「理詰めで考える」というのは、基本的には悪いことではありません。
むしろ、問題解決にはかなり強力な方法です。
何が起きたのか。
なぜ起きたのか。
原因は何なのか。
では、どうすれば再発を防げるのか。
こうやって原因と対策を順番に考えていけば、感情だけで判断するよりも、問題を解決できる可能性は高くなります。
ところが、この「理詰め」という道具は、どんな問題にも使えるわけではありません。
使いどころを間違えると、問題を解決するどころか、理詰めそのものが新しい問題になることがあります。
最近SNSで話題になった、離婚した女性が「自分は相手を理詰めし続けていた結果、後になって自分にも問題があったことに気づいた」という趣旨の投稿は、このことを考える材料になります。
この話を単純に、
「理詰めする人は性格が悪い」
と受け取ってしまうと、本質を見失います。
また、
「理詰めを出来る人は優秀なはず」
と思い込んで見ても、本質を見失います。
重要なのは、理詰めには得意な問題と、苦手な問題があるということです。
理詰めが強いのは「原因を取り除けば解決できる問題」
理詰めが有効なのは、原因と対策が比較的明確につながっている問題です。
この明確とは、原因と対策がハッキリしている事以外にも、具体的対策が少ないプロセスで実行可能かも含まれます。
例えば、
「約束を忘れてしまった」
という問題があったとします。
そこで、
「なぜ忘れたのか?」
と考える。
「予定をカレンダーに登録していなかったから」
なら、
「次からカレンダーに登録する」
という対策ができます。
実際に登録して、忘れなくなった。
これなら理詰めは成功です。
問題が、
原因 → 対策 → 実行 → 改善
という形で、シンプルにつながっているからです。
仕事でも同じです。
ミスが起きた。
↓
手順が明文化されていなかった。
↓
手順書を作る。
↓
作業前に確認する。
↓
ミスが減る。
このような問題には、理詰めは非常に強いと言えます。
しかし、「原因が分かる」と「解決できる」は別の話
ここを混同すると、理詰めは危険になります。
具体的対策が少ないプロセスで実行可能か、の部分です。
例えば、ある人が仕事をうまくできなかったとします。
原因を調べてみると、
「本人の能力不足だった」
と分かった場合。
では、
「なぜ能力不足なのか?」
と、さらに原因を掘れば問題は解決するでしょうか?
必ずしもそうではありません。
能力不足という原因が分かったとしても、その能力を身につけるには時間がかかるかもしれない。
そもそも、その人には適性がないのかもしれない。
教育するための人員や予算がないかもしれない。
本人が努力しても、要求される水準まで到達できないかもしれない。
つまり、
原因を発見することと、原因を除去できることは別です。
具体的対策が少ないプロセスで実行可能か、が危ぶまれると、理詰めはプロセスを仮説的に具体化する事は可能でも、実際に問題解決に到達出来るまでの距離が、当人には分からないぐらい目的地が遠くなります。
「なぜ?」を繰り返せば、必ず問題が望んだ範囲内で解決するわけではありません。
理詰めは「能力不足」に弱い
理詰めは、単純な情報不足には強いです。
情報が充足すれば、正しい行動を取れるからです。
しかし、能力不足には、まるで強くありません。
例えば、
「どうしてできなかった?」
「方法を知らなかったから」
なら、能力があるなら方法を教えればいい。
これは理詰めが機能します。
情報不足だけだからです。
しかし、
「どうしてできなかった?」
「やり方は知っていたが、できる能力が足りなかったから」
なら、そこから先は別のステージです。
「では能力を上げよう」
となったとしても、それには時間が必要です。
場合によっては、能力を上げること自体が不可能かもしれません。
不可能と言わずとも、難しい事は沢山あります。
ASD(自閉スペクトラム症)、ADHD(注意欠如・多動症)、LD(学習障害)等があると、能力を補う事が不可能な領域や、能力で補っても多大なコストがかかってもとが取れない領域がかなり出てきます。
ここで、
「もっと努力すればいい」
「なぜ努力しなかった?」
「なぜできなかった?」
と追及し続けても、問題解決能力が高まるとは限りません。
むしろ、相手を責めるための材料だけが増えていくことがあります。
典型的文系の人に高度な数学的能力を求めたり、逆に理数系の人に高度な文学的能力を求めるのは、出来るかもしれませんが、適材適所を考えた方が良い事は客観的に見れば明らかです。
簡単に補えない能力不足を理詰めしても、それは実質的には当事者を追い詰めているだけで、問題解決には役に立たない場面は非常に多いと言えます。
「不運」は、さらに理詰めしにくい
不運も同じです。
例えば、約束の時間に遅れた理由が、
「事故で電車が止まった」
だったとします。
A「なぜ事故に巻き込まれた?」
B「その路線を使ったから」
A「なぜその路線を使った?」
B「いつも使っているから」
A「なぜもっと早く出なかった?」
B「事故が起きるとは思わなかったから」
A「いつも事故を想定して早めに出れば? 会社の近くに引っ越したら?」
B「……」
ここまで来ると、いくらでも原因らしきものを作ることができます。
しかし、原因らしきものを並べたからといって、事故そのものを常識の範囲内の行動で防げるわけではありません。
いくらでも解決策も出るが、それをするだけの労力をかける価値もモチベーションもそこにはありません。
これは非常に重要な点です。
人間は結果を知った後なら、
「こうしておけば避けられたのでは?」
という説明をいくらでも作れてしまいます。
しかし、
結果を予測できなかったことと、結果を防げなかったことは同じではありません。
理詰めによって、後から責任を無限に作り出すことができます。
しかし、それは問題解決とは限りません。
責任を当事者に押し付けているだけです。
本当の責任は、事故の原因を作った人や自然現象ですが、そこに求められない清算を場の最弱な者に求めているに過ぎません。
人間関係では「正しい説明」が存在しないこともある
さらに難しいのが、人間の感情です。
「なぜ悲しいの?」
「なぜ好きなの?」
「なぜ嫌いになったの?」
「なぜ一緒にいると疲れるの?」
こうした質問には、ある程度の説明はできます。
人は、後付けで逆算出来るからです。
しかし、人間の感情は数学の問題のように、
「原因が分かったから、解答が出た」
とは、なんでもかんでも適応出来ません。
本人にも完全には説明できないことがあります。
複数の原因が絡んでいることもあります。
本人が自分の感情を正確に認識していないこともあります。
時間が経てば気持ちが変わることもあります。
説明し辛い事、言わなくても良い言いたくない事が含まれる事、色々なケースがあります。
つまり、
説明できることと、完全に説明できることは違います。
そして、
説明できることと、解決できることも違います。
「私は納得したい」と「問題を解決したい」は同じではない
今回のSNS上の話で特に重要なのは、ここでしょう。
理詰めをする側は、
「原因が知りたい」
「理由を説明してほしい」
「納得できるまで話し合いたい」
と考えている。
少なくとも、当人はそう考えていると思っている。
本人からすれば、これは問題解決のための行動です。
しかし、相手から見ると、
「自分が納得するまで説明を要求される」
という状態になることがあります。
ここには大きな違いがあります。
問題解決の終了条件が、
「問題が解決した」
ではなく、
「私が納得した」
になってしまうからです。
この二つは似ていますが、まったく違います。
「私が納得するまで」は、実は明確な終わりがない
例えば、
「なぜ忘れたの?」
と聞いて、
「分からない」
と答えられたとします。
そこで終われるなら、まだいい。
しかし、
「自分がやったことなのに、なぜ分からないの?」
と続ける。
さらに、
「なぜそういうことが起きたの?」
「なぜ防げなかったの?」
「次はどうするの?」
と続けていく。
この方法には、一つ大きな問題があります。
ルールの共有が無く、確固たる正解も無いので、実質的に終了条件がありません。
納得出来る回答を言えば良いじゃないと思うかもしれませんが、それは何でしょうか?
忘れた事象に対して、本当についうっかり以上の理由が無く、それを事実そのままに伝えた場合、ついうっかりを減らす事は可能でも完全になくす事は人間である以上は不可能です。
では、詰問者が納得し易い整えられた回答を言って、その場を乗り超えれば良いでしょうか?
当然、その場は乗り超えられますが、ついうっかりが完全に消える事は無く、次のついうっかりで更に激しい詰問が行われる事になり、その時は以前は通じた模範解答さえ封じられている可能性があります。
「私が納得するまで」という条件では、相手が何を答えても、質問する側が気持ち良く納得しなければ終わりません。
その結果、
「問題について話し合っている」
という認識だったものが、
「相手を拘束して答えを要求している」
という行為に変わってしまいます。
そして、質問者が気持ち良く納得する答えが、問題の解決に繋がっているかどうかは別の話です。
つまり、問題を解決する為に、あわよくば納得を求めて話し合っているつもりですが、その実は、納得して機嫌を落ち着ける役割を機嫌を乱した相手に求めているだけになっているわけです。
大事なのは、ご機嫌取りではなく、問題を解決する方の筈が、詰問者さえ自分が何のために質問をして相手を追い詰めてまで答えを引き出そうとしているのか、時に分からなくなっている状態と言うわけです。
理詰めには「停止条件」が必要
だから、理詰めを、ちゃんとした問題解決に使うなら、
「どこまで考えるか」
を決めておく必要があります。
例えば、
「最大の原因を仮説でも良いから一つ選ぶ」
「対策を一つ試す」
「改善しなければ、そこで改めて分析する」
みたいな具合です。
重要なのは、
理詰めを始める条件だけではなく、理詰めを止める条件も決めることです。
これは仕事でも、人間関係でも、創作でも同じです。
遅刻に五月蠅いのに残業に甘かったブラック企業みたいになっては、いけないのです。
さらに重要なのは「相手も問題解決を望んでいるか」
問題解決は、常に一人で成立するわけではありません。
特に人間関係では、
「この問題を解決したい」
という意思そのものが一致していなければ、話し合いは成立しません。
大事なのは、意識的な合意です。
これ、相手を無理やり合意させてもダメです。
ちゃんと「一緒に問題を解決させよう」と言う姿勢を能動的に取らせる事が必須です。
自分は、
「この問題を解決するまで話し合いたい」
と思っている。
しかし相手は、
「この問題はなんとなく分かっていて、話すほどの事は無いけどつきあってやるか」
と思っている。
この場合、二人は同じ問題を解いているわけではありません。
一方は、
「どうすれば関係を改善できるか」
を考えている。
もう一方は、
「どうすれば話し合いを終了できるか」
を考えている。
この状態で、一方がどれだけ理詰めをしても、問題設定そのものが一致していない以上、解決には向かいません。
それで解決する問題なら、そもそも理詰めする必要が無い場合が殆どだからです。
理詰めが「責任追及」に変わる瞬間
理詰めそのものが悪いわけではありません。
それで解決や改善に向かう事は多くあります。
問題なのは、途中から、あるいは最初から目的が変わることです。
「どうすれば問題を解決できるか?」
が正しい目的意識だった。
ところが、原因を探しているうちに、
「誰のせいなのか?」
に変わってしまう事は、気をつけなければ、誰しも、あり得ます。
さらに、当事者に対して、
「なぜそうしたのか説明しろ」
になり、
最後には、
「私が納得できるまで説明しろ。責任を取れ」
になる。
こうなると、もう問題解決とは別の行為です。
「原因究明」と「責任追及」は似ていますが、目的が違います。
原因究明の目的は、
次にどうすればいいかを知ること。
責任追及の目的は、
誰に責任があるのかを確定すること。
もちろん両方が必要な場面もあります。
しかし、これを混同すると、問題を解決するための議論が、相手を追い詰めるための議論に変わります。
日航機墜落事故で、日本の検察が責任追及の為に原因究明を邪魔してしまったのと、構造的には似ています。
「論理的だから正しい」とは限らない
ここで、もう一つ注意したいことがあります。
論理的であることと、適切であることは別です。
例えば、
「あなたが約束を破った」
↓
「なぜ破った?」
↓
「なぜ防げなかった?」
↓
「次に防ぐためには何をする?」
という論理は、一見すると非常に合理的です。
しかし、相手がすでに、
「今は話せない」
「これ以上話したくない」
と言っている、思っているなら、
話し合いを続けること自体が新しい問題
になる可能性があります。
つまり、
「論理的な手段」
を使っていても、
「その手段を使うことが適切な状況なのか」
は別に判断しなければなりません。
理詰めを使う前に「ボトルネック」を見る
では、問題を前に、実際、どうすればいいのでしょうか。
まず見るべきなのは、
「この問題の本当のボトルネックは何なのか?」
の仮説を立てる事です。
例えば、
| ボトルネック | 理詰めとの相性 |
|---|---|
| 情報不足 | 高い |
| 手順不足 | 高い |
| 認識の食い違い | 高い |
| 判断基準の不足 | 高い |
| 計画不足 | 高い |
| 能力不足 | 低い |
| 資源不足 | 低い |
| 時間不足 | 低い |
| 身体的制約 | 低い |
| 他人の意思 | 低い |
| 不運 | 非常に低い |
| 感情そのもの | 限定的 |
| 相手が解決の意思が無い | 原則として解決不能 |
もちろん、これは絶対的な分類ではありません。
能力不足なら、時間やコストをかければ訓練という対策があります。
資源不足なら、どうにかして資源を増やす工夫をするという対策があります。
不運でも、リスク管理によって発生確率を下げられる場合があります。
しかし重要なのは、
理詰めによって取り除けるボトルネックなのか
を先に判断することです。
無理ならば、納得出来る答えを求めても、それは無い物ねだりになり得ます。
「できない理由」をさらに追及しても、「できる」にはならない
ここには、仕事や教育でもよくある落とし穴があります。
「なぜできない?」
と質問する。
A「能力が足りないから」
B「なぜ能力が足りない?」
A「経験が足りないから」
B「なぜ経験を積まなかった?」
A「機会がなかったから」
B「なぜ機会を作らなかった?」
A「必要になると知らなかったから」
B「……」
こうやって質問を続けると、どこかで、
「本人の努力不足」という説明に着地させる誘惑
が生まれます。
しかし、それで本当に問題が解決するでしょうか?
まあ、まず、しません。
「努力不足だった」という説明ができたとしても、その人が突然有能になるわけではありません。
ここでは、
原因の説明が、解決策に変換されていない
からです。
理詰めの目的は「正しい答え」を得ることではない
理詰めをするときに忘れてはいけないのは、
問題解決の目的は、正しい説明を完成させることではない
ということです。
目的は、
現実の状態を改善すること
です。
この改善の良い物が、問題の解決や解消であって、必ずしも綺麗に行くとは限らないのです。
ここを逆転させてはいけません。
「なぜこうなったのか」を完全に説明できても、現実が変わらないなら、問題は残っています。
反対に、
「なぜこうなったのか」は完全には分からなくても、
「次からこうすれば被害を減らせる」
という対策が見つかったなら、それは十分に価値があります。
だから、
責任追及より原因究明であり、原因究明の完成度より現実を改善できるかどうかを見る。
これが問題解決としての理詰めには、とても重要です。
詰問者が納得出来る回答を求め続けるのは、原因究明より責任追及に重きを置き、現実の改善よりも原因究明の完成度を求めると言う、全部逆を行くスタイルとなります。
理詰めが上手い人ほど、理詰めしない判断が必要になる
皮肉な話ですが、ちゃんと理詰めが得意な人ほど、
「ここから先は理詰めしても意味がない」
という判断能力が必要になります。
なぜなら、理詰めができる人は、やろうと思えば、どこまでも原因を掘れてしまうからです。
「なぜ?」
と質問できる。
矛盾を指摘できる。
説明不足を見つけられる。
論理の穴を見つけられる。
だからこそ、
「見つけられるから、見つける」
になってしまう危険があります。
そうやって原因が200個見つかっても、その全てに同じ価値があるわけではない。
見つけられることと、見つける価値があることは別です。
「理詰めできる」と「理詰めすべき」は別
これは非常に重要な区別です。
例えば、
「相手の発言には矛盾がある」
ことを発見できたとします。
しかし、その矛盾を指摘することで、何が改善するのでしょうか?
問題が解決するのなら指摘する価値があります。
殺人犯のアリバイを指摘する事で逮捕して罪を償わせる事が出来るとか、そう言うやつです。
しかし、単に相手がさらに説明を求められ、疲弊し、関係が悪化するだけなら?
当然、それを”あえて”指摘しないという選択肢もあります。
つまり、
理詰めできるか?
ではなく、
理詰めすることで現実は改善するか?
を考えるのです。
これが重要です。
理詰めは「ナイフ」に似ている
理詰めを道具として考えると分かりやすいかもしれません。
ナイフは便利です。
- 物を切れる。
- 料理にも使える。
- 工作にも使える。
しかし、便利だからといって、何でも切ればいいわけではありません。
何でもナイフでやろうとすると怪我をしたり対象を傷付ける事もあるでしょう。
マイナスドライバーを使えば良い場面で、ナイフでネジを回そうとする必要はありません。
対象を間違えれば、役に立つ道具が危険な道具になります。
理詰めも同じです。
- 問題を分解する。
- 原因を特定する。
- 対策を考える。
これは非常に強力です。
しかし、
- 「原因が分かっても解決できない問題」
- 「相手の意思を変えられない問題」
- 「感情を完全に言語化できない問題」
- 「不運を完全に排除できない問題」
等にまで同じ方法を適用すると、
問題を解決するための道具が、相手を追い詰める道具になってしまいます。
まとめ――「なぜ?」の前に「それで何が変わる?」を考える
理詰め、と言う道具自体は悪くありません。
むしろ、問題解決には極めて有効な道具です。
ただし、理詰めには限界があります。
原因を知っても解決できない問題がある。
説明できないものがある。
説明できても変えられないものがある。
自分が納得しても、問題が解決したとは限らない。
そして、相手には相手の意思がある。
だから、理詰めを始める前に一つ確認したほうがいい。
「この問題は、理屈を詰めれば現実を変えられる問題なのか?」
そして、理詰めを続けている途中でも確認する。
「ここまで原因が分かったことで、何か現実は改善するのか?」
もし答えが「しない」なら、そこで止める。
原因を完全に説明できなくてもいい。
相手が納得できる完璧な説明を作れなくてもいい。
「分からない」で終わることがあってもいい。
問題によっては、
解決することより、解決できないものを解決しようとしないことのほうが、問題解決になる。
理詰めの本当の使いこなしとは、どこまでも納得を求めて理詰めすることではありません。
どこかのタイミングで「ここから先は理詰めしても現実は変わらない」と判断して、適切に理詰めを止められることです。
それを「私が納得が出来れば」と言う条件でタイミングをはかると、何にでも理詰めをしていれば次第に人間関係は、ぐっちゃぐちゃのめためたになります。
理詰め、しがちだよっ、て人。
自分が間違っていなくても、相手が間違って見えてても、一度立ち止まりましょう。
必ずしも相手を理詰めでどうにか出来るとは限らない事を、肝に銘じておきましょう。
そして、それでも納得出来ず、理詰めしたい場合は、今の時代は、まずAIに状況を共有して意見を聞いてみましょう。
AIは、かなり理詰め性能が高いので、理詰めに対する前提の正誤を、わりかし良い感じに判断してくれます。
そして、AIとの対話で思考が客観視出来ると、自分が理詰めで何を求めいるかも視覚化されつつ、AIが詰問相手に求める事が出来ない「納得」を、どうにか整理して、それらしい形で提供してくれる事もあります。
理詰め中毒な人ほど、AIに一度、状況を共有してみましょう。
それで、気がすむ人も、かなりいると思います。
それで人間関係が悪化しないなら、かなり合理的でしょ?
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