思考を停める一番の方法は、一度理解させてしまう事
人は、理解出来そうな物が理解出来ないと、自然と理解しようと努める。
ミステリーやクイズが1ジャンルとして広く強く愛されるのは、謎を提示され、答えを解き明かしたり示される事に快感さえも感じるからである。
理解が到底及ばないと感じると、人は理解を諦める。
理解促進の切欠になる、とっかかりが自分の内に無いと、そもそも理解しようと言う気にさえならない。
日本語でクイズを出されるのと、超マイナー言語でクイズを出されるのでは、問題の内容が同じでも日本語話者の謎への食いつきに大きな差が生まれるだろう。
人は、理解出来そうな事に対して、理解しようと言う性質を持っている。
この分かりそうな事を解き明かし、理解したいと言うエネルギーは非常に強い。
しかし、この理解したいと言うエネルギーは、一度理解出来たと感じてしまうと、それが浅く狭い結論でも、仮に間違った答えだとしても、理解したいと言うエネルギーは失われ、それ以上の理解の促進を停止させてしまうと言う性質も同時に持つ。
二段オチは、思考停止を利用した急ブレーキ急発進ジェットコースター
物語の中で謎を提示し、一度表層や嘘の真実を提示した後に、その深層や真の真実を提示するテクニックに二段オチ等と呼ばれる物がある。
これは、理解したいと言うエネルギーを一度答えを与える事で勢いを衰えさせ、真の答えに届かない様にし、どんでん返しに使う秘密に思考が及ばない様に守るテクニックである。
三段、四段と重ねても良いが、要は、もっともらしい最終的な答えに一見見えるアンサーを段階的に提示する事で、どんでん返しの先読みをして楽しむ様な人にさえ、読み切れない大どんでん返しによる驚き体験を、人の性質を利用して提供する技だ。
人は、答えを提示され、納得してしまうと、思考が止まる。
これが答えで、全て理解したと安心してしまう。
二段オチでは、その性質を良い方向に利用し、思考停止と言う急ブレーキからの急加速によって脳天をガツンとやる事で、快感を作り出す。
これは良い、答えに辿り着いたと思い込んだ事による思考停止状態の利用法だ。
だが、この性質は、別の場面では、時に思考を停止させ、例えば、学習を妨げる事にもなる。
浅く狭い理解の弊害
人は、興味の無い事、興味の向かない事を深く理解する事は、難しい。
なので、実は理解していると思い込んでいる大半の事は、かなり表層や記号的な理解になる。
そんな物だ。
電気に興味の無い人は、ボルトとかアンペアとか、聞いた事はあるが実はサッパリだろう。
パソコンやスマートフォンを使っていて使いこなせていても、その原理までは理解出来ていない人が大半だ。
アニメや漫画に興味が無い人にとっては全部「マンガ」かもしれないし、ボカロに興味が無い人には全部「ミク」かもしれないし、ポケモンに興味が無い人にとっては全部「ピカチュウ」かもしれないし、ゲームに興味が無い人にとっては全部「ファミコン」で更新が無いかもしれない。
ホント、そんな物なのだ。
分かっている人からすると、まるで分かっていない。
だが、分かっていない人からすると、それで困った事が無いし、困っても覚える気は無い。
そんな認識を、持つ知識の大半のままで人は、世の中を何となく理解して生きている。
その際、細かい人はアニメを漫画と呼ばれる等されると気持ち悪いと感じるし、雑な括りを良しとせず曖昧に表現したり、出来るだけ正確な表現を心掛けようとする。
逆に雑な人や大らかな人は、ニュアンスが分かれば良いとPS5を今時のファミコンと表現されても気にしないだろう。
自分が詳しく知る物をジャンル代表各の名詞で呼ばれて、どう反応してしまうか。
マクロスをガンダムと言われて許せるか、坂系のアイドルを48と言われてスルー出来るか。
これは、どちらでも良い。
でも、雑な理解は、時に困った事態を引き起こす事がある。
表層にある意味と価値を理解して分かったつもりになると、思いも寄らない落とし穴がある事が、稀にあるのだ。
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理解の難しさ
例えば、リアルとリアリティは、似て非なる物だ。
だが、私も時々間違えて使う事はあるし、世の中正しく使おうと言う人の方が下手すると少ないだろう。
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これは、使われる場面でのニュアンスが似て感じる事があるので、深い理解を一度挟まないと、正しく使いにくい言葉の一つだろう。
これはSNSで流れて来た話題からだが、創作の設定で「伝説」と言う物を扱う時に、伝説と言う言葉への理解が浅い人が散見されると言う話があった。
伝説とは、過去にあった出来事に対して、特別凄い成果や被害と言った広く知れ渡る結果を出した人に与えられる物だ。
過去に出来事が一区切りしている事、同列の物が今も続いていない事、特別な結果を知られている事、この三点が最低限必要になる。
そして、過去の出来事は、時間的に間が空いている必要がある。
例えば、第二次世界大戦で多大な活躍をした兵士は、時間的に数十年の時が経っているので、伝説の兵士と呼ばれても違和感は無いだろう。
これが例えば、記事執筆時今も続いているウクライナ戦争で活躍した兵士となると、同じ様な多大な活躍をしていても、伝説と呼ぶには違和感がある事が分かる。
鉄腕アトムやデビルマンは伝説の漫画と呼ぶに相応しいが、鬼滅の刃やチェンソーマンを伝説の漫画と呼ぶのは、いささか時期尚早に感じる人が多い筈だ。
ドラえもん、クレヨンしんちゃん、サザエさん、ちびまる子ちゃん、アンパンマン、ドラゴンボール等の長寿番組は作品自体伝説級に凄くても、伝説の作品とは言わない。
だが、エピソードには伝説級の特筆したエピソードがあるのは理解出来る。
伝説には、こう言った性質が少し理解を深めればあるのに、雰囲気で「凄い称号」として伝説を使ってしまい、肝心の伝説の中身が無いと言う事態が起きたりする、と言う事である。
伝説の傭兵なら、過去の終わった戦いで多大な戦果を挙げていないとならないし、伝説の武器や鎧なら、やはり過去の終わった戦いの中で多大な効果を示していないとならない。
長く現役を続ける物凄い人をリビングレジェンド、生きた伝説と呼ぶ事があるが、これは過去の多大な成果があり、引退すれば確実に伝説級だが、引退せずに業界で継続的に活動し続ける人に贈られる称号だ。
伝説とは、過去の栄光を称える物で、転じて今も伝説を作った実力があるから凄い筈となるわけだ。
ジョン・ウィックが伝説の殺し屋と呼ばれているのは、物凄い成果を出した後に一度引退して時間が経っているからだ。
この様に、たかが伝説と言う言葉だけで、なんとなく使ったら「伝説の設定が必要だね」となってしまう。
ただ「凄い」とか「高性能」とすれば伝説のバックグラウンドは必要が無いのに、伝説にリアリティを持たせる為に伝説を練らないといけなくなるわけだ。
厄介なのは「凄い」や「高性能」も、場面によっては同じ目に遭う可能性が十分ある。
言葉の表層的なイメージや一般的な使い方や印象だけでの理解より一歩踏み込んだ、より具体的で詳細な理解が時には必要と言う事だ。
深い理解への一歩
深い理解をする為には、どんな事も完全に理解したと思い込まず、理解の余地があると言う認識を持つ事だ。
「あーそうゆう事ね完全に理解した」(←わかってない)
理解の余地があると認識する事で、思考の停止を防ぐ事が出来る。
理解を深められる余地の所在
理解を深める余地があると言っても、どこを見れば良いか分からない人もいるだろう。
まず、表層にあるイメージや、物によっては形骸化し変化した意味や機能が存在する。
上記したリアル、リアリティや伝説は、聞いただけで浮かぶイメージや、なんとなくで使える意味がある事が分かるだろう。
テレビの仕組みを知らなくても、コンセントとアンテナに繋いで電源を入れれば番組が見られる事は理解出来る筈だ。
その下には、客観的に定義された意味や機能が存在する。
辞書で調べた時に載っていたり、専門書や説明書に詳しく書かれている、対象や概念に対する解説等は、この層を主に説明している。
ここまでは、理解から逃げなければ割と簡単に理解出来る。
その先には、歴史、由来、経緯、そう言った対象の成り立ちが存在する。
成り立ちの理解は、対象への理解を非常に深められる。
この記事を書いている現在話題になっている「ジャニーズ性加害問題」で、事務所名を変えるか変えないかでゴチャゴチャと事が起きているのは、ジャニーズと言う名前への理解度に差があるからだ。
ジャニーズは理解が深ければジャニー喜多川と言う史上稀に見る大性犯罪者の名前を由来とし、性犯罪者が作った帝国の側面、弱者を食い物にした実質的なハーレム、そう言った負の側面が嫌でも付いてまわる事が誰の目から見ても明らかだ。
一方で、理解が浅い層や狭い層からすると、ジャニーズと言うアイドル事務所名でしかなかったり、長年世間に印象付けて来た業界最大手のイケメン男性アイドル事務所と言うイメージが一番前に来る。
この認識のギャップがあるから、事務所名を変えないと言う判断を出来てしまうわけだ。
これを考えると、深く理解している筈であろう人であっても、表層のイメージやイメージの一部分に囚われ、理解や認知に客観性が無くなったり、歪みが出る事も同時に分かる。
理解の話に戻るが、その他には、実際や現実の情報も理解には大きく関わる。
聞いた事があるだけよりも見た事がある方が良いし、見ただけよりも触れた方が良い。
サッカーを理解するなら本でルールを読む、試合の映像を見る、そう言った間接的にも得られる情報よりも、実際にやる事で得られる情報の方が情報量が多い。
この生の情報は、理解にはとても重要で、これは学習を習得にする為には必須級の情報だ。
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経験の有無は、理解度に天と地ほどの差を作る。
生きた情報と触れ合う事でしか得られない、あるいは最速でたどり着けない理解が存在すると言う事だ。
他には、相似性と差の認識、つまり比較を行い自分の中で整理しパターンを掴む事も理解を深める余地となる。
例えば、サッカー、野球、バスケ、バレー、卓球、ラグビー、アメフト、と言った球技一つを理解するよりも、比較して違いと共通点を自分なりに理解する事は、更なる理解への架け橋にもなる。
何とどの様に比較すれば良いかの考えも理解になるし、新たな比較は新たな理解に繋がるし、理解の高速化や促進にも繋がる。
当然、理解する為のパターンが固まったら、一定の理解の効率化には役立つが、一定に含まれない理解の効率化を妨げるので、あくまでも「一定の切り口での理解しかしていない」と認識しなければ、広く理解を深める事は出来なくなる。
こうして、表層も、深層も、過去も、似た物も、現実もと、ズバリその物と時間・空間・概念を含む周辺までも具体的に理解しようとすれば、理解しようとしつつ永遠に理解し切れないと認識し続ければ、どこまでも理解は深まっていく。
この理解の旅に終わりはない。
死ぬまで理解しようとしても理解度をどこまで高めても、まるでバグったゲームの様に実績達成率は永遠にどんなに頑張っても99%より先には進まず、残り1%が99%よりも膨大な量があると言う「ちゃんとデバッグしてよ」と人によっては言いたくなる様な、終わらない理解がひたすら続く。
だが、それで良く、それが正解なのだ。
理解したと考える時に、思考は停止し、その分野の成長も止まる。
決して完璧に理解し切れないが、理解し続ける事で成長をし続けられると言う意味では、非常に良く出来たシステムとなっている。
理解し続けようとすれば、文字通り、死ぬまで理解を深める事や成長する事を楽しめる。
これが、この世界を形作っているルールとしてある。
理解が浅い人と深い人の溝
問題は、この普遍的なルールを認識していないだけならまだしも、世界は、ある意味で完全に理解可能な物でポツポツと構成されていると思い込んでいる人が多くいる事だ。
先にも書いたが、理解したと言う認識は、思考停止を引き起こす。
思考を停めた人は、停止した認識と知識をやりくりして生きる事になる。
それで問題が無いジャンルの事であれば良いが、それで問題があるジャンルの事で低い認識のまま生きる場合、理解を深めた人やルールと衝突を起こしてしまう事がある。
衝突を起こすまでは良いが、問題は、理解が浅い人が害がある決定で選択権を握ってしまうパターンだ。
これは、核ミサイルの発射ボタンを赤ちゃんに持たせるような危うさがある。
例えば、表現規制をしたがる人は表現の自由を全く深く理解していない状態だ。
少しでも深く理解したなら、表現規制がどれほど危険かが分かるか、危険と分かっても規制すべきと感じる経験をした事があるか、そんな、どちらかになる。
カジュアルに、殴って来ないで口で小難しい説明をするだけのサンドバッグを相手にしていると思って表現規制運動ごっこをしている人は、万が一表現規制が上手く行ったときの想像がまるで出来ていない人ばかりだろう。
長い目で見ると表現規制による不快排除は、表現規制運動ごっこに興じている人々も不快側として巻き込み、不快の一部として社会からの排除をする事をベクトルとして目指す事になる。
表現規制反対論者は、そう言う視点から見ると、表現規制推進派をも長い目で見れば守っている存在とさえ言える。
終わりに
何事も一定の切り口での理解は必要だが、思考停止に陥るレベルでの完全な理解は実は危険と言う事でした。
この記事を読んでも、理解して欲しいが、完全に理解したとは思わず、伸びしろを残して理解を更に深めて欲しい。
余談:教える難しさ
人にモノを教える時、知識は比較的簡単に伝えられるが、伝えた知識をニュアンス込みで教える事には毎回苦労する。
こちらは、自身の生の経験に基づいた生きた情報を乗せて伝えようと言葉を探し紡ぎどうにか数%でも伝えられない物かと手を尽くすが、相手側が「完全に分かった」モードに入ってしまうと、理解はそこで打ち切られ、色々やっても教科書一般的な深さまでしか伝わらないもどかしい時がある。
この「完全に分かった」モードを解除するには、今回の様な話を場合によっては説明しなくてはならない。
だが、いつもこんな面倒臭い前提をツラツラ伝えられる場面ばかりではない。
「完全に分かった」モードを簡単に解ける冴えた方法は、何か無い物かねぇ。