コラム物語論「世界は、パターンで出来ている」

パターンが世界を動かす

原始時代。

猿から人へと進化を遂げて何年か、あるいは何十、何百、何千年と経った頃。

一人のホモサピエンス「彼女」が恋をした。

偶然、森で果物を採集していた時に、狩猟に訪れた「彼」とニアミスしたのだ。

それは、別の集団に所属する人だった。

「彼女」は「彼」に獣から救って貰い、すぐに二人は両想いになった。

だが、言葉も文字も無い時代だった。

手を握り、目を見れば、相手の事が分かる。

だが、それ以上に相手を知る術は、持ち合わせていない。

他所の集団の縄張りに迷い入れば、悪ければ殺されるか、縄張り争いになってしまう事もある。

「彼」は、仕留めた獲物を持って、出来るだけ早く、その場を離れる事しか出来なかった。

だが「彼女」と「彼」は、別れ際に肉と果物を少しだけ交換していた。

恋焦がれる「彼女」は、もう一度「彼」に会えないかと、思考を巡らせた。

「彼」は狩猟に出ているのだから、獲物が豊富な場所に行けば「彼」に会えるかもしれない。

しかし、待ち伏せをしていても、会えるとは限らない。

そこで「彼女」は、採集に行く先々に「彼」に向けたメッセージを残した。

自分達が交換した「獣」の骨と「果物」の種を一緒に置き、そこにいた事を知らせようとしたのだ。

もし、運よく獣に荒らされる前に「彼」が見つけてくれれば、意味に気付いてくれれば、「彼」が「彼女」に会いに来てくれるかもしれない。

そう考えたのだ。

後日、メッセージに気付いた「彼」が、同じ森に一人現れ、二人は再会する事が出来た。

情報の外部化、その始まり

こう言った事が実際にあったかどうか、それは分からない。

こうした「必要」に迫られる事で、原初の人は、原始的な「言葉」や「文字」を生み出し始めたと言う、勝手な想像の一例である。

この「自分達で作り出した物」に「意味を付与」し「共通の認識」とする事は、人類を発展させる上で欠かせない物だった。

言葉しかり、文字しかり、宗教しかり、貨幣制度しかり。

複数の人が「これは、こう言う意味」と、認識を共有する事で、人は大きな集団となる事が出来たのだ。

この事は、サピエンス全史に詳しく解説されているが、情報を保存する領域を「脳」から「外部」に拡張した事は、人類にとって最も原始的で、最も大きな発明だった。

冒頭の例は「恋人達」と言う閉ざされた集団を例に挙げたが、人は発展の過程で、これを家族や友人、集落と言った具合に適応する範囲を広げていった。

個人の「名前」と言うのは、最も原始的な「共通認識化」だろう。

便利な物は、自然と広がっていく。

名前を付ける事に反対する様な状況は、中々無いだろう。

だが、どんなに便利でも、すぐに広がるとは限らない。

「名付け」と言うレベルであれば、誰でも出来る。

だが、その先に行くと、抵抗が出て来る。

人は、難しい事に拒否感を示すのだ。

最初の既得権者の抵抗

言葉が出来た。

まだ体系化などされていない。

言葉と言う発明によって、人は知識を口伝する事が出来る様になった。

日々を生きる上での知恵、家族の歴史、そして教訓を秘めた神話や昔話等の物語だ。

言葉は長い年月の間に研ぎ澄まされ、多くの言葉を知り、知恵を持つ人は長老として頼られたり、賢者やシャーマンとして尊敬を集めた。

その内、簡単な記号から文字が開発される。

紀元前7000年よりも、もっと昔の話だ。

文字の利便性や可能性に気付いた人は、あらゆる物を文字として記録したいと考え始めた。

そして、衝突が起きるのだ。

多くの言葉を知り、知恵を持つ人達から、反発を受けるのだ。

最初期の賢者は、生まれたばかりの文字に拒否感を示し、頭の中の知識を出し渋り、口伝で継承する事の意味を解いただろう。

結果、文字で全ての知恵を保存したいと言う願いは、長きにわたって達成されない。

それは、文字が発明として、まだ未熟だから受けた、当然の抵抗であった。

最初期の文字は、音も意味も網羅されず、読めて書ける人も限られる。

文字は、一般化される必要があった。

最初の既得権者の敗北

長い年月の中で、文字は言葉の様に体系化され、研ぎ澄まされていった。

音も意味も、ほとんど網羅し、新しい物を容易に追加も出来る。

読める人は増え、書ける人もかなり増えて来た。

その時になると、口伝にこだわっていた人達は、力を失っていた。

その人達が口で伝える教えよりも、文字に乗って、書として広まる教えの方が、遥かに早く、広く、確実に人々に浸透する様になっていたからだ。

異変に気付けた口伝主義者は、教えを文字に乗せ、一部が生き残ったが、大半は時代の変化についていけなかった。

パターンを繰り返す世界

口伝主義者が古い時代の物に変わり、文字による知識の保存が主役に取って代わった。

すると、文字に書かれた知識を多く持つ事に価値が出始め、次の争いが起きた。

文字を残す為の土台だ。

最初のハードの規格戦争である。

地面に木の枝や指で書いても、それはすぐに消えてしまう。

動物の骨や木の皮、葉に書き始めるが、それらは長くは持たない。

そこで、粘土板や石板に書く事を編み出す。

これなら長期保存が出来る。

しかし、これらは「重い」と言う不便を抱えていた。

やがて木の板に書く方向へとシフトする人も現れる。

木の板であれば、粘土板や石に比べれば遥かに「軽い」。

「重い」より「軽い」方が素晴らしいと考え、人々は長い年月の中で改良を加えて行った訳だ。

長期保存派は石こそ至高と言い、利便性派は木の板で事足りると言う。

やがて、石板はすたれて行く。

利便性の前には、勝てなかったのだろう。

次に、文字を書く上でも長年の「彫る」と言う常識を「塗る」と言う新たな常識が、素材の観点からも勝利したりもした。

塗る素材も、植物性や鉱物性の顔料から、墨や木炭が安定して手に入り、書きやすいと定着化していく。

その間に、何度も既得権と新しい発明、発想、技術との間で争いが起き、同じ様に最後には利便性が勝ち続けて来た。

紀元前2世紀頃には、羊皮紙が登場し、以後1500年近くも羊皮紙が一般的であり続けた。

その中で巻物から冊子に、さらに現代の本の形に変わり、やがて羊皮紙から、木から作られた紙にシフトする時にも同じ事が起きた。

発明された道具が、より洗練され、効率化するまでは、既得権を持つ人達が抵抗し、抵抗していた人達のもっともな言い分よりも、発明品の利便性や一般性が増すまで、その争いが続いていく。

そして、既得権の人々は敗北するが、古い技術の「機能」は変わらずに残り続ける。

文字が出来ても、言葉は無くならなかった。

石板、木板、羊皮紙は使われなくなっても、今も紙が、それらで必要としていた機能を継承している。

パターンは同じだが、速度が違う

本を多く持つ者が、富と知識を多く所有できる時代があった。

その原因は、2つ。

本の製造方法と、本の価格にあった。

初期の本は、基本的に手書きの一点物で、複製するには写本するしか無かった。

故に、今と比べ物にならない程に本は高価な物だったのだ。

つまり、高い本は金持ちしか持てなかった。

本から得た知識で、金持ちは更に金を増やすと言う、閉じたサイクルが出来ていた時代だ。

それを過去の物としたのは、8世紀ごろの中国で発明された活版印刷の登場である。

その頃、既に文字は完成していた。

印鑑や木版画も、普通にあった。

文字をスタンプの様にして、版画の様に印刷してしまえば良いと、気付いた人がいたのだ。

既にある技術を別の物に転用すると言う、このアイディアは、急激に本の価値を下げた。

15世紀にヨーロッパでも発明されると、漢字に比べてアルファベットはパターンが少なくて済むと言う利点によって、中国以上に猛威を振るう。

やがて、機械化した活版印刷技術によって、紙への印字は半自動化されるに至った。

この革命は、紙不足を引き起こす程の衝撃だった。

本が安くなり、数も増えると、それは一般化していった。

これらの革命で、初期の革命と大きく違うのは、一般化までの速度だ。

例えば、紙は中国で紀元前150年には発明されていたが、一般化して羊皮紙を駆逐するまでに1500~1600年かかっている事になる。

だが、活版印刷が写本の需要を奪うには、漢字と言うハンデのある中国でも数百年だし、ヨーロッパでは、ほんの数十年レベルの事だろう。

既にある技術と言う物に、人類の文化自体にストックが生まれ、素早く転用できる事で、技術の成熟を以前ほど長く待たずに、素早く一般化まで持っていけるようになっていた。

つまり、時代が進むごとに、既得権が古いものとされて発明が一般化する速度が、急速に速まっていると言う事になるのだ。

この流れは、更に速まっていく。

デジタルの登場

口伝は情報の長期保存に向かないなんて事が常識になって数千年。

文字が開発されると、それを保存する物や、文字の書き込み方が革命によって様変わりしていったのは過去の事。

紙と印刷で、素早く大量に、安価で文字を保存出来るようになると、出版社や新聞社が力を持つ時代が到来した。

その裏側、誰もが関係無いと考えていた所で、コンピューターが産声を上げる。

1900年代の事だ。

そろばんが、およそ紀元前2000年ごろに生まれて以来、自動計算器の登場までに3800~3900年程度かかった事になる。

デジタルの概念は、それぐらい大半の人類には難しい事だったのだろう。

コンピューターが登場した当初は、部屋を埋め尽くす巨大な装置で、最初は高度な計算機と言った立ち位置だった。

ファックスの登場が1800年代、電話の登場が1850年代前後、無線通信、ラジオ、テレビが1900年代と言う事を考えると、ここら辺の登場時期は、似たようなものだ。

だがファックス、電話、無線、ラジオ、テレビと、一般化にはそれぞれにバラバラの時間がかかっている。

多くの人には、ファックスよりも電話の方が馴染みが深いだろう。

ちなみに、人工衛星の打ち上げ時期は1957年なので、18世紀の産業革命以降の時代の流れの速さは、それ以前とは比べ物にならない事が良く分かる。

急速な文明の発展で、時代の最先端として生み出されたコンピューターは、1969年のインターネットの獲得以降、周辺領域から静かに「機能」を取り込み始めた。

パーソナルコンピューターが1970年代に登場し、一般化を開始し、徐々に人々は、その利便性に気付き始める。

近代の争いでも、パターンは同じ

1980年代にはノートパソコンが登場し始め、機能は上がり、値段は下がっていったが、ラックトップが無くなる事は当分無さそうだ。

ウィンドウズ95以降、一気に一般化が進むと、文字を保存する物と書き込む物として、コンピューターは現実的で一般的な物と認識される様になる。

17世紀に登場し、進化を続けていたカメラは、1994年にはデジタルカメラが一般的になり、デジタルに足を踏み入れた。

紀元前に、既に生まれていた劇は、20世紀に登場した映画によって表現の形を変え、情報の外部記録化が可能になりつつも、それぞれ別の道を歩んでいる。

19世紀に生まれたレコードは、テープやCDの登場によって、石板から羊皮紙を経て紙に変わる様に機能だけを後継に残して、マニア用の物として残っている。

ビデオテープはVHSとベータと言う規格競争を行ったが、電線網の交流と直流の争いと大差なく、より一般化した方が勝利を収めた。

この一般化の壁として、先行者優位が大いに働く。

だが、先行者が必ずしも成功する訳でもない。

提供する側と受け取る側、双方に大きな利便性が無ければ、変革は定着しないのだ。

ここで言う利便性とは、「便利」と言うだけでなく「簡単」や「単純」や「安価」と言う意味合いも含まれる。

タブレットはiPhoneが出るまではマニアのアイテムだったし、AR、VR、3D等も、まだハードルが少し高く、時間がかかる領域だろう。

現代の争い

パターン自体は何も変わらない。

しかし変化の速度は、これから先も、まだまだ上がっていく。

通信網が整い、回線速度が上がり、世界は僅かな間に近くなった。

そして、インターネットとスマートフォンの一般化によって、機能の集約が起き始めている。

持ち運びできる端末が一つあれば、コンピューターもカメラもビデオも音楽再生も出来る。

手紙の代わりにメールやチャットをし、ラジオやテレビも見れ、財布にまでなってしまう。

この急速な時代の変化に、大きな組織ほど柔軟について行くのは難しい。

出版社は電子書籍の登場で揺れ、映画会社も定額配信に動揺し、音楽業界もデジタル配信で痛い目を見た。

だが、それだけで潰れる訳ではない。

時代の変化に抵抗を続けるから、潰れてしまうのだ。

パターンがある事は、皆わかっている。

意識していなくとも、気付いているのだ。

生き残るパターンに合わせ、既得権の独占を諦め、柔軟に時代に合わせて組織が変化すれば、十分にやっていける。

既得権を独占できなくても、得意な領域の優位性に変わりは無いからだ。

変化に痛みを伴う事にも気付いているので、二の足を踏んでいるだけなのだ。

ここ数年で、ユーチューバーが一般化し、テレビ局でなければならないと言うコンテンツも減ってきている為、テレビ自体もあり方の再定義を迫られる時が来るだろう。

その原因となった「インターネットで個人がテレビ番組を持つ」と言うアイディアは、コンテンツが増えるまでは、誰も良さに気付けなかった。

一般化には、コンテンツを提供する側の先駆者が必要と言う事である。

そこで良く語られるのが、アダルトな、性的コンテンツが一般化に一役買うと言う事である。

ビデオはポルノによって一般化し、パソコンもエロゲーやエロサイトで一般化した所がある。

だが、強力なコンテンツがあれば、アダルトに走る必要は無い。

テレビはオリンピックで普及したし、ゲーム機はローンチタイトルで一気に普及させる戦法が一般的だし、要はコンテンツ力があれば何でも良い。

所属する時代と個人の時代

今までは、所属をする事で優位になる時代だった。

今も、コミュニティに所属する事は重要である。

だが、コンテンツを作る上で、所属しなければ発表や提供が出来ない時代に関しては終わりを迎えつつある。

ポッドキャストや電子書籍でも、ウェブサイトやブログ、SNSの様に、個人が情報を発信しやすい時代が今である。

漫画、イラスト、小説等の投稿サイトもそうだし、steamでゲームも作って売る事も出来る。

プラットフォームを利用すれば、個人でもコンテンツ発信が出来るのだ。

一昔前なら、特定の団体に入らなければ商売にならない何て事はザラだった。

そこに選択肢は、あるようでない時代だったのだ。

しかし、今は団体を個人が選べる時代である。

流れを後押しするかの様に、ファンコミュニティ、パトロン制度、クラウドファンディング、インターネットサロン等、新しい物はドンドン一般化していく。

その際、時代の流れを見極め、勝ちそうなパターンに乗るのが、かなり重要となる。

古いパターンにしがみつくと、思わぬ痛い思いをする事も多い。

AIの発達で、医者、弁護士、税理士等、一昔前の花形職業は必要とする数が減ったし、抜け出せない長期の不景気の影響もあって銀行が大規模なリストラをしたなんてニュースもある。

勤め先が銀行なんて、仕事が医者や弁護士や税理士なんて、私が子供の頃なら手堅いか、勝ち組に思えたものだが、時代は変化し続け、テレビや新聞、あるいはインターネットで見る様なニュースは、確実に現実に影響を与える何かがあった事の、事後報告なのだ。

もし、勝てるパターンや危険なパターンが見えたら、その時は、早く行動を起こさないと、手遅れになってしまうかもしれない。

時代の流れは、これからも早くなり続けるのだから。

スポンサーリンク

“コラム物語論「世界は、パターンで出来ている」” への3件の返信

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。