行動制限の差
刑法には「人を殺してはならない」とは、文言で書かれていない。
しかし、殺人罪が存在し、人を殺せば罪に問われる事を明言する殺人罪の提示は、イコールで「人を殺してはならない」と言っているのと同じで殺人への抑止力となっている。
そう考える人は多い。
だが、それは、安易な解釈である。
分別や道徳心が少ない人や、幼い子供に「どうして人を殺してはいけないの?」と聞かれれば「相手が嫌がる事をしてはいけない」「自分がやられて嫌な事はだめ」「法律で決まってるから」等と答えるのは、ありだろう。
しかし、分別があり、道徳心もある人からすると、前提が間違っている。
日本は「人を殺してはならない」国では無いからだ。
正確に言うと、「”どんな理由があっても”人を殺してはいけない」と言う訳ではない。
中には定義や解釈の話も絡んでくる領域の話もあるが、死刑制度は、国に認められた人が罪人を殺す制度と言える。
堕胎、脳死状態の人からの臓器摘出、正当防衛、戦争状態、人が人を意図して殺して罰せられない状況は、探せば結構ある。
つまり、これは裏を返すと「条件付きであれば、人を殺す事が認められている」と言えるわけだ。
だから、刑法では「人を殺してはいけない」とは書かれていない。
だからと言って、安易に人を殺して良いわけでは無い。
だからこそ、殺人罪が存在する。
この法的な状態は、他の物にも当てはまる。
表現の自由と殺人罪
「表現の自由」は、上記した「殺人罪」的な考えに当てはめて考えると、色々見えてくる。
殺人罪は、行動に対して罰を設定する物だ。
一方で、表現の自由とは、行動に対して権利を設定する物だ。
これは正反対であり、ベクトルを揃えて見るならば
- 殺人罪に合わせると、違法表現の禁止
- 表現の自由に合わせると、合法殺人の自由
みたいな事になる。
なので、表現の自由を守ろうとする人と、違法な表現を法規制で取り締まりたい人の争いは、規制派の人が殺人罪ぐらいの分かり易さで違法表現を定義し、それが広く認められないと話が前に進まない。
ここで問題になるのは、定義の難しさと、イレギュラー扱いの量だ。
殺人罪は、当てはまる状態自体が全体から見ると少なく、先に殺人を認められている場合以外は、後に合法だとされても、それが違法で無いか一旦は調べられる。
つまり、許可無き殺人の大半は違法で、合法とされる殺人は極僅かと言う前提がある。
殺人罪の場合は、それ自体が少なく、更に認められるイレギュラーの方も少なく、その中で認められる要件の定義をする訳なので処理は最小で済む。
一方、表現の自由は、基本が合法となり、対象は非常に多く、問題がある場合は、誰かが声をあげる必要があり、そこから違法で無いかが調べられる。
つまり、許可無き表現の大半は合法で、違法とされる表現は極僅かと言う前提がある。
殺人罪と違い、違反している方がイレギュラーであり、違反の疑いがある物の違反を定義する訳なので、処理は最小で済むわけだ。
これらから分かる通り、表現規制を要件を厳密に定義して制定するのは、合法殺人を法律を制定して認める様な事であり、それよりも遥かに難しい。
個別具体的な文言を当てはめると、ピンポイントで機能し辛くなり、曖昧にすると入れたくない範囲まで含まれる事になりかねない。
つまり、「人を殺してはいけない」と言う法律を作るより、殺人罪を作った方が管理が合理的なのと、似た様な状態となる訳だ。
だから、表現規制は独善的な誰かが強引に進めない限りは難しいわけだ。
行動を禁ずるか、行動を罰するかの差
禁止するか、権利を認めるかは、その対象の性質で決めるのが良い。
考え方としては、正しい多数に我慢を強いるか、間違った少数を後で裁くか、どちらが良いかである。
殺人罪は、自分勝手に殺したいと言う少数に我慢を強いているが、正しい大多数にも実害はない。
間違った少数を後で裁けば良く、合法となる更なる少数も救う余地がある。
表現の自由は、正しい大多数は我慢をする必要が無く、間違った少数を後で裁けば、違法行為には報いを与えられる。
つまり、どちらも、少数の問題行動者を、後で罰するスタンスと言える。
一方で、仮に表現規制を行うと、どうなるだろうか?
特定の表現を使いたい多数が我慢を強いられ、違反した人も、法となっているなら裁かれる事になる。
これは、明らかに間違った表現を定義しない事には、正しい多数が我慢を強いられる事になり、間違っているかも怪しい多数を片っ端から成否判断する事で、特定の表現を弾圧する様な事になる。
ロシアで反戦運動をしたと思しき人が片っ端から捕まっているニュースが一時流れたが、あれをやらないと表現規制は機能しない。
これらから分かるのは、間違いを犯すのが少数と言う前提で法律は作られ、規範に沿って生きる人は制限を感じない様に設計しないと、色々と機能不全が起きると言う事だ。
多数の問題無い人に我慢を強いる様な制度を作ると、それだけで制度の範囲内は影響分だけ衰退していく。
誰が実害を負うか視点
ルールが規範を示さず、人々に我慢を求めると、そこには害が生まれる。
表現の禁止は、表現したいと言う多数に我慢を強いる事で、反発を生む。
禁止表現を大多数が正しいと納得しない限りは、規制は確実にマイナスに働く事になる。
だから、表現は自由は、実害のある表現のみに我慢を強いる事で、誰にも実害がない状態にしている。
モチーフが何かは問題にならないし、不快か否か等は実害ではない。
実害は、明らかに多数の人の「行動が変化する影響を持つ事」である。
一部が問題を起こすと言う理由で全体を制限すると、物によっては多数が我慢を強いられる。
するべきは、問題を起こす一部だけを正確に制限する事だ。
どういう切り口にすれば、ピンポイントで問題部分だけを制限できる文言を表現出来るかが、かなり大事だ。
例えば、特定の個人や団体への誹謗中傷は、罰の対象となる事がある。
皮肉、問題提起、事実陳列、そう言った範囲を逸脱し、嘘や差別、明らかな攻撃を行った場合に、罰せられる可能性が出る。
それらが違法とされるのは、それらを禁止された際に我慢を強いられるのが圧倒的少数である事と、明白な実害が出やすいからだ。
ローカルルールは問題だらけ
校則で、地味な髪型や服装の強要がある。
これは、多数に我慢を強いるルールの定番だろう。
地毛が黒以外でも黒に染めさせるとかは、我慢を強いられるのが少数に感じるかもしれない。
だが、これは、そもそも生まれつきの特徴を否定しているので、論外のパターンだ。
生まれつきの特徴を否定するのは、明確な差別である。
他にも、ブラック校則や、企業の社則を見ると、問題ルールは幾らでも見つかるだろう。
- 多数へ我慢を強いる状態
- 法律違反
どちらか、あるいは両方に当てはまっているルールがあれば、早急に変えた方が良い。
終わりに
行動の一律禁止と、問題行動への罰則には、差がある的な話でした。
真っ当な日常の中でのルールの場合、多数側に我慢を強いるよりも、違反した少数にだけ対処をするように設計されている事の方が多いです。
そうしないと、大多数が行動制限を受け続け、社会が不要な部分でコストを払わされ、摩耗してしまうからです。
ルールを作る時は
- 他のルールと矛盾無く
- 多数が我慢を強いられず
- 環境の持続可能性があり
- 幸福度が高まる
等が満たされる様に設計しましょう。
どれかが欠けたルールは、別の問題を作り出してしまいます。
管理社会である程、ルールで多数に我慢を強いがちです。
その方が、我慢する必要が無い人が管理するには、都合が良いからです。
自由な社会で生きたい場合は、多数に我慢を強いるルールには、抵抗し続ける必要があるとも言えるかもしれません。