意識が高いって、どういう事?
意識が高い人って好きですか?
憧れる人もいると思いますが、きっと「あの人、意識高い系で苦手」なんて事もあると思います。
ですが、そもそも「意識が高い」って、どういう状態でしょうか?
どうして「意識が高い」と言う事が、良い事で、大事なのでしょうか?
意識が高いと言う事
意識が高いと言う事は、どういう状態か?
意識が高い事を口走るとか、意識が高い系のブームに乗っかるとか、やたら倫理観や道徳意識が高いとか、環境問題や人権問題に興味があるとか、そう言うイメージをする人も、多いと思う。
だが、それらは、意識が高い事で起きる行動の変化や表面的な部分を見ているに過ぎない。
意識が高いと言う状態は、物理的で無く、意識的な意味で、視点が高い状態にあると言う事だ。
物理的に視点が高いと、広い範囲を上の方から見渡す事が出来る。
これを精神的にする状態が、意識が高いと言う状態になる。
意識が高いのは、意識が高いレベルにあろうとすると言うイメージと同時に、意識が物理的に例えても高い位置にある状態で、物事の判断が出来る、そんな意識の位置状態にある事を指す。
意識の高度が高いと言う状態の利点と欠点
物理的に高度が高いと、広い範囲を遠くまで見渡す事が出来る。
地べたから見上げるよりも、山の上から見下ろす方が遠くまで見える。
それは意識でも同じ事。
では、意識が概念的に高い位置から遠くを見るとは、どういう事か?
それは、空間的な自分に関係がある周囲と言う範囲判定や、時間的な自分に関係がある未来と言う範囲判定が、より遠くまで想像出来て、実感できると言う事だ。
だから、意識が高い人は、環境問題とかが大好きなのだ。
自分と関係がある周囲の範囲が、自分の本当に周囲や友人関係とか職場や学校だけでなく、地域、国、地球と言う規模にまで広く設定しているからこそ、環境問題に取り組む事が自分事の様に感じられ、問題解決する事が気持ち良いわけだ。
逆に、意識が低い人は、自分と関係がある範囲判定がそこまで広く無い事で、自分の問題と感じられず、興味が湧かない。
空間的な範囲だけでなく、意識が高い人は時間的な範囲でも遠くを自分事と考える事が出来るから、環境問題は未来の為に取り組まなければならないと一生懸命になれる。
意識が低い人は、自分が生きている時間的範囲さえ良ければ問題にならないので、遠い未来の問題解決に取り組む意識が高い人のやっている事が、珍妙に見えてしまう。
意識が高い人は、この様により遠くまで空間と時間を概念的に見回せる事で、大規模で長期的な計画を立てる事が出来て、それを自分の目的で発揮する場合に、大きな事を成し遂げる事に繋げやすい。
しかし、意識が高い事は良い事ばかりでなく、意識が高ければ高い程に、意識が低い状態で無ければ見えない事が見えづらくなる。
山の頂上からは遠くが見えるかもしれないが、家の中で何が起きているかまでは、目を凝らしても見えづらい。
意識でも同じ事で、意識が低く無ければ分からない事が、意識が高い状態の人は、分かり辛くなってしまう。
人が他人を傷付けられるのは、意識が低いから
人は、他人をわざと傷つけて、愉しむ事がある。
他人を傷つける場合、自分の意識の高さでは見えない、自分の人生の良い事に関係が無さそうな相手だから、相手を傷付ける。
これは、どんな意識の高さレベルの人でも同じ事だ。
意識が低いから、その人が良い物や大事な物と意識出来る「範囲の外側」にある物に対して、人は残酷になれる。
一見して意識が高い人でも、何もかも意識が高いわけでは無く、特定の物に対して意識が高いだけで、他に対して意識が低いなんて事は、よくある。
環境問題に対して意識が高い人が、美術品に対して意識が低い運動をして、世界中から反感を買った様な事件もあった。
フェミニストを自称する意識が高い人が、フェミニズム的な問題以外で意識の低さを露呈する事も、よくある。
ポリコレも、そうだ。
子供部屋おじさんと子供部屋未使用おばさんや、おじさん構文とおばさん構文の争いも、双方が相手方に対して意識が低いから、攻撃的になる。
そう言った、ピンポイントで意識が高い人の中には、それ以外の部分で意識が低い人が、かなり多い。
他の事に対しても同じように意識が高い場合は、活動している事と同じ様に他の事も見る事が出来る筈で、それが出来ている人は、一部と言って差し支えないだろう。
先にも書いたが、意識が高い人は、空間的にも時間的にも概念的に遠くが見えている。
つまり、自分の行動が、どういう結果を起こし、その影響が後にどう出るかを広い範囲で考える事が出来る。
そう言う人が、他人を傷つける事が出来るだろうか?
誰かを傷つければ、必ず、何らかの形で反撃がいつか飛んでくる。
誰かを傷付ければ、自分と関係している誰かが間接的にも傷つく事になる。
それが分かっているのに攻撃するのは、自分にとって特別な物を早急に守りたいとか、相手が著しくモラルに反する行為をした様な場合以外は、普通取らない。
つまり、反撃が飛んできて自分が損をすると言う想像力が働かなくなった範囲が、意識の高さの限界高度で、意識の低さを露呈するラインと言える。
意識が本当に高い人は、無関係な他人はいないと感じるし、攻撃すれば必ずしっぺ返しが来ると分かっているので、それを踏まえない行動は取らないので、他人を悪戯に攻撃する事は無い。
意識を高くすると言う事は、見渡す遠くと未来の範囲を広げると言う事
意識が、ある程度の高さがあった方が良いのは、その人が意識出来る範囲を広げる事が出来ると言う事が、かなり重要と言う事だからだ。
例えば、意識が極端に低い場合、自分にとって大事な範囲は、自分がいる範囲だけや、その中に自分さえ無いと言う事になる。
未来も想像が出来ず、今を生きるので精一杯と言う状態で、自分の生存以外に重要な物が無いなんて意識の低さでは、周囲を傷つけ、自分も傷つけ、なんとか先が見えない未来を延長する様な生き方しか出来ない。
悪いと、先が見えない未来に悲観して自死を考えかねない。
一方で、意識を高く出来る物が何か一つだけでもあると、それは人を救う希望になる。
例えば、多くの親は、子の存在によって、自分の意識を高くする範囲に子と言う存在の周囲まで広げる事が出来て、子の未来と言う先を見る事が出来る意識レベルまで意識が高くなる経験をする。
子供でなくとも、趣味でも仕事でも、意識を高く出来る事物や人が何かあると、広い範囲を見て、遠く、前まで想像も出来なかった未来まで想像する余地が出てくる。
何も、地球全部や遠い未来まで想像して自分事にする必要は無い。
だが、意識を高く出来る物が多い方が、人は幸せの拠り所を多く持つ事が出来るのは間違いない。
意識高い系とか、活動家とか、ストイック過ぎる人の影響で、意識の高さに悪いイメージを持つ人がいるかもしれないが、意識が高い方が人は幸せになれる。
意識が低い人に、意識が高い行動を強要する事がルールの基本
意識が高い人は、広い範囲を遠くまで見えると言う感覚から、意識が低い人に同じ視界での判断を望み、結果的に意識が高い行動を強制する。
環境問題に興味が無い人にもリサイクル協力は求めるし、一部の人しかやる気がない会議でも率先した参加と意見交換を求められる。
他人の意識レベルを高めないで、高めた結果の行動だけを強要をする事で意識が高い人が望んだ結果は、部分的には得られる。
問題は、行動を強要しても、人の意識レベルは個人と向き合わない限りは変わらないと言う事だ。
ルールだからで受け入れるとしても、受け入れた人の意識は低いままだ。
そして、精神的には受け入れていない状態でのルール順守行動には、理念が無く、中身が無い。
そうなると、ルールがいかに優れているかに、行動変化がかかってくる。
例えば、リサイクルの場合は、ポイントや罰則によって行動を縛ると言う事をしなければ、リサイクルの強要は難しい。
ただの努力義務では、意識が低い人はリサイクルをしなくなる。
リサイクルを必要と感じるだけの意識レベルが足りず、面倒くさいだけが残るからだ。
損得によってルールを強要しても、部分的な結果しか得られないが、そうしなければ高い意識の結果の行動を行き渡らせる事が出来ないのは、昔から同じだ。
人殺しや窃盗等の犯罪は、分かりやすく損得のルールで禁じられている。
犯罪として罪がバレればペナルティがあるから、それが分かる意識レベルの人は、やらない。
これは、意識が高い状態なら取り得ない行動を、皆に高い意識を望めない事から、法律で縛っていると言う状態だ。
意識が高いと言う事は、自然とルールで縛られる行動の制限を自分に課せるが、意識が低いと言う事は、ルールによって雁字搦めの窮屈な状態を生きる異なる。
文明社会で生きる場合、自分で必要と課したルールに従って意識高く生きるのと、他人が課した意識が高いルールに縛られて窮屈に生きるのでは、体感している自由度が違ってくる。
文化的に生きるには、意識が高い方が結果的に自由に生きられる。
これは、ある意味で皮肉な状態だ。
意識が低い方が自分勝手に動けるのに、それを社会が許さないから、意識が高い方が最終的に自分勝手に動けて感じるなんて、ややこしいにも程がある。
終わりに
意識の高低は、
- どこまで遠い未来まで自分と地続きに想像出来るか
- どこまで広い範囲まで自分と地続きに想像出来るか
これらを左右する、持てる視点の高さによって変わってくると言う話で、その人にとって大事な事物や人によって視界に浮かび上がる物が違うと言う話でした。
意識が高い人は、広い範囲を遠くまで自分と地続きの事として認識出来るので、より良い未来を考え、良い状態を長く維持したり、より良くする為に、善行をします。
意識が高い人には、自分の人生を良くしたり意味がある物にする為の行動と実感がありますが、意識が低い人には、意識が高い人に見えている遠くまでは見えておらず、自分の為にならない善行や偽善をする人に見えます。
意識の高い人は、広い範囲をトータルで見て自分の為になる事をしていて、意識の低い人は、狭い範囲で判断できる自分の為になる事をしています。
だから、政治家や経営者は意識が高い方が、どちらかと言えば良い場合が多く、意識が低い人が未来も考えずに自分の為に選択をする様な状態は、悲惨な結果を生みがちです。
と言って、何でも良いから意識が高い人をトップに据えれば良いと言う訳でなく、本記事内で説明している様な、本来的なピンポイントで無いバランスの取れた意識の高い人に、ピンポイントな目的を持って未来を見据えた行動を取って貰うのが、一種の理想的な状態と言えるでしょう。
問題は、意識が高い人は、ピンポイントな分野で意識が高くなりがちな事と、全方位に意識が高い場合にピンポイントな選択をするには、相応の決断力が必要となる事です。
広い範囲で意識が高いと言う事は、ピンポイントで意識が高いだけでは見えない範囲の事まで予測出来てしまうと言う事です。
つまり、何かを選び取る選択をすると言う事は、その人にとっては何かを切り捨てる選択まで見えた状態と言う事になり、理想的な指導者やリーダーは、意識が高いと言う理由で正しい判断が出来るのに、意識が高い事で正しい選択に苦痛が発生する可能性もあると言うジレンマを抱えています。
これもまた、皮肉な状態ですね。
SFなら、あらゆる未来を観測できるAIに最良の未来を選ばせる理想的社会で、選ばれなかった未来に大事な物が含まれている事にAIが絶えられずに暴走したり停止する様な事件でも起きそうな話です。
最良の選択をする上での必要な犠牲を出さない為には、みんな意識が低い方がみんな苦しめて公平なんて一周した意識の高さが登場しても面白そうですが。
とりあえず、現代は、ある程度の意識の高さが、人を幸せにしやすくすると言う話です。
他人の意識が低い事を指摘しても何も変わりませんが、自分の意識が低く無いか自分でチェックする事は自分の行動を変え得る事なので、自分の意識レベルの高さチェックは、幸せになりたい人は各自やった方が良いかもしれませんね。
常に高くなくても、低い行動をとって問題を感じた時に「低く無かったかな?」「なんで高い方が良いんだっけ?」と考える切欠にでもなれば、意識が低い事で起こる問題を回避出来るかもしれません。
自分と地続きの相手や未来を認識出来れば、相手が大事な未来を今にも壊そうとしている存在でも無い限りは、誰にでも優しく出来る筈です。
余談:意識の低い視点も、高い視点と同じぐらい大事と言う話
人と話をする際、対面で話をするのと、地球を見ながらマップ上の目印に向かって距離を感じながら会話するのとでは、相手への解像度が違ってきます。
意識が高い方が、遠くを見る事が出来ますが、意識が高い視点しか持ち合わせが無いと、個人と言った個別の事象に対して、解像度が低くなります。
軍隊で戦死者一人一人の顔を認知しているか、総戦死者数として数字で把握するかの差と同じです。
意識が高いに越した事は無いですが、意識を低くする事も自由に出来ないと、個人の気持ちと言ったピンポイントな事象にまで意識が向きません。
意識の高さは、高い方が良いのは、低い視点は既に備わっている場合であり、意識が低い視点もピントを合わせるのが苦手な人は、意識の高さ以前に、ピントを自在に合わせる技術を身につけないと、意識を高くした所で、見えている世界がぼやけてしまいます。
最近でも、大会社の社長は大局を見る力が優れている一方で、社員や顧客一人一人に対しては意外と見えていない、何て事が起きてますよね。
スティーブ・ジョブズ、ビル・ゲイツ、イーロン・マスク、等々、全員意識は高いですが、極端な面白クソ野郎エピソードも豊富な、愛され経営者として有名な人は、沢山います。
そう考えると、意識の高さを極めれば、大会社のトップには、行動力と理念と問題解決能力があれば、なれるのかもしれません。
同時に、ここまで意識の高い人でも、高い意識と共に低い意識も使いこなすのは、かなり難しいと言う事かもしれません。
意識を高くしろと言ったり、低い意識も大事と言ったり、解像度を高めようと言ったり、意識を自在に操るのは、どうにも大変そうですね。
だから、ある程度の意識の高さ、なんて書き方をしたんですが。
それなら、高すぎにも低すぎにも、対応出来そうですからね。
余談:厄介な意識の高さ
意識が高いフリをして、意識が低い人は、かなり厄介です。
意識が低い位置なのに「高い」と思い込んだり、本気で認識している人は、それ以上意識レベルを上げられず、高い位置から遠くや未来を見せる事が難しいからです。
ネット上で他人を攻撃している人は、例外無く意識が低い人と見て間違いありません。
そう言う人とは、特段の理由が無い限りは、無理に関係性を築かない方が、賢明です。
困るのは、元々の知り合いが、そんな厄介な状態になってしまう時です。
良くあるのが、宗教とかマルチとかインフルエンサーにハマってしまって、周囲に布教するパターン。
意識が高い人や、意識が高そうな人に憧れてそう振る舞ったり、その一部になろうとする人は、自分が見えていない場合が多く、意識もピンポイントにしか高くならず、本人は短期的に見ると幸せかもしれませんが、周囲からすると困りものです。
もし自分がそうなっていると自覚した場合は、一度冷静になり、本来の意識の高さを持って、考えてみましょう。
もし、大事な誰かがそうなってしまった場合は、衝突する覚悟で事実の羅列で殴りつけるか、諦めて距離を取るぐらいしか、基本は無いです。
相手が見えていない客観的な事実の羅列は、相手からすると聞きたくない事のオンパレードとなりますが、虚飾や思い込みを晴れさせるには正しい事をぶつける以外にありません。
しかし、相手を傷付けるのは気が引けます。
そうなると、お互い傷つけあわないで済む距離まで離れるしか、他にありません。
相手と同じ意識の高さになる事も、手としてはありますが、本気でそれが良いと感じない場合は、人生のロスにしかなりません。
意識の高さは、あるがままが一番です。
あるがままの状態で、少しでも高く出来れば、低い頃よりは幸せを求めやすくなります。
高いフリをしても、本当に高くならない限り、良い事はありません。