「エンタメ作品は、キャラクターが全て」と言う言葉が生む誤解

「キャラクターが全て」と言う教えは、本当なのか?

エンターテイメントに関わる人なら、きっと一度ぐらいは聞いた事があるだろう。

「キャラクターが全て」「ドラマはストーリーに感動するのではなく人物に感動する」「脚本では人間を描く事が最も重要」「キャラクターが立たないと物語は、つまらない」

色々な「キャラクター至上主義」とも言える標語が生まれ、プロの書き手や、創作者の卵に教える側の人間もまた、そう教える場合もある。

最初に断っておく。

この「キャラクター至上主義」は、見方によっては非常に正しいし、大変有用だ。

だが、それは見方によって、と言う注釈がどうしても必要になるのも事実である。

つまり、注釈がある事を意識的にでも無意識的にでも、「理解出来ている人」にとっては正解であるが、それを「考えもしない人」にとって「キャラクター至上主義」的考えは、時に諸刃の剣となる。

今回は、その事について書きたいと思う。

目次

  • 「キャラクターが全て」と言う言葉は、どうして生まれたのか?
  • パワーワードによる布教で起きる事
  • そもそも「キャラクターが全て」の「キャラクター」って何?
  • 「キャラクターが全て」の正しい意味とは?
  • 「人は物語に感動しないでキャラクターに感動する」って聞いたけど、それはどういう事?
  • 物語を生み出すキャラクター
  • キャラクターの寿命
  • まとめ

「キャラクターが全て」と言う言葉は、どうして生まれたのか?

まずは、その言葉が生まれた背景から知るべきだろう。

この言葉が、正真正銘最初に生まれた経緯も歴史も、正確には知る由はない。

それでも分かる事は、言い切る事による言葉自体のキャッチーさと、力強さの獲得を狙っていると言う事だ。

例えばだ。

「壊れない盾」

「壊れない盾同士ぶつからなければ、壊れない盾」

があったとしよう。

これらは、まったく同じ物だとする。

あなたは、どちらの「盾」が欲しいだろう?

同じ物でも、多少誇大広告気味でも、説明不足だとしても、「欲しい」と言う感情を刺激するのは、力強くキャッチーで短い言葉の方になる。

「キャラクターが全て」と言うのも、まさに同じ事が言えるのだ。

長々と、細かな前提、条件、注釈を説明していては、有用な情報だとしても誰も欲しがらない。

それならば受け取り手が、多少勘違いしてでも、まずは届けよう。

それぐらい「キャラクターが全て」と言う言葉を入り口にして、学べる知識や情報は、素晴らしいモノなのだから……

と言う、そう言う側面がある訳だ。

パワーワードによる布教によって起きる事

確かに、ある見方では正しいので、布教によって救われた創作者は大勢いるだろう。

だが、同時に、被害に遭った創作者も、大勢いるのも事実である。

「みんな、説明不足だって実は分かっているよね?」と言うていで使っている言葉なので、そこで思わぬ勘違いが起きるのだ。

自動車の燃費が嘘だったり、多少内容を盛って表記されても「こういうもの」と言う風に受け取れる事に慣れた人用の標語なのだ。

困った事に世の中の人は、そんなに都合良く、みんながみんな分かっている訳では無い。

説明不足だと声をあげるなら良い方で、深く考えずに受け入れる場合さえある。

まず、「言葉は聞いた事があるが、使う気も無ければ学ぶ気も無い人」が、深く考えずに、都合良く使うと言う事が、往々にしてある。

主に、創作者に対して指示や助言をするが、自分自身は直接物語を作らない側の人である事が多い。

プロデューサー、ディレクター、編集者、創作教室の教師と言った、どちらかと言えば管理したり、教える立場にある様な人達だ。

物語創りに関わっていて問題が発生したり、助言を求められた時に、こんな言葉が飛び交う事になる。

  • 「キャラさえ立っていればいい」
  • 「ストーリーはどうでもいいから、魅力的なキャラクターが欲しい」
  • 「ストーリーには誰も興味はない。とにかくキャラだ」

等々と言われて困った経験のある創作者も、大勢いるだろう。

そう言う事を言ってくる人達は、言葉の裏にある説明不足も注釈の存在も、考えた事も無い場合が多い。

有名な人が言っていたり、有名な本に載っていた等と言った、ある種の権威を頼りにしているだけの場合が殆どだったりする。

自己啓発本の引用をそのまま使っちゃう様なものだ。

助言の場面やタイミングが合っていれば、創作者側は非常に助かる。

だが、勘違いしたまま本来は場面がマッチしない様な避けるべき時に使われてしまう事も少なくない。

実際、一昔前のソーシャルゲームでは、美麗なイラストと短いテキストが添えられたキャラクターが乱造された。

ゲームの中身はボタンを押すだけで、基本はガチャをまわして強くなる札束で殴り合う類のゲーム等だ。

お約束として、物語と言う作る事に労力が必要な部分が蔑ろにされた苦い歴史である。

その中生まれ、どれだけの作品が今も記憶に残り、その中の何割が「キャラクターだけ」で厳しい業界を残ったのかを考えれば、答えは自然と出て来る。

キャラクターは重要な要素であるが、「全て」と言う言葉を「だけで良い」と捉えた場合に、大きな弊害が出るのだ。

そもそも「キャラクターが全て」の「キャラクター」って何?

「キャラクターが全て」と言う言葉の怖い所は「キャラクター」と言う誰にでも意味が分かる言葉側にも、複数の意味が備わっている点にある。

当ブログで取り上げる事も多い、物語のコンセプトに関わる「メッセージに繋がるテーマ」と「全体を統一するモチーフのテーマ」の違いにも、少なからず似ている。

中身と見た目で、テーマと言っても種類があるが、多くの場合はただ「テーマ」としか言われない。

これによって「テーマ」が弱い、無いとリテイクを受けた創作者が、内容のテーマではなく、モチーフのテーマをテコ入れしようとするなんて事故は、実際よくあったりする。

「キャラクター」を辞書などで調べると、

  1. 物語等に登場する架空の登場人物
  2. 人の持つ性質

等と説明される事が多い。

「架空の登場人物」と「人の性質」では、同じ「キャラクター」でも別の物を指している。

この時点で、「全て」と言う言葉が「キャラクター」のどちらの意味を指しているのか分からなくなっても仕方が無い。

「キャラクターが全て」の正しい意味とは?

「キャラクター」と言う言葉自体に勘違いの余地があり、「全て」と言う言葉にも解釈の余地がある事が分かった。

では、正しく「キャラクターが全て」と言う言葉を理解するには、どうすれば良いか?

まず言えるのは「キャラクター」とは、外見と言う見た目だけでは「キャラクター」としては弱いと言う前提を知るべきだ。

つまり「キャラクター」には、内面と言う見た目だけでは全てが分からない要素が必要なのである。

何を当たり前な事を、と思うかもしれない。

だが、これが分かっていない人は、実際かなりいる。

そう言う人は「キャラクター」と言う物を、架空の人物や人格ではなく、シンボルやブランドとして見ている節がある。

美しい、可愛い、カッコイイ、そう言うキャラクターの絵があれば、マーケティングや売り込み方次第では、受け入れて貰えると言う考え方なのだ。

何でそのキャラクターが売れているか深くは考えないが、みんなが好きな物は知っている様な状態で、真似をしようとすると陥りやすい。

この考え方をしている人が、物語の創作に関わると、上記の通り創作者にとっては厄介な事になる場合がある訳だ。

そして「全て」が示す意味は「それだけが、あれば良い」と言う意味では無い。

「全て」と言うのは「キャラクターが(しっかりと創れていれば、それだけで物語になるので)全て」と言う意味だ。

「キャラクターだけがあれば良い」のでは無く、「しっかりしたキャラクターを創れば物語はついて来る」と言う事なのだ。

同じに思える人もいるかもしれないが、物語が自然と生まれる程にキャラクターを創り込むと言うのは、実際はコツが必要だったりする。

外見や設定を例え濃密に作っても、それだけでキャラクターが立って、物語が勝手に生まれる訳ではないからだ。

「人は物語に感動しないでキャラクターに感動する」って聞いたけど、それはどういう事?

これも、言葉の罠、一種の説明不足です。

確かに、物語という全体の流れで人が感動する訳では無いです。

ここで言う物語は、旅行の際に見る「予定表」や「地図」をイメージすると分かり易いです。

旅行の「予定表」や「地図」を見れば、旅行の全体像は掴めますが、それ自体ではワクワクはしても、感動は起きません。

じゃあ、物語を疎かにしても良いのかと言うと、そうではありません。

旅行に「実際に行く」事で人は感動する事があります。

つまり、行動して、経験する事で、その結果、感動する訳です。

物語でも同じことが言えます。

感動に必要になるのは「キャラクターの行動を通して経験する事」になります。

この「キャラクターの行動」こそが、実際は「物語」を構成します。

読む前の物語は「予定表」ですが、読んでいる最中は「キャラクターを通した行動の追体験」になり、読み終われば「一連の経験」として感動を呼び起こす。

なので「人は物語に感動しないで、キャラクターに感動する」と言う教えの本来の意味は、「人は、キャラクターの行動を通して物語に感動する」と言った方が良い訳です。

物語を疎かにすると、キャラクターを通しても感動できません。

考えてみれば、当たり前ですよね?

物語を生み出すキャラクター

世の中には、先にも軽く触れたがキャラクタービジネスと言う物がある。

ミッキーマウス、キティちゃん、最近だとミニオンもある。

よつばと!からスピンオフしたダンボーに、しろたんやポムポムプリン、たれぱんだ、ケロッピ、リラックマと、挙げて行けばキリがない。

「キャッチーで可愛いデザインに、あっても短い説明書き」

これだけでヒットすれば一財産作れる様に見られる事もあるが、ここまでこの記事を読んできた人なら、そんな簡単では無い事は分かっているだろう。

あらゆるグッズにイラストを印刷し、それを皆が欲しがる。

確かにそうだ。

キャラクタービジネスでヒットしているキャラクター達は、キャラが立っている程に強い。

そう言う意味では、「性質」と言う意味のキャラクターが物を言っているのが分かる。

だが、それだけでヒットするかは、全く別の話である。

人気獲得の入り口

ミニオンのヒットを見ると、キャラの性質(ハチャメチャでノリが良く、情に厚い等)が物語を置いて一人勝ちした好例である。

だが、その姿やイメージを伝える為には、なにかしらの手段が必要になる。

ミニオンの場合は、映画である。

ミニオンのヒットは、出演映画で主役を食う勢いだ。

ミニオンがヒットしたのは、映画の中で特にキャラが立っていたからもあるが、それだけでは無い。

ミニオンと言うキャラクターの行動が、非常に魅力的に描かれていたからこそ、愛されたのだ。

つまり、グルーと言う主人公を通し物語を追体験した結果、ミニオンの物語が一作目の時点で人々を感動させていた訳だ。

パイレーツオブカリビアンでもジョニー・デップ演じるジャック・スパロウが、似た事になって主役を食っている。

それぞれ映画自体の出来も良く、その上でミニオンやジャックは魅力的に描かれ、彼らがもたらした物語に感動があったからこそ、ここまで愛されたのは言うまでもない。

つまり、これらのキャラクターが好かれているのは、可愛い、カッコイイ見た目や簡単な設定が入り口ではなく、映画の中で登場人物として意思を持ち行動していたからこそ、あそこまでの愛を獲得できた訳だ。

仮に、映画が無い状態であれば、ミニオンもジャックも、あそこまでのヒットはしなかった筈だ。

同じ見た目、同じ設定でも、物語の追体験があって初めて得られるキャラクターとしての爆発的な人気なのだ。

これは、キャラクターの王様であるミッキーマウスでも言える事だ。

映画の中で活躍したからこそ、ミッキーマウスはスターの道を歩んでいる。

世代が変わり、ミッキーの映画を見た事が無い人でも、ミッキーの声や喋り方、ぼんやりとした性格設定などは把握しているだろう。

それ程までにミッキーマウスはキャラクターとして自立しているが、その入り口はミッキーマウスの物語にある。

具体的な物語の無いキャラクターは?

では、映画などのストーリーが具体的には無い場合、どうだろう。

その場合は、性質と、そこから得られる想像で物語が生まれる。

つまり、見る人に勝手にストーリーを考えて貰う、その切欠を上手く与える事で、愛されるのだ。

しろたんは、すしネタを背負って「どこか自虐的なコスプレ」をし、たれぱんだやリラックマは「見るからに力が抜け、場合によってはふてぶてしさを感じる」、ダンボーはリボルテックの身体を得て美しくも哀愁漂う写真の「モデル」となった。

ガチャピンは「様々なチャレンジ(挑戦と言う行動)」したしね。

キャラクター達は、性質と言う意味のキャラクターを披露する事で、フレーバーテキストを超えた物語を得て、愛されるに至る道に入ると言う事だ。

だからこそ、キャラクターは棒立ちしている事は、あまりない。

ゆるキャラでも、愛されるキャラクターは奇行(奇妙な行動)をしたり、とにかく行動する。

たれたり、リラックスしたり、コスプレしたり、行動する。

行動する事で、明確に記されていなくとも、見る人は物語を感じ取ってくれる。

一人のキャラクターの行動の集積は、物語足りえるのだ。

ふなっしーは、少しメタを含んだ設定や奇行(それも圧倒的な量と質の)で愛され、野球界のマスコット達も問題行動が多い程認知されやすく愛される。

その行動そのものが、性質となってキャラクターのイメージを固め、それを受け入れられた時に人気キャラクターとなる。

明示した物語が無くとも、人は、見た行動から勝手に物語を創ってしまう。

ふなっしーの芸能界で酷い目に遭ったりしている姿は、ある意味、物語の中で登場人物が苦難と対峙しているシーンそのままに、人によっては見える筈だ。

ちぃたん☆の体当たりなチャレンジも、キャラクターとして見ればある意味で正しい姿勢である。

連続した行動が物語を生み出すのだ。

キャラクターの寿命

キャラクターは飽きられる。

どんなに人気でも、時間が経つと飽きられてしまう。

古いキャラクターは見向きもされなくなり、コンテンツとしての限界と言う物がやがてはやってくる。

好きな言葉では無いが、オワコンと呼ばれる状態だ。

だが、全てのキャラクターが寿命を迎えるのかと言えば、そうではない。

ミッキーマウスは、著作権の保護期間を引き延ばす程の長きにわたって愛され続けている。

ミッキーマウスを生んだディズニーが設立したのは、1923年10月ごろ。

ミッキーマウスのスクリーンデビューは、1928年11月である。

約90年もミッキーマウスはキャラクターとして現役を通している。

何故そんな事が可能なのだろうか?

寿命を延ばすなら、常に動き続けろ!

長い寿命の秘密。

それは、ミッキーが行動し続けているからである。

主役としてのスクリーンでの活躍こそファンタジアぐらいまでだが、テーマパークではメインを務めるし、ゲームではキングダムハーツシリーズやツムツム等、現役で活躍を続けている。

行動し続けると聞くと言葉としては簡単そうだが、実際はそんなに甘くない。

同じ行動では、飽きられてしまうからだ。

つまり、新しい事に挑戦し続ける必要があるのだ。

その姿勢はディズニーと言う企業自体にも共通しており、新しい映画を作り続け、テーマパーク自体も進化し続けている。

飽きさせない戦略をとれば、キャラクターの寿命は延び続けると言う事だ。

寿命を延ばすなら、世界を広げ続けろ!

ここで言う世界とは、土地と言う意味ではない。

ディズニー傘下になったマーベルやライバルのDCと言った大手アメコミの世界は、そのレーベル単位で繋がっている事が多い。

そう言う意味では、世界を広げれば土地も広がるのだが、ここで言いたいのはスポットライトを当てる場所を徐々に増やすと言う手法である。

例えば、ブラム!やシドニアの騎士の弐瓶勉作品は、時代や場所が違うが同じ世界を舞台にしている。

ある意味で、アメコミ的手法が使われた作品作りをしている訳だ。

すると、新作から弐瓶ワールドに入った人は、当然の様に過去作に手を出さざるを得ない。

これが世界を広げると言う戦略の一つだ。

Fateシリーズでお馴染みのタイプムーン作品も同じ戦略をとっている。

ストライクウィッチーズシリーズもそうだ。

この戦略は、キャラクターだけでなく、コンテンツ自体の寿命を劇的に伸ばす。

だからこそ、古い作品のリブート、リメイク、真章の開始等が行われる。

良いコンテンツが無いから過去作に頼っているのでは無く(中にはそう言うのもあるが)、良いコンテンツの寿命を延ばしていると言う意味合いがあるのだ。

まとめ

キャラクターが愛されるには、物語が必要と言う話でした。

この記事が、少しでも不幸なキャラクターを減らすのに役立てばうれしい限りです。

ちなみに、艦コレや刀剣乱舞は、モチーフとした触媒そのものに強烈な物語があるモノを選んでいる所が、他の○○モチーフキャラゲーとは一線を画すポイントです。

キャラクターを立たせる前に、モチーフ自体に強烈な歴史的物語が内包されている訳です。

※この記事は、修正、追加等をする場合があります。

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