混同してない?「リアル」と「リアリティ」は別物って話

現実と現実感の話

「リアリティ警察だ! この作品はリアリティが足りない為、つまらないぞ!」

的な話って、どこにでもありますよね。

映画見て「リアリティが足りない」とか、ファンタジーは「リアリティが無いから下らない」だとか。

でも、そのディスってる部分って、本当に「リアリティ」の部分ですか?

いや「リアル」と「リアリティ」を混同している人が多いので。

あれ、もう気付いた?

これも、創作系のサイトでは触れるお約束なので、このサイトなりに説明しておきます。

そもそも、どう違うの?

「リアル」とは「現実」の事です。

ファンタジーを見て「リアリティが無い」って言ってる人の中には、「現実には、あり得ない」って言いたい人も結構いるはず。

その人たちは、正確に言えば「リアルじゃない」と言うべきって感じ。

さっきのは、そういう意味ね。

言葉は、時には正確じゃないと意味が変わってしまうよって例ですよ。

じゃあ「リアリティ」は?

「リアリティ」は、「現実感」とか「現実性」。

バーチャルリアリティって言葉もあって、あれは「仮想的現実感」って事。

この「現実」と「現実感」は、油断すると似て感じる物だけど、実は全然別物。

「現実」は正に「現実世界」を指すわけで、言うなれば限りなく「自然」な物。

これって、創作物って言う「人為的」な物とは、正反対の性質があるわけ。

一方で、「現実感」って基本的に「現実世界以外」に向けて使う言葉で、使った対象に対して「現実っぽい」とか「現実味がある」って言う、一定の「自然にあっても不思議じゃない」って言う評価をする言葉なんだ。

まあ、現実を指して「まるで現実味が無い」とかも言うけどね。

「リアル」と「リアリティ」の効能

現実に起こりえない、例えば、魔法や、進み過ぎた科学の描写は、フィクションと言う「嘘」と言う事を知っていても、物語としては楽しめる。

それは、物語の世界と現実の世界が別だと分かっていて、突飛で魅力的な空想で構成された嘘の世界を楽しむ姿勢が出来ているから。

この姿勢が出来ていないと「下らない」ってなったり、「楽しみ方がわからない」ってなりやすい。

だから、姿勢を整える動線を用意しておくと、楽しめるようになる事もあったりする。

魔法はダメでも科学なら良ければ、表現が同じでも受け取り方が変わるし、別世界がダメなら過去や未来を舞台にすれば、やっぱり受け取り方が変わる。

実写版の「テルマエ・ロマエ」とか「るろうに剣心」は、どちらも漫画が原作でファンタジーに近い要素がある。

実写化で、原作ファン以外の、かなり幅広い層に受け入れられている印象がある作品だ。

漫画を普段読まない人や、ファンタジーに興味が無い人でも「日本が舞台」とか「歴史を扱っている部分がある」と言う点で「リアル」を感じ取り、それぞれの楽しむ姿勢で広く親しまれている部分は、あると考えている。

もちろん、脚本、演出、人気俳優の起用や宣伝と言った要素もあるだろうが、単純に「日本が舞台」と言う「リアル」は、日本人には広く受け入れやすい要素として強烈に機能しているのは間違いない。

仮に「テルマエ・ロマエ」の舞台をフィンランドにしたり、「るろうに剣心」の舞台をヨーロッパにしていたら、脚本と演出が同じでも、日本でここまでのヒットをしていたかは、分からないだろう。

これが「リアル」の持つ力の一つだ。

「リアル」とは、創作の中で「現実との共通点」の提示であり、それは強力な「フック」として機能する。

日本人には日本が舞台だったり日本人主人公、学生には学校が舞台だったり学生主人公、そういった要素の共通点は、単純だが強烈な「フック」となり、作品を届けやすくする要素の一つとして機能する訳である。

次は、「リアリティ」に話を移ろう。

「リアリティ」とは「現実感」であり、それは、このサイトでは何度も説明してきたが「納得性」ってやつだ。

要するに、物語であれば「登場人物」に「行動」に「舞台」に「展開」に「演出」に「設定」に「構成」に「セリフ」に、あらゆるものに「納得感」が求められ、それが「物語のリアリティ」と一言で説明される

なので、現実に無いモノを描写して、そこに「実際にあったら、こうだろうな」と言うあらゆる要素を込めるのが「リアリティ」を獲得する為に必要な事で、「現実」を手本にしているが、決して「現実」である必要はない。

フィクションを楽しめるのは、基本的に「リアル」と「リアリティ」の両方があるから、「この世界は、もしかしたらあり得る」って思い込めて楽しめるわけ。

「リアル」と「リアリティ」、行き過ぎた追求がフィクションを殺す

ここまで書いてきたように「リアル」も「リアリティ」も物語には重要な要素。

でも、どっちも「フィクション」とか「人工的な物」を「自然で調和の取れた状態」にする為に必要な物であって、難しいのは、追求していくと、どっかでフィクションの要素が死んでしまう事がある。

あらゆる要素で「リアル」を追求すれば、それはただの「現実」になって、もはや創作物でも何でもない。

映画で言えば、ノンフィクションやドキュメンタリーの「リアル度」を超えると、記録映画やホームビデオみたいになり、もっと行き過ぎれば、監視カメラみたいな記録映像に辿り着く。

「リアル」は、行き過ぎると、フィクションを殺し尽くす事が出来る。

編集も、演技も、脚本も、究極の自然には邪魔だからね。

必要な「リアル」と「フィクション」の比率を見極めるのが、創作には不可欠なわけだ。

で、今度は「リアリティ」だけど、こいつも追及し過ぎると、フィクションを殺す事になる場合がある。

こっちの場合は、問題になるのは「フィクション」と言う前提と、「矛盾」って奴だ。

そもそもが、不自然な状態で、人工物にルールを与えて調和させる事、それが創作の基本中の基本だ。

「不自然な状態なのに調和が取れている」状態の追求と言う「矛盾を孕んだ物」である以上、創作物が複雑になればなるほど、簡単に矛盾が発生する。

その矛盾を徹底的に「均す」事で「リアリティ」のある物語や作品が生まれる。

だが「リアリティ」を追求し過ぎると、フィクションの中にもう一つの「リアル」を求める事になる。

納得感が最も高いのは、自然な状態だ。

究極に自然な状態を追求すると、細部まで「リアリティで均す」事になり、その作業は全体に均一にやらないと不自然になるので、創作に置いては、作業量が恐ろしいほどに増える事になる。

だが、悲しい事に、一定以上の「リアリティ」は、求められていないのが現実だ。

無駄と言う事だ。

例えば、魔導書を劇中に出そうと思った時「全ページを異世界文字で書こう」「異世界文字をデザインしよう」「言語学的に正しい異世界文字にしよう」と言う風に、「リアリティ追求」は、全ての要素に、恐ろしいレベルで可能なのだ。

探偵物語で、犯人の動機が不自然なら「リアリティ」を持たせる為に、設定を練って大幅な手直しが必要だろう。

だが、犯人の動機形成に必要な過去の事件まで設定するとなると、本編中に触れる機会があれば生きるが、無いなら死に設定となる。

終わりに

「リアル」も「リアリティ」も、必要を見極めて追及し、必要以上は毒になる事を認識しないと、痛い目を見る重要な要素と言う事を分かってもらえただろうか。

この記事が、「リアル」と「リアリティ」の混同を減らし、創作物の中での必要バランスを考えるきっかけになれば幸いである。

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