AI画像生成が物議を醸す諸々についての考察

すっかり嫌われ者

AI画像生成は登場当初こそ面白く便利な物と歓迎されたが、少し経ったところでマナー違反とか悪意あるユーザーとでも言える一部の人々によって悪評が立ち、その成り立ちが怪しいAIや学習modelも多い事から反対派の絵師も増え、すっかり表立って「AI画像生成を仕事で使っています」とは言えない、言いづらい、そんな状況に。

今回は、この状況を多少色々な切り口から考察する。

AI画像生成が壊す価値のバランス

画像生成AIは、超大量の画像を学習させる事で、学習データを使って画像を生成する。

単純なコラージュとは違うが、人によってはコラージュ的に感じる手法で作られている。

パターンを抽出して、それによって画像を再構築するので、パターンが強い物に引っ張られる、つまり、学習した画像から導かれた平均的な画が、AI画像生成では出来やすい。

そう言う意味では、学習画像次第で何でも描けるが、学習画像に依存するので何でもは実は描けない。

しかし、上手い絵を大量に学習させれば、上手い絵を平均値とした一見すると上手い画像をバリエーションとして生成出来る。

あらゆる物の価値は時間と共に基本的に減衰していく

高い価値の生み出し方。必ず価値がゼロに近づく世界で、価値を持ち続ける方法の記事などで過去にも触れたが、この世の全ての物は、人の客観的価値観の上では時間経過と共に価値が減っていく。

これは、主観的価値や希少かつ高価となった場合に当てはまらない事があるが、大半の物は当てはまると言ってよい。

例えば、良く出てくる例でコンピュータの容量は、時代の変化と共に大容量になっていっても値段は、同じ容量で見ると安くなっていると言える。

昔の4MBのHDDと今の4TBのHDDが同じ様な値段で手に入ると言う事は、それだけ価値が下がっていると言う事だ。

これはコンテンツにも言えて、昔は有料かつ限られた手段でしか見れなかった映画が、今は色々な手段で安価に見る事が出来る。

漫画もゲームも、最新の物でさえ無料の物が昔に比べ増えている。

この価値の目減りは、技術にも言えて、古く既存の物となった技術の価値は時代の経過と共に減る。

高い価値を持ち続けたり、突然持つ物

主観的価値観では、価値の減衰が起きにくい。

個人的な価値は、維持され残り続ける。

良い思い出は色褪せず、いつまでもキラキラと個人の中では輝きを放ち続ける。

思春期に好きになった物は、以降の人生でも延々と好きであり続ける。

懐かしの映画、小説、漫画、音楽、往年の選手、タレント、そう言った物の価値が残り続けるのは、個人的な価値観として価値ある物と認定されるからだ。

これは、

  • 主観的価値だけを理解出来る人
  • 客観的価値だけを理解出来る人
  • 主観的価値も客観的価値も理解出来る人
  • 主観的価値も客観的価値も理解出来ない人

で、大きく見え方が変わってくる。

希少性と価値保存性は大きな価値を生む

絵画などの芸術品に価値があるのは、みんなが価値があると信じているからだ。

お金に価値があるのも、お金に価値があるとみんなが信じている為だ。

金やプラチナに価値があるのも同じ理由だ。

要は、価値として腐敗も風化もしにくいとみんなが信じているから、貴金属やお金に価値がある。

これらは、一般的な時代の経過による価値の目減りとは違う動きをする事がある。

保存された価値の高騰や暴落によって、時に急激な価値の変化が起こり得る。

絵の価値は、著作権だけではない

絵には価値がある。

それは、みんなが価値があると信じているからだ。

その点では、お金や貴金属と近い性質を持っている。

絵の価値を決めるのは、人々に受け入れられる絵柄、テーマ性、メッセージ性、表現力、技術力、実に多岐に渡る要因が絡んでくる。

これらが揃えば、絵師は自分の手で絵と言う形で、価値保存性の高い物を作り出せる可能性があると言える。

絵が世間に受け入れられれば、絵柄と絵師が≒となり、そこに個人的価値を見出す人達からは絵を求められ続け、絵師が描いた絵だからこその価値が絵に宿る。

著作権は、この絵師が絵によって価値を生み出し、利益を得ると言う構造を守る為の法律と言える。

二次創作と言う価値の借用と、その裏

二次創作は、主観的・客観的価値を借りる形で作品に価値の上乗せが出来る。

これは、似た、あるいは同じ様な絵柄でも同じ事が起きる。

大事なのは、その裏側にある。

つまり、価値の上乗せをする土台の部分に、主体的な創作が必ず存在する。

作品自体の主観的価値は、そこにある。

その作者ならではが、時に作家性とか、魂とか、熱と言った表現をされる物が含まれる部分だ。

画像生成AI主体の生成画像の場合

画像生成AIで作った画像は、プロンプトや元画像をベースに、命令通りの平均パターンのバリエーションを出しているに過ぎない。

そう言う意味で、自動二次創作装置と言う側面がある。

問題は、作品に主体的な価値を宿す事が実質的に難しく、画像生成AIの利点をそのまま活かそうとすると、主観的な価値を下手に乗せない方が良い場合さえある。

つまり、絵が描けない人が使うなら、大半はベタ出力の方がクオリティが維持出来ると言う事だ。

こうなると、工夫はプロンプトや、元にした画像、あるいは修正や微調整の繰り返しでしか得られず、自動二次創作装置から出された画像に、本来の二次創作では宿っていた主観的で主体となる価値が宿らなくなる。

こうなると、自動二次創作装置を使って画像を生成するのは、他人の絵や写真をコラージュする事が得意な大量の職人に注文するだけの状態となり、やっている事はぶっちゃけガチャを回す事と変わらない。

それでも、ガチャを回せば指示通りの絵が出てくるだけなら、ここまであからさまに嫌われる事は無かった筈だ。

希少性を破壊する大量生産

ガチャが格安や無料で回し続けられる状態は、ガチャに使われた絵柄の価値を落としていく。

本来は絵師が時間をかけて描かないと手に入らなかった絵が、工場的な二次創作によって大量生産されてしまうのだ。

AIのベースになるほどに美麗で細密な絵は、AIが描いたような安っぽい量産品と見られる様に世間の目も変わり、客観的価値も大暴落してしまう。

これは、時間経過を早める行為とも言え、本来は生産する事に時間がかかった物が大量に出回る事で、ある種の経年劣化を早める事になり、特定絵柄の客観的価値が下がりきれば、今度は別の絵柄にシフトしてブームの絵柄が再び大量生産される事になる事が予想出来る。

これは、絵柄の価値を喰いあらす、バッタの群も同じ事である。

時間をかけて価値が減衰していく筈だった物が、画像生成AIの乱用によって一部で急速に起きているわけだ。

大量生産されれば希少性が減り、価値を人々があると信じる事が揺らげば価値保存性も減ってしまう。

写真機の発明と、時代は繰り返す?

画像生成AIの発明、と言うか一般化は、カメラの発明によって似顔絵画家が激減した事と似ているとよく言われる。

似顔絵画家は、主観的価値を絵に保存するが、カメラで人を撮影する場合、この主観的価値をより高い水準で保存出来る上に早く簡単だった事で、似顔絵画家が太刀打ちできなかったと考えられる。

似顔絵画に対して作家性や魂やら熱を込める事を望んでいる人が、そこまでいなかったから廃れ、そのまま保存してくれるカメラの価値が勝った。

しかし、現実に実現が難しい絵は、カメラには撮影が難しく、絵の価値は残った。

3DCGによる現実さながらの絵や写真の処理は、画材をコンピュータに変えただけだったし、作成コストが非常に高く、選択肢の一つでしかなった。

画像生成AIの場合、画像の学習さえしてしまえば、以降は低コストで画像や動画を生成し放題だ。

画像生成AIに取って代わられる可能性がある分野は、絵やカメラの非ではなく、学習さえしてしまえばリアルな画像はもちろん、絵師の絵柄やスタイルまで踏襲出来るし、混ぜ合わせる事も出来てしまう。

今までとの違い

画像生成AIが今までの画像生成方法と違う一番の要素は、機械学習が必要な事だ。

絵もカメラも、欲しい画像を描く為には、モチーフを用意し、画に起こす必要があった。

絵は絵師の脳と手を経由して加工し、カメラはレンズ越しにフィルムやデータに落とし込む。

フォトリアルな3DCGの場合はモデルを作り、色を塗ったりテクスチャを貼る。

いずれにしても、既存画像をデータとして取り込み、データとしてパターンを抽出する様な部分は既存の手法には基本的に無く、やる場合は絵の中に既存画像を描くか貼るか、コラージュするかが必要で、やる場合は著作権を気を付けないといけない。

カメラで既存画像を利用する場合は、カメラで撮影する様な事になり、その画像が著作権で問題が無いか確認が必要だ。

CGテクスチャが写真の場合は、権利関係が問題無い写真を用意しないと使えない。

画像生成AIの場合は、学習元に何らかの既存画像を使わなければ、そのテイストの画像は生成できない。

モチーフではなく、何らかの権利が発生する既存の画像が無いと、何も出来ないと言うのは、これまでの機器や画材とは大きな差がある。

法律的には合法だが

この学習元の既存画像には著作権があるが、画像生成AIは営利目的に使わわない事や、研究目的、画像のパターン抽出による利用は既存画像を利用しているが既存画像の著作権は侵害していない、あるいは著作権的に問題が無い画像のみによる学習、法律的に問題が無い範囲での使用等で既存画像の使用と言うハードルを突破して開発してきた。

なので、法律的にはOKとか、使い方次第では法に触れない等、扱いに注意が必要な面があり、画像生成AIを合法としている国もあれば、法律でガチガチに縛ったり、禁止しようとしている国もあったり、そこの判断も千差万別だ。

装置として法律的に合法でも、使い方がグレーや非合法な人が大勢現れた事で、ここまでの悪評を立てた背景がある以上、どんな形でもバカにでも分かるルール作りは急務と言えるだろう。

それとは別に、法律的に完全合法であっても、市場に与える負のインパクトについても、もっと真面目に考える必要がある風に感じる。

現状、賛成派と反対派で大きく分断された状態で、中立の人がポツポツと見守っている様な勢力図となっているが、反対派の危惧する問題は長い目で見ても無視できない風に思える。

既存の画像から学習する事が必要な以上は、既存の画像を作ってくれる絵師が存在しないと成り立たない部分がある。

だが、画像生成AIによって新規絵師が増えにくくなる可能性は十分あり得る。

画像生成AIによる複雑なミキシングやコラージュで新しい物を産み出す事も出来るかもしれないが、そこには問題がある。

希少性や価値保存性を用意出来る仕組みや、何か大きな前例が無いと、画像生成AI関連の殆どは、ブームに群がっては食いつぶして次に行く様な状態になりかねない。

それが画像生成AIには、まだない。

似た物を大量生産しては価値を激減させ次に映るを繰り返す状態は、小説家になろうのジャンルブームが起きる波にも少し似ているが、時代がそういう物だと言うなら、それに適応した在り方を模索する必要がある風に思う。

なのだが、画像生成AIは、画像自体にオリジナリティを持たせる事が性質上、単体だと難しく、どんなに美麗な画像を作ろうとも、言ってしまえば大量生産品になってしまい、芸術品が持つような希少性や作家性に宿る価値方面や、価値の保存をする器に持っていくのが、まだ難しい。

画像生成AIの今後の一つの予想

画像生成AIは、その性質上、美麗な絵を生成出来るPhotoshopで言えばフィルタ機能に過ぎず、その性質故、単体使用で主体的な価値を持つ事は難しく、立場として現状の社会で正常な位置は、絵の作画補助のツールである事が望まれるだろう。

フィルタ機能でボタン一つで絵が生成出来る状況で、誰でも絵を描けると皆が勘違いしているが、そのまま使っても制作手法から絵が大きな価値を生む事が難しい。

人は、何に価値を見出すか?

成果は勿論だが、それ以上に実は苦労が人は好きだ。

良き苦労無き成果の価値は、たかが知れている。

なので、画像生成AIの正しい使い方は、画像生成AIで楽をし、効率化する分だけ、別の所で良い苦労と組み合わせる事が考えられる。

大量生産では、どんなに美麗な絵を生成しても価値を人々が感じられない。

人気絵師の絵柄をパクっても、絵師本人には勝てないし、絵師の仕事を奪う上に、絵師の絵柄の価値を暴落させるだけの上、絵師にも嫌われ、場合によっては権利も侵害し訴えられるリスクまで負い、どこまでも悪手だ。

画像生成AIに限らず、生成AIで価値を生み出す為には、単純な発注者の先にある、監督として大きな価値を生み出す為に発注し組み立てる姿勢が必要だろう。

例えば、漫画家が背景をアシスタントに任せても、その事で「一人で描いてない。ズルだ」とは、今は言われない。

小説家が挿絵をイラストレーターに任せても責められない。

これは、主体となって負う良い苦労が見えていて、補助の部分では楽をしても許されると思われているからだろう。

つまり、画像生成AIは、主体となって負う苦労が既にある人を補助する為の選択肢が増えたと言う形が、現状の社会では受け入れられやすいラインと考えられる。

今後、学習データがさらに増え、AIも改良され、何でも生成できるし、人が指示を出す必要さえ無くなって自主的に生成する様になるかもしれないが、それまでは人が抱えていた苦労を軽減しつつ、他の部分で苦労させる為の装置である事が良いだろう。

画像生成AIで出力した絵を完成品として単体運用するのは、楽だが、楽ゆえに実は効果的な使い方とは離れている可能性がある。

良い苦労を増やす為に楽する装置である方がきっとよく、絵が描けない人が絵を手に入れる為の装置では現状苦労が足りず、正しい運用をするなら絵が下手な人が上手い絵を描くために補助で利用する方が生み出す価値は明らかに勝るだろう。

モチーフや被写体その物に価値を持つ画像

芸術的側面を捨て、モチーフその物に価値を見出す画像、例えば性的な魅力を伝えるグラビアやヌードで、被写体のキャラクターその物の価値が低くても良い場合。

画像生成AIでベタ出力しても、そもそも芸術的な物を求めていない、機能的な条件さえ備えれば良いなら、その面では大量生産でも何でも使用に耐えうる運用はあるだろう。

その場合、画像生成AIが抱える問題は残るが、関係性は似顔絵画家とカメラに似てしまう。

手軽で正確や美麗である方が、消費者側が価値を感じる状態が成立しうるからだ。

その場合、見る人は苦労では無く機能を優先して見るので、画像生成AIの運用としては、ある意味で正しい。

その結果、グラビアアイドルやヌードモデルが減るとしても、AIの生成したマスターピースと戦えるレベルか、独自の個性を持っていないと太刀打ちできない。

大量生産大量消費が求められる環境では、減衰する価値を憂う時間も無く、新しい似た物を生産流通させ続けるしかない。

今後どうなる?

法律で認められていても、長い目で見て市場を悪い意味で破壊する場合は、自粛が必要にも思える。

絵だけでなく、音楽産業がCDから配信にシフトしても音楽は残るが、音楽がAI音楽にとって代わられたら、どうなってしまうのだろうか。

パターンを抽出して作られた価値が低く大量生産だが一見すると良く出来た物で市場が溢れ、技術の進歩で本当に良い物が大量生産される様になった時、これまで良いと思っていた物が市場に溢れかえり、希少性を失った市場では、何が価値を持つのだろうか。

肖像画やグラビアの様に、機能に特化して作家性の必要が無い物となるのか、その中に作家性を見出す様に人々の方が目が肥えて変わるのか。

終わりに

割と勢い任せで書いたため散文気味だが、申し訳程度にまとめると

  • 大量生産による様々な価値のバランス崩壊
  • 既存画像等のデータが不可欠故のグレーさ
  • ライン越えバカの大量発生

あたりが、特に大きな問題に書いていて思えた。

また、画像の描画補助ツールとしての使いにくさ(最近ようやくPhotoshopに追加されたが)も、本来なら恩栄をあずかれる絵師に好まれない理由であると同時に、既にメタメタな悪評によって使う事それ自体が憚れる状況で、画像生成AIの良い印象が作られない原因に思える。

ただでさえ時間経過で価値が減衰するのに、作品テイストの模倣と大量生産で雑に消費されては、それで商売をしていた人達からすると目も当てられない状況だ。

法的にクリーンな画像生成AIを描画ツールとして人気絵師が使ったうえで公言する様な事が無いと、当分は風向きは変わらなそうな印象である。

画像生成AIをしている人は、出来るだけ、画像生成AIで出来た余裕を使って良い苦労をする為に使う事を心掛けると良いかも知れない。

また、絵師や画像、被写体や撮影者へのリスペクトは全ての画像生成AI使用者が半分義務的に持たなければならないと私は思っている。

圧倒的なリスペクトがあれば、客観的に正解に近い運用を常識があれば心掛ける事が出来る筈だからだ。

常識が無い人か、リスペクトが無い人、どちらかだけでもやらかしても謝れば済むだろうが、どちらも無い人は使っても人に迷惑をかけるだけなので出来れば使って欲しくないと思う次第だ。

せめて、法整備が進んでからであれば、自己責任で使う分には止めはしないが。

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