誰も傷付け合わない天国の様な世界
物語の世界観を表す言葉に「優しい世界」と言う物がある。
きらら系の多くは優しい世界に入っているし、それ以外にも優しい世界として認識されている作品は、数多くある。
今回は、優しい世界を作る為に気を付けないといけないポイントについて少し語る。
余裕のある社会
優しい世界を描くには、一も二にも余裕が無いといけない。
余裕のない世界では、優しい世界を描く事は難しい。
世界に余裕があると言う事は、そこに住む人にも余裕があると言う事だ。
カビたパンや汚い水を奪い合う様な極限に余裕の無い環境だと、それでも仲間や他人に譲る様な感動的な展開は描けるが、優しいと言うよりは、自己犠牲的や聖人的な描写となってしまう。
優しい世界では、衣食住が足りている事が望ましい。
余裕があるからこそ、人は自己犠牲無く優しくなれる。
寛容な人々
優しい世界は、不寛容な人に対して、不寛容だ。
不寛容な人がいると、優しい世界は脆くも崩れ落ちる。
寛容さを強制する不寛容さが、優しい世界を支える事になる。
だが、寛容さを強制すると言う不寛容さは、世界に余裕が無いと出来ない。
世界に余裕があるからこそ、寛容さの強制が、強制にならない。
つまり、余裕がある世界なのに、何故か不寛容な人だけ排除すれば、優しい世界は守られる状態である必要がある。
理想的な適材適所社会
優しい世界は、余裕があり、住む人も寛容だ。
なので、人々は適材適所で社会に関わる事が出来て、日常に大きな不満は生まれない。
人が日常で抱える問題の多くは、対人関係から生まれ、それは適材適所を大きく外れた状況下で起きる。
要は、苦手や嫌いな人と同じ空間に閉じ込められる事で起きる。
また、人に停滞をもたらす問題の多くは、何かしらの出来ない事を役割として担わされる事で起きる。
つまり、人間関係も、社会的役割も、適材適所で問題が起きなければ、解決するべき問題は、他になる。
起きて欲しくない問題はトラブルの領分だが、大きなトラブルが起きない世界では、余裕がある人々は自分が幸せになる事に注力できる。
それは、チャンスを追い求める問題解決がメインと言う事になり、チャンスを掴む為に問題を乗り越えていく際も、余裕があり、寛容であり、適材適所が当てはまるので、真っ当にステップを踏む事になる。
だから優しい世界は、見ている人も、とても心地良い。
トラブルも間違いも、余裕と寛容がカバーする
優しい世界がいかにトラブルが起き辛いとしても、時にトラブルは起きる。
だが、優しい世界で起きる問題は、余裕のある社会と寛容な人々によって解決が見込める。
人の温かさ、性善説的な理想的な行動、そう言う物で溢れた環境では、余裕のキャパを超える事態が起きなければ、大事にならない。
そして、優しい世界を描く上では、余裕を超える問題は起こさない方が良い。
例えば、大災害が起きる様な描写は、優しい世界を壊してしまいかねないので、やるなら慎重に扱う必要がある。
ギブ&テイク
余裕と寛容は、一方通行では無い。
これは必ず、双方向性を持っていなければ機能しない。
問題が起きても、誰かが間違っても、余裕があり、寛容なので、激しく怒らないし、極端に憤らない。
その必要が無い。
助け合いが当たり前。
それで助けて貰えれば、礼を言えるし、失敗してしまったら、素直に謝れるし、どんな事でも相手の事をしっかり尊重だって出来る。
そして、甘えるだけでなく、出来る事でお返しが出来る。
全員に余裕と寛容さがあるから、全員が誰かしらを常に気にかけている。
気にかけられている人は、それに気づき、優しさを返す。
世界は愛で満ち溢れた状態だ。
正のスパイラルで、優しさのキャッチボールが延々と行われ、世界は尊さで満たされていく。
だからこそ、優しい世界は、見ているだけ心地良く、一見退屈に見えても浸っていたいと思わせてくれる魅力を持っている。
終わりに
優しい世界は、余裕の無い不寛容な人が一人でも入り込むと、急に機能しなくなる。
また、自己中な人が自分の得ばかり求めても、機能不全に陥る。
そう言う意味では、現実に実現可能だが、継続させるのは難しい世界と言えるだろう。
現実では、適材適所がそもそも難しく、社会は余裕が無く、住む人は不寛容で、だからこそ自己中な人が多い。
その状況下では、不寛容な人を排除していくと、優しい世界では無く不寛容な人に不寛容な世界になるし、自己中な人を排除していくと、宗教じみた世界になっていく。
かなり余裕のある社会だとしても、だからこそ余裕に甘えて役割をこなさない人は一定数生まれるし、適材適所で配置が一部で出来たとしても全体では難しく、適材適所の格差社会と言う問題が起きかねない。
そうなると、優しい世界は現実世界では、小さなグループ内でしか実現が難しい物だと分かる。
現実では恐らく、小さな優しい世界を沢山作っていく事が、優しい世界の実現に対して現実的だろう。
一方でフィクションの場合は、余裕がある社会も、全員が寛容な人と言う事も、適材適所も、起きる問題が余裕と寛容さでカバーできる状況設定も、ギブ&テイクの徹底も、理解していれば問題無く出来るし、それらだけで構成した所で、社会から弾き出される問題児が発生しない点で、どこまでもクリーンな世界を維持できる。
時々、優しい世界を作ろうとしているのに、自己中なキャラクターを使いたがる人がいる。
自己中の度合いが度を越える場合、当然だが、優しい世界の異物となってしまう。
それでも自己中なキャラクターを入れたい場合は、恐らく、優しい世界では無く、そのキャラクターにとって都合の良い世界を描きたいと言う話になってくる。
優しい世界には、不器用な人は、居場所がある。
だが、極端に自己中な人の居場所は、無い。
優しい世界には、優しい人の居場所しか無い。
それでも排他的にならないのは、社会が理想的だから誰もが優しくなれる事で、優しく無い人を産み出さない様にしている前提がある為だ。
優しい世界を作る参考になれば幸いである。