お気持ちの価値
「お気持ち表明」と呼ばれる物がある。
SNSでも現実でも、客観的な事実ではなく主観的な自分の気持ちを書き込むとか発信する事は、基本、お気持ち表明だが、なんでもお気持ち表明とは言われない。
感想とか、思った事とか、気持ちを表明しても「お気持ち表明」と言われない事も沢山ある。
その中で「お気持ち表明」と呼ばれるのは「特定の話題になっている特異な事物に対して、当事者が自分の気持ちを発信する」際だろう。
つまり、漫画の感想で「○○で泣いちゃった。○○ってキャラが好き過ぎ。尊い。全人類に知って欲しい」みたいな事は感想だ。
しかし、漫画の作者が「○○と言うキャラはこう言う想いを込めていて云々」となると、お気持ち表明的なニュアンスが現れ始める。
この「お気持ち表明」だが、気持ちの発信として歓迎する人もいるしされる事もあるが、「お気持ち表明w」と揶揄される人や事も沢山ある。
何がそれを分けているのだろう?
性自認界隈に現れた現実の歪み
世界中でLGBTQ+問題が話題となり、大勢の人が真面目に取り組み、性的マイノリティの人でも心地良く生きられる社会を作ろうとしている。
その一環として、色々な理由で男女の性別毎に分けられていた物への見直しをする人達も現れた。
つい最近は、ジェンダーレストイレが話題となったし、スポーツの大会では身体が男性だが心が女性と言う選手が女性大会に出場して記録を荒らした後で男性に戻ると言う珍事も起きた。
日常的には、更衣室、シャワールーム、銭湯、様々な所で男女が分けられている。
これらの再定義で人々は混乱し、うろ覚えだが、女性用更衣室に男性がいたから通報したら、心は女だから差別だと言われて通報女性側が逮捕されるなんて事もあったらしい。
こうした問題がややこしくなっているのは、自認と言う部分にある。
性自認なんて他人から見ると分からず、普段の行動で判断するしか他人には術が無い。
人は他人の内面なんて基本的に分かっている様で何も分かっておらず、推測する事しか出来ない。
なのに、性自認を宣言すれば肉体を問わず内面の男女を他人が認めなければならないと言う風にしたものだから、そのルールに則って事故が起きたり、それを悪用する犯罪者が現れたりするわけだ。
証明のしようがない物に、大きな力をルールとして与えてしまった結果と言える。
これは、ルール作りとしては、かなりの下策と言える。
客観的な共有が難しい事を根拠にルールが人々を制限するのは、ルールの悪用し放題になる事は目に見えて明らかだ。
本来は、客観的な共有が可能な事を根拠にルールを作りつつ、LGBTQ+の人が何も問題無く暮らせるルールにする必要がある。
また、男女の分け方も機能差やリスクを考えての分け方をされている分野では、内面が本当にその性だとしても肉体を基準にするか、第3の選択肢の用意をする方が良い。
スポーツの場合は、男女の肉体機能差が記録に直結するし、男女で分けているのは各肉体性別の限界を引き上げていると言える。
なのに、心が女だからと男性の肉体を持つ人が女性の大会に出れば、大会も記録も荒れるに決まっている。
スポーツの男女分けは、性別的な気持ちでスポーツをしているのでなく、むしろボクシングの階級差に近い。
ボクシングで例えるなら、重さを測る事が出来ない世界でヘビー級の選手が「ライト級な気持ちなんです」と言ってライト級に出場する様な物だ。
肉体的な男女混合で大会を開くなと言うわけでなく、男女混合でも良い大会を新たに別に作った方がそれまでの男女肉体別の大会で積み重ねられてきた物が正常に機能する。
男女肉体別のスポーツ大会の存在が差別と言う人は、性別で人を分ける事を無くしたい一心で当のスポーツの事を考えていないので、健全なスポーツを育成する上での議論では、聞くに値しない。
LGBTQ+に始まる無数の性は認められるべきだが、それは自認しつつ「お気持ち表明」をする事で否定されないとか差別されない環境にする事が必要なのであって、お気持ち表明で悪さを出来る環境を作るのは、現状、愚かとしか言えない。
差別されたり居場所が狭く感じている人達が、それを感じず意識せず当たり前に、普通に暮らせる事が目指すべき事の筈なのに、誰にも確認しようのない内面を真として無理にルールを再設定しては、ルールに従う全ての人が不幸になるのは目に見えている。
性自認と言うお気持ちが否定されない事は大事だが、主観でしか分からない事に強すぎる客観的な力を与えては世界が歪む。
殺人事件の裁判で「反省してるし刑を軽くしよう」は、情状酌量の余地があれば理解出来るが、「反省してるって言ってるから無罪」は、さすがに無理がある。
これがお気持ちに力を持たせた性自認界隈では、可能と言える。
ちなみに年齢自認界隈の人が「公的文書は渋々実年齢を記入する」と言うスタンスだったのは、面白い一方で、ちょっとだけ好感が持てた。
客観的な事実に、主観的なお気持ちは勝てない。
それは、別に悲しい事では無く、世の中、そういう物なのだ。
それを前提に、みんながハッピーになれるルールを作ると言う前提が必要と言う話である。
これは、人の気持ちや感情を機械で客観的に読み取れる様になるまでは、仕方が無い。
知りたい相手の気持ちは、プラスに働くなら歓迎される
お気持ち表明は、それが事実か客観的に分からないし証明できない。
それ故に、お気持ち表明が「内容が真」の場合に相手にとって有利に働く場合、100%の信用が出来ない。
だが、人は、他人の気持ちを知りたい物だ。
好きな他人の事を、理解して、もっと好きになりたい。
その場合、気持ちを知るには、お気持ち表明で聞くしかない。
こういう場合は、相手が内容を整えてようが盛っていようが、発信されるお気持ち自体に価値がある。
と言うか、お気持ちが歓迎される場面は、何かしらのこう言った状況以外無い気がする。
真実か判別がつかない事でも良いから、それが真実だと信じて是非聞きたい。
そんな時に出されるお気持ちが、最も意味と価値があるだろう。
一方で、人は勝手なので、知りたくないお気持ちには、マイナスに反応する。
好きを強化するお気持ちなら良いが、そうで無い知りたくなかったお気持ちは、誰も求めない。
そして、万人に平等公平に価値があるお気持ちは恐らく無く、誰かにとってプラスな事は誰かにとってマイナスになる事だってある。
それを考えると、事実の証明も、相対的な意味や価値の定義も難しいお気持ちの表明は、扱いが難しい部分があると言える。
最終的には、相対する人との関係性と、普段の言動や、嘘の上手さ、正直さによって、お気持ち表明の上手さが決まってくるだろう。