頑固な価値観は、一度壊さないと変えられない?
人は誰しも、あらゆる事に対し、それに注意を向けられれば、それに対する意見を持つ事になる。
好き嫌いが大抵の物にあり「別に何とも思わない」と言う、一見ニュートラルな物でさえ「これと比べると?」と言った比較物を差し出されれば、僅かにでも好き嫌いの差が生まれ得る事さえある。
好き嫌いが明確な物となると、好き嫌いの根拠が明確でなくとも、線引きさえ本能的に分かれば、何が好きで何が嫌いかを嗅ぎ分ける事が出来る。
そして、過去の経験によって一度決まってしまった価値観は、とても強固で、自分の意志で変える事さえ難しい。
増して、好きでも尊敬の対象でもない他人に、その価値観を変える事は、この上なく困難だ。
討論番組の価値と意味
真面目な事をエンタメにする討論番組では、論破のし合いが描かれる事がある。
反対意見の人同士でディベートやディスカッションをして、意見を戦わせる奴だ。
こう言ったコンテンツは、世の中に様々な意見や考え方がある事を見える化する上では、非常に価値があるし、面白い。
だが、こう言った討論番組で完膚なきまでに叩きのめされた論客が、意見を変えると言う事は、ほぼ無い。
つまり、明らかに論理で負けても、仮に間違っていても、その人を説得する事には繋がらない。
様々な意見や考え方がある事を提示する意味はあるが、説得の場として討論番組が価値を発揮する事は、相当稀なケースであり、その大半は、様々な立場で様々な意見を戦わせ、時に勝者を印象付けるだけで、無意味と言える。
これは、問題提起系のドキュメンタリー番組等も同じだ。
そもそも、双方が自身の意見を変える気が無く、自分こそ正しいと思い、相手こそ間違っていると決めつけている事もあり、そうなると、自分の意見を発表するだけで、そこには何も生まれない。
他人に伝え教え気付かせる難しさ
両者に、それぞれの正義があり、どちらも正しいし、どちらも間違っていたり、至らないなら、まだ良い。
恐ろしいのは、完膚なきまでに絶望的に間違っていても、そのスタンスを貫いてしまうパターンだ。
大きく間違っている人であっても、それが正しいと信じ込めるだけの根拠が、その人の中には、確かにある。
その人の中に揺るがない正しさがあると、もう、その意見はテコでも動かない。
長らく話題になっていたカルト宗教を信じる末端信者と、脱退させたい家族の意見が平行線になるのは、その為だ。
揺るがない正しさが、間違っていても一度設定されてしまうと、そこを由来とする意見は、ちょっとやそっとの事では変わらない。
絶対正しいと言う価値観は、一度形成されると、その事を考えずに物事の判断をする事が出来る様になり、思考のショートカットが出来て、非常に便利だ。
問題は、その根拠が薄弱だったり間違っていたりする場合、あらゆる判断が間違った前提で行われる事となる。
その状態の人を放置出来るなら放置しても良いが、そう言う価値観が他人への攻撃に繋がるパターンが、世の中には溢れている。
そうなると、攻撃される側は、どうにか間違った価値観で攻撃のトリガーを引き続けている人の価値観を変えたくなり、話し合いや、討論、悪ければ論破を試みる。
しかし、それらは、当然の如く大半が失敗に終わる。
その価値観の根拠は、そんな話し合い程度で揺らがない程根深く刺さっており、厄介な事に、価値観を部分的にでも否定する意見に対して、まるで自身を攻撃された様な気持ちを誘発させる事で、価値観自体が自己防衛機能を持っていると言える。
だから、そう言う人は、自分の意見を変える気が無い話をする場合は、自分の意見を言うだけで、会話にならない。
意見が変わる条件
しかし、どんなに正しい根拠が根深い価値観であっても、変わる事がある。
価値観を破壊される出来事に遭遇する
死刑反対論者がいたとする。
その人の意見を間違っているとは思わないし、むしろ理想論的には正しいとも思う。
きっと、多くの人は、そんな物だろう。
そんな人の意見を変えるには、どうすれば良いか?
討論では、その人の意見は、テコでも動かない。
だが、例えば、その人の一番大事な人から順に誘拐され拷問の末に殺されてしまう様な事件が、犯人を殺すまで続くとしたら?
相当気合の入った死刑反対論者で無ければ、その犯人だけでも殺そうと考えてしまうだろう。
価値観が間違っている事の証明を、実害と過度の痛みを持って知れば、意見を変えない方が普通ではない。
他人の意見を変えるには、その意見が間違っている事を、痛みを持って証明するのが強烈だが、一つの手法としてある。
これは、映画「ダークナイト」で、ジョーカーがバットマンや市民を試す事で実現しようとしたのと、同じ事だ。
意見を聞くしかない相手に説得される
多くの人は、何を言われるかより、誰に言われるかを重視する。
そして、人によっては、意見を変えるだけのパワーを持つ他人を持っている事がある。
例えば、あなたがデザイナーだったとしよう。
なんのデザイナーでも良い。
本でも、鞄でも、服でも、何でもだ。
ある日、部下がクソダサデザインを提出してきたとする。
どう見ても、売れない。
なんなら不愉快まである。
その部下が、どんなに前衛的と言って来ても、あなたは意見を変えず、どうにかして真面なデザインに直させようとするだろう。
それが仕事だ。
だが、あなたが尊敬するデザイナーが「これ誰の作品? ヤバくない? めっちゃ良いじゃん!」と言って、根拠を列挙し始めたら、自分の意見がグラグラ来てしまう人もいるのでは無いだろうか?
スティーブ・ジョブズ信者の中に、スティーブ・ジョブズの意見に反対出来る人は、何人ぐらい、いるだろうか?
誰に言われるか次第で、カチコチだった価値観も、時にあっさりと塗りつぶされる事がある。
変えないとならない自覚と、変える覚悟を持つ
自分の価値観を変えないとダメと言う自覚までは、自分の至らなさを自覚すれば、誰でも持てる。
大事なのは、本当に変える覚悟だ。
覚悟ぐらい簡単と思うかもしれないが、それは大きな間違いだ。
世の中の大半の人は、口だけ、気持ちだけの覚悟しか出来ない。
覚悟を決め、価値観を変えようとすると、人は、行動が変わる。
つまり、旧来のダメな価値観では出来なかった事を出来る様に、行動が変わっていない内は、価値観は変えたいと思っているだけで旧来のままと言う事だ。
行動が変われば、得られる結果が必ず変わる。
終わりに
価値観を一度壊すには、
- 実害を持って壊される
- 愛を持って塗り替えられる
- 自制心を持って、自分で壊すか塗り替える
等が必要で、そうで無い場合は、論破しても相手の意見は変わらない。
と言う話でした。
この頑なな意見は、創作教室でも結構問題になる事だったりします。
根深い思い込みや、無理をしてでも使いたい手法やモチーフ、テーマ等へのこだわりによって、創作する過程で問題を抱えている人の中には、解決策を提示しても行動が変化しないと言う人が一定数います。
その場合は、行動を出来るだけ変えずに、問題を解決するか回避するしか無く、それはストレートな解決策を使うよりも遠回りになる事が多いです。
例えば、良くあるパターンが、主人公の動機が弱いとか、問題解決行動が出来ていないから、そこを修正した方が良いと言う話をして理解した、と思ったら「どうすれば動機が弱いまま、行動しないで魅力的な作品に出来ますか?」なんて質問が飛んでくるなんて事は、良くあります。
価値観を変えるのは、性格や状況によっても難易度に差があり、それが難しい人は、本当に難しいものです。
なので、どんどん良い他人の意見を取り込んで、要領やコツを掴んだり、サクサクと効率良く成長する事が得意と言う人は、それは世間から見ると稀な才能の可能性が高いので「わたし、才能の塊かも」って得意に思いましょう。
逆に頑固な人は、「わたし、頑固かも」って思うだけでも、少し頭は柔らかくなります。
自覚するだけで無自覚より万倍マシです。
余談:表現の自由VSの永遠の平行線
不愉快だったり、倫理的、道徳的、道義的、ポリコレ、様々な一見すると正しい理由で不適切な表現を規制したがる正義感溢れる人々と、表現の自由戦士と言う立場になってしまった様々な人々の戦いは日常茶飯事だ。
日々、様々な表現が社会のホワイト化と言う流れに逆らえず、規制の危機にある。
この、自由主義者と規制主義者の戦いは、お互いが意見を変える気が一切無いので、基本的に平行線である。
では、何が規制を決めるかと言えば、規制の決定権をどちらが握るか、それだけである。
日本は、漫画・アニメ・ゲームと言ったカルチャーが世界に誇れるコンテンツとなっている状態と言う事もあり、その文化を守る事は、非常に重要と言える。
自由主義者は、そう言った文化を、活発な創作環境を今のまま守ろうと言う、創作環境保護者と言える。
一方で、規制主義者は、澄み切った水の中に不快や危険な生物が潜んでいる事が許せない、創作環境の整備を訴えている。
一見、どちらも正しく思えるかもしれないが、一方には明らかな問題がある。
創作者の大半は、当然ながら自由に創作の海を泳ぎ回りたい。
その方が、個人も楽しいし、生態系が自然に出来て豊かな環境が維持されるのは明白だ。
現状が豊かなのだから、不快な生物がいようが、危険な生物がいようが、維持するのは当然と言える。
一方、規制したい人は、その環境を壊して、種類の限られた魚しかない生け簀か、水槽の様にしたいと考えている。
ゼロから水槽をデザインしたり、生け簀で養殖すると言うなら、問題はない。
問題は、豊かな海を壊して、狙い通りの理想的な環境を人類が狙い通りにデザインし、実現する事が出来るか、と言う事だ。
ハッキリ言えば、後者は、理想論者であり、かなり難しいし、恐らく無理だ。
規制主義者は、豊かな創作環境が欲しいのではなく、不愉快な生物を根絶やしにしようとしているだけで、環境の事を考えていない。
不快を一度規制し始めれば、あらゆる不快は取り除かれる方向に舵が切られ、その先に待つのは創作環境のディストピアだ。
と、ここで一意見を提示しても、規制主義者は自分の意見を変える事は、恐らく無いだろう。
もし変える事があるとすれば、実害が自分に及んだ時。
自分が大好きなコンテンツが、規制主義者に規制されたり燃やされた時に、ようやく「そう言う事か」と気付く、人は気付くし気付かない人は永遠に気付かない。
何を言いたいかと言うと、この戦いは永遠に続くと言う事だ。
そして、表現の自由を守る手を止めれば、未来を想像出来ていない規制主義者によって、ディストピア化が起き、その流れを止める事は難しくなる。
だから、表現規制派の人が声をあげたら、面倒でも反対の意見で黙らせ続けるしかない。
もしくは、規制主義者が規制されないと思っている物を規制する動きを見せて、実害を味合わせて目を覚まさせるかだ。
規制派の人は、何を規制されると痛みが伴うレベルで困るだろうか?
誰か頭の良い人が思いついたら、規制派側に回って規制派の人の肩に手をのせ、仲間みたいな顔でその人の大事な物を、反論の余地が無い正論を言いながら一緒にぶち壊そうと誘えば、ちょっと面白そうである。