付けないと言う、かなり特殊な設定。
劇中、薬物でラリって見える幻覚だと人が思っている視点が、物の人格や行動を観測できる様になる、物の世界への人側のシフトだったと判明する。
人側の世界に人がいると物は人に何も出来ないが、物側に人を連れ込めるとコミュニケーションが可能となる。
ラリっている人は、ラリっていない人から見ると薬物で狂っている様にしか見えないが、実は物の世界にシフトして混乱しているという話。
終わりに
前提は、物事を考える上で、とても大事だ。
だが、アイディアを広げる際は、一度捨ててしまう事で、縛られていた思考の癖から解放される事もある。
前提を放棄する事でしか考えつかないアイディアなんて、世の中いくらでもある。
とにかく好きな物を組み合わせるだけでも、そこには簡単に混沌を生み出す事が出来る。
刀剣と美男子が好きな人が、きっと刀剣男子を作ったろうし、魔物が好きで美少女も好きな人が、きっとモンスターガールを生み出しただろうし、メカが好きで美少女が好きな人が、きっと美少女ロボを生み出した。
それらが生まれる前は、それらの組み合わせは、最初、アイディアの段階では荒唐無稽だったかもしれない。
でも、今や、それらで世の中は溢れている。
前提をどこまで捨て、出来たアイディアをどこまで形にするかである。
あらゆる物に前提が存在している以上、このテクニックは、あらゆる場面でアイディアを広げ、視界を広げさせる事に使えるだろう。
余談:注意
この手法、やってはイケない場面が、いくつも存在する。
- 前提が決まっている、変えられない状況
- 前提を崩したくない状況
この様な前提を尊重する事が必要な状況では、ちゃぶ台返しとなってしまう。
例えば、タイムスリップ物の作品で新しいアイディアを求めている時に「タイムスリップじゃなくて怪獣物が流行っている」とか「そもそもタイムスリップの仕掛けに矛盾がある」なんて話は、求められない。
前提として飲み込んだ上で話が進んでいる状況では、その前提を崩すのは、容易ではないし、多くの場合は失敗の方が目立つ。
料理から特殊能力バトルに方向転換するとか、相当の難度がある。
これは、そもそも「前提が受け入れられている」状況で前提を放棄すると失敗に引き寄せられる。
つまり、そもそも前提があまり受け入れられていない状況でなら、もしかするかもしれない。
柔道より野球と言って方向転換するのは、かなり難しいが、新しく提示した前提の方が受け入れられれば、それで成功する事も十分あり得る。
要するに、その状態での「前提」が、どうなっているか次第と言える。
だから、さらの状態から創作する際は、前提が創作者以外にいないので、このテクニックは、物凄く役立つ。
一方で、プロジェクトの途中と言った既に動いている「前提」がある場合は、その前提の中で動くか、その前提の受け入れられ度合いと、新たな前提の受け入れられ度合いを秤にかける必要があるわけだ。
くれぐれも、鬼の首をとったみたいに「そもそも」なんて話を、安易にしない様に。
するとしたら、前提放棄が輝く場面だ。
そうでないと、「あいつ、ちゃぶ台返しして、自分のアイディア押し付けてきたけど、ありえねぇ」と思われるだけで、アイディアが受け入れられる事は無い。
例え、それが実は良いアイディアでも、前提の持つ力は、もっと強い。
それが、既に力を持っている前提なら、ポッと出のアイディアだけで打ち崩すのは難しい。
前提自体が無いか、グダグダの時に使うと、「あいつ、めっちゃ頭柔らかいし面白いアイディア出すな」と受け入れられる可能性が高まる。
その点だけは、注意しよう。