どんな差があって、どう使えば良いのか?
公平とは、公平を適応して扱う対象を、個の状態や状況に左右されず、一定のルールに基づき縛り、同じように扱う事だ。
例えば、身体の大きさや好みに関係無く同じ量と味の食べ物を配る事は「個の状態や状況を加味せず、同じ量と味の食べ物を適応対象に配る」と言う一定のルールに従っている事で、公平で平等な分配と言える。
災害時の配給も、公平で平等だろう。
対称性のあるスポーツやゲームのルールは、ルールとしては公平で平等だ。
でも、非対称性のあるルールになると、公平だが平等ではなくなる。
この様に、ルールが変われば公平の適応範囲は変わり、何に縛られるかが変化する。
例えば、くじ引きでランダムに予め決めていた物を配ると言うルールの場合は、それでも、やはり公平となるが、その場合は、様々な部分で平等とはならなくなるだろう。
つまり、公平とは、予め決めたルールに基づき、対象の状態や状況を無視し、ルールに従ってルール適応範囲の物を同じように扱う、縛りの事だと言える。
例えば、法律や憲法、基本的人権等は全日本人に与えられる権利であり、その点では日本人に公平で平等と言える。
一方で、外国人からすると特定の国では基本的に法律の範囲で公平に扱われたり、そうあろうとするが、全てを平等に扱われる事は基本的に無い。
生まれによって何らかの人生の有利不利が決まってくる事実は、国籍に限らず本質的に人生が公平でも平等でも無い事を表している。
しかし、公平を適応して扱う対象範囲が変われば、偶然生まれ持った条件下で環境に適応して生きていくと言うルール上は、人生もまた、ある種の公平と言える。
そんな考えによって誰でも望みの仕事に付ける可能性がある点では、現代社会は公平な社会だが、実際はスタートラインや障壁が大きく違う点で厳密な公平では無いし、平等とも程遠い。
では、平等とは何かと言うと、平等を適応して扱う範囲内の対象を、個の状態に左右されず、範囲内で差別無く一定のルールに基づき同じように与え、扱う事だ。
例えば、マラソン大会の参加者全員が貰える参加賞は、平等な賞と言える。
ルールを対象に平等に適応する事は、公平さに繋がる。
公平なルールは全員が同じルールに従う事で同条件下に範囲対象を置けて、ルール下にある意味で平等と出来るが、平等なルールは範囲対象に同じだけの変化を促すが、ルール下で同じ変化があっても個々が同条件になるとは限らない点で公正さが担保されるとは限らない。
人種や性別等の何らかの差別は、差別グループと被差別グループで見た時に公平や平等が損なわれている事で差別となる。
差別は被差別グループには公平で平等に適応され、被差別グループ内の特定の対象を特別扱いする事で更に公平や平等が損なわれていく。
よって、公平性や平等性に関わるルールは、適応される対象グループを考えてから当てはめなければ正しく機能しない。
例えば、消費税は買い物をする全ての人に適応される税金と言う点では公平であり、税率も平等に取られていると言えなくもない。
しかし実際は、各個人の収入、買う物、収入差によって変わってくる選択肢、等が加味出来て、そうすると公平に適応されているかもしれないが、税金を支払った人の結果的な懐具合や心象としては、あまり平等とは言えない。
その為、国によっては生活必需品の税金を無くしたり、税率を下げる等をしている。
そこで登場するのが、公正だ。
公正とは、公正を適応して扱う対象を、正しさと言う一定の基準に基づき、正しいラインへと収束させようとする。
正しさとは、道徳や倫理が備わり、客観的な自然さ、正当性、納得性等が高い状態を指す。
つまり、公正とは、個の状態や状況に左右され、ルールに基づき個に合わせた、正しい必要十分を適応しようとする。
ゲームで言えば、弱者や初心者を対象に、両者の承諾の下で対等なゲームが可能な範囲まで引き上げるハンデルールは、ある意味で公正と言える。
税金の貧困層に対する免税や控除、逆に富裕層に対しての高い倍率の税も公正なルールと言えるだろう。
裁判は、法律や正義の下に、公正に行われ、悪には不利に働き、正義には有利に働く非対称性のある物と言える。
公平、平等、公正と見てきたが、これらは似て非なる物であり、適応の範囲や対象を間違えれば大惨事になりかねない物と言う事が分かっただろう。
公平、平等、公正の持つ性質
- 公平は、ルールに基づき、適応対象に同条件を課して縛る。
- 平等は、ルールに基づき、適応対象に同条件を与える。
- 公正は、ルールに基づき、適応対象の個々に与えられる物を特定の正しさに揃えようとする。
と言った性質を持つこれ等だが、見るだけでも何となく察する事が出来る様に、当てはめる対象や適応条件、そしてコスト等を考えないと運用が難しくなる。
まず、機能条件だが、
- 公平は、適応対象の人が全員従えるルールでないと、正しく機能しない。
- 平等は、適応対象の人が全員一定の目標を達成していないと、正しく機能しない。
- 公正は、適応対象の人が全員納得出来ないと、正しく機能しない。
この、ルールに従えるか、意味があるか、納得出来るかは、それぞれ重要な条件だ。
そもそも従えないルールでは、従いようが無い。
これは、従うには複雑過ぎるとか、従うと損をすると言った事でも条件から外れる事がある。
どんなに公平に適応されても、従う人がいなければルールは機能しないし、そんなルールは無理やり従わせてもマイナス面が蓄積していく。
ルールに意味があるかだが、ルールとはそもそも、特定の何かを実現する条件を記した物と言えて、意味が必ずある物だ。
つまり、平等に適応する事を優先するあまり、特定の何かを実現出来ない様な場合は、そのルールには意味が無い。
納得感は公正さを扱う上では、非常に重要だ。
客観的な正しさは、誰の目から見ても概ね正しくある事が重要であり、一方から見た正しさが反対から見ると論理破綻していたり、独りよがりな決定となっていては反発しか生まない。
納得性は、条件下にある大多数が正しいと感じないと育まれず、その為には説明も説得も必要になる事だってある。
次に、コストに触れよう。
コストだが、これは公正さのコストが断トツで重い。
適応範囲の個々や状況や環境等のあらゆる情報が必要となり、それらを集め、整理し、判断するのに、とにかくコストがかかる。
だから、裁判をするのは時間も費用もかかり、内容によっては費用対効果が悪くなってしまう。
公正さは、とにかくコストがかかるのだ。
それに比べると平等は、個々を見る必要が無いだけマシだが、意味がある為には余分なコストを払う事を許容しなければならない。
ルールを適応する全員が似た様な状態なら良いが、差が大きい場合に平等は下に合わせる必要があるからだ。
下に合わせて平等を適応すると、必要が無い所に余分にコストをかけて分配する様な状態になる。
では公平はどうかと言うと、公平は公平で別の所でコストがかかる。
一定のルールで問題を解決する縛りを作るには、きめ細やかなルールを作るなら公正と同じルール作成コストがかかり、大雑把なルールで良いなら平等と同じ余分なリソースコストがかかる事になる。
つまり、これらはルール作成かリソースのいずれかコストがトレードオフとなっていて、ルール作成に時間や手間がかかれば結局リソースのコストもかかると言う、どう転んでもコストがかかる性質を持っている。
しかし、多くのルールを作る人は、その辺を深く考えず別のルールを踏襲したり真似て作ったりして痛い目を見る。
人工物の維持は人を正しくあろうとさせるが、同時に縛り不自由にする
公平も、平等も、公正も、正しくあろうとする力だ。
これらは不自然で、人為的で、人工的だ。
この自然に逆らうルールは、人を一定の基準で正しくあれと、縛り付ける。
つまり、公平で平等で公正であると言う事は、その範囲では人を守ってくれるが、同時に範囲内に縛り付け、不自由にしていく。
不自由を受け入れてもプラスになるルールであれば良いが、人を縛り不自由にさせて、正しくあれと勝手なルールを押し付けてプラスが少なければ、人々は徐々にルールに従わなく、従えなくなってしまう。
あらゆる物を不自由状態にしたルールだらけの社会では、そもそも許される自由が限られる。
すると、個としてはある意味で自由になったが、社会のルールが難しく自由人として参加できず、自由を持て余すと言う事に陥る事が考えられる。
恐らく、多くの引きこもりやニートと言われる人々の大半は、この社会のルールが一因として生み出している。
要は、公平で平等で公正でと言う「ルールを増やす」ばかりで、実は不要となった物を減らしたり緩める事を怠ってきた事で、ルールに雁字搦めとなった社会の弊害と言った所だ。
この状態は、社会が暗黙の物も含めてルールを大量に作り、結果的に個々では何とかなるが条件が重なる事で無理難題となったルールを守れなくなった人が脱落し、社会が自分を形成するルールで自殺していっている状態と言えるだろう。
公平も平等も公正も大事だが、それらを求めて作ったのに、既得権益を結果的に守る能力主義や学歴社会が前提のローカルルールによって、公平と平等と公正を享受できる人が限られた、かえって不公平で不平等で不公正で差別溢れる社会となっているジレンマに人々は苦しんでいるわけだ。
と言う事は、ルールを見直し、今必要で役立つルールだけを残し、いらない物を暗黙のルールも含めて整理する事が求められていると言える。
だが、そんな事を今の政治家が出来るとは到底思えないと言う、打ち手、ないしヒントの一つは見えても実行不可能と言うジレンマも抱えているわけである。
歪んでしまった公平で平等で公正なルールに押しつぶされない為には、ルールの外に身を置くか、歪みを含めルールを理解して利用していく他にない。
複雑過ぎるルールは面倒臭さを生み、面倒臭さは、人を殺しかねない。
公平で平等で公正な事は正しく、本来正義な筈なのに、人の扱える度を越えると今度は害悪となって社会を蝕むのだから面白くも煩わしい。
解決方法は?
大きな問題の解決は、問題の認識と共有から始まる。
世の中、様々な人が様々な問題提起を行っているが、あれは広い層に問題を認識して貰う為だ。
だから、この様々なルールの複雑化によって問題を抱えている事もまた、少しでも認識している人が増えれば問題として扱われる事だろう。
ルールの整理とか、それこそAIにやって貰ったらいい感じに整理してくれない物かね。
その際、間違っても既得権益の人や、シンプルに無能な働き者の権力者タイプの人には、ルール整理に絡んで欲しくないと切に願うものである。
余計にルールが複雑化して、公平で平等で公正なルールから遠ざかりそう。
あと、コミュニティの細分化で各個グループでルール作って解決も出来るだろうけど、人材に恵まれないとやっぱりルールが複雑化するだけでダメになるグループが出そうで、みんなを救うって言うのはルール作りと同じで、シミュレーションだけで既に難し味を感じる。
シンプルなルールにするだけで良い筈なのに、それが難しいと言う、ね。
そもそもで厄介なのは、日本人が作ったルールをすぐに守らない人種って言われている所とかもあるかも。
いつまでもTwitterをXと呼ばないとか、一度インプットした物は変える気なしって言う、アレ。
エスカレーターで左に偏って右を歩き続ける人々に、苦労してシンプルにしたルールが浸透するのは何年必要だろうか。
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