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プペった
「映画 えんとつ町のプペル」とは?
芸人で絵本作家でインフルエンサーの西野亮廣さんが制作した、絵本を原作としたCGアニメ映画である。
作者について詳しくは、にしの あきひろ年表を参照されたし。
それでは、以下感想をば。
映画 えんとつ町のプペル
<内容>
信じて、信じて、世界を変えろ。厚い煙に覆われた“えんとつ町”。煙の向こうに“星”があるなんて誰も想像すらしなかった。一年前、この町でただ一人、紙芝居に託して“星”を語っていたブルーノが突然消えてしまい、人々は海の怪物に食べられてしまったと噂した。ブルーノの息子・ルビッチは、学校を辞めてえんとつ掃除屋として家計を助ける。しかしその後も父の教えを守り“星”を信じ続けていたルビッチは町のみんなに嘘つきと後ろ指をさされ、ひとりぼっちになってしまう。そしてハロウィンの夜、彼の前に奇跡が起きた。ゴミから生まれたゴミ人間・プペルが現れ、のけもの同士、二人は友達となる。そんなある日、巨大なゴミの怪物が海から浮かび上がる。それは父の紙芝居に出てきた、閉ざされたこの世界には存在しないはずの“船”だった。
客観的な世間の評価は、こう見えた
西野亮廣さん自身が味方と同時に敵も多い為、映画公開時のイメージは何とも言えない空気に包まれていた。
敵でも味方でもない立場からすると、客観的には必死に擁護しようとする味方と、面白半分でけなす敵に大半が二分された状態で情報が出回っていたイメージ。
ただ、絵本版に関しては総評では概ね好意的だった中立の人が多いイメージだったが、映画版に関しては中立の人も酷評が多く、アンチの人はとても楽しそうだった。
メディアの評価は、こう見えた
一方で、メディアは映画賞候補に入れたり、宣伝したり、流れる映像は好意的。
なのだが、世間の評価が見える状態での情報操作に見え、映画賞の候補に入った事などは「本当に?」と見え、胡散臭さに拍車がかかっていた。
実際に見た感想は?
まず、私は絵本版を見て、分業の面白さや圧倒的な情報量の多さ、そして絵本的な物語としてのまとまりから、好意的な印象を少なからず持っている。
絵本版に関しては、今でもそうだ。
その上で映画版だが、第一印象は、まず「映像は凄い」だった。
魔法少女隊アルスを100分にした様な映像は、個人的には受け入れられる物である。
また、見ていく中で感じたのは「異様にエンタメを意識している」だった。
ミュージカル演出、ゲーム的横スクロール演出、1人称視点でのジェットコースター演出、等々とにかく視覚的な訴え掛けが強く、その点では気合が入っているし、一定の成功もしている。
映画のストーリーは深く考えず、遊園地のライドに乗りに来た様な人からすると、それなりに面白いと感じるのは理解出来た。
問題は、物語部分である。
ストーリーがキメラってる
この話は「プペルがルビッチと出会い、父の死から止まっていたルビッチの時間を再び、父の魂が宿ったプペルが前に進ませる物語」です。
絵本公開ページリンク:https://r25.jp/article/581356883170827173
ラピュタ到達までの「天空の城ラピュタ」的な話で、死んだ父の追った夢を息子が追い、叶える事でその先に進める様な物語で、オチとしては、シータの立場であるプペルが父親の魂が宿った存在だとルビッチが気付くと言う物で、言うなれば「死んだ父親の魂が宿った友人による、遺され前に進めなかった息子の、再生の物語」であり、だからこそ物語的な感動がクライマックスで起きます。
所が、映画版では追加要素が多々あり、その色が「プペルがルビッチと出会い、父の死から止まっていたルビッチの時間を再び、父の魂が宿ったプペルが前に進ませる物語」とは短い尺だと融合が難しい物や、エンタメ性優先の物、西野亮廣さんの絵本作家よりも自己啓発本の顔が強い物と、とにかく綺麗に一つになっておらず、と言ってバラバラでも無い一見繋がって見える状態なので、一部パズルの絵柄が違うけど形が似ているから無理やり完成させられたパズルみたいな違和感が凄い。
なので、物語作品として見ると、評価は大きく落ちる事になると言う状態になっている。
物語が前に進まないシーンが多く、退屈
エンタメ性に特化しようとしたせいで、本作はアクションシーンや特徴的な会話シーン等、物語を前に進める為なら不必要な見せ場が非常に多い。
これはジェットコースターで言えば上昇や下降をしているシーンなのだが、単調な上昇や下降がずっと続くジェットコースターは長いと慣れて面白く無くなっていく。
本作ではもっと小まめで先が読めないとか、対応が難しい感情の上下が必要だった。
テーマがおかしい上に説教臭い
ストーリーがキメラになっている事で、テーマがブレ、物語が最終的に視聴者に伝えたいメッセージ性が、なにかおかしな事になっている。
夢を否定して現状の維持を求める管理者側と、夢を肯定して現状を変えようと足掻く個人による対決とか、メッセージ性モリモリで、全員集合とか全面対決とか助けに来る仲間とか一見盛り上がりそうなシーンが多数追加されているが、刺さらない。
西野亮廣さんは、ディズニーを超える事を目標に掲げ、一見すると実現が不可能に見える夢に対して一歩を積み重ねて前に進んでいる人だ。
劇中で語られる、夢の否定と肯定の争いは、そんな西野亮廣さん自身を描いている様に見えてならない。
しかし、現実の西野亮廣さんの
「(誰にも実現が難しいと分かる前提で)実現が難しい夢を語って笑われるが、実現して正しさを証明する」と言う状況と、
「(視聴者には明らかに星がある前提で)みんなが星が無いと言うが、本当はあるのでみんなに星を見せる」と言う状況は、
全く違う物だ。
町の人達が星=夢を否定している事が作品として都合が良い様に頭を悪くされて見える気持ち悪さもある。
絵本版では、周囲への証明ではなく、プペルとルビッチで「星の見えない町で、星を見に行きたいと言う夢を叶える」状況で、テーマはマッチしていた。
周囲の馬鹿さは、絵本時空だからスルー出来た所だったが、アニメ映画となった途端「特殊な社会」を描いてしまった事と「みんなにも見せないといけない」で、急に嘘くさく見えているのも痛い。
なのに、西野亮廣さんが作品を通して強く伝えたいメッセージであろう事で、セリフによって何度も訴え掛けられるので、説教臭く感じてしまう。
「ディズニー超えるって言って、みんな笑ったけど、アニメ映画作るまでになったよ。まだ笑える?」と本来は言いたい筈だったのに、肝心のロジックが破綻していると言うか、注目して膨らませる要素の選択を間違ってしまった感じだろう。
もしくは、絵本時点では、偶然テーマが一致して良い感じになっていたのかもしれない。
終わりに
総評。
プペルは、クリエイターとしての挑戦的な意欲とか、訴えたいメッセージは感じられるが、作品の出来としては今一つであった。
絵本版のテーマそのままに話を広げれば、面白い御伽噺映画として成立した事は十分想像出来るので、勿体無いと言うのが感想である。
「プペルがルビッチと出会い、父の死から止まっていたルビッチの時間を再び、父の魂が宿ったプペルが前に進ませる物語」のままなら、原作絵本ファンもニッコリの作品になったと思われる。
仮に映画版の追加要素を前面に出す場合は、プペル以外でやるか、設定や展開に大胆な改変が必要だっただろう。
個人的には、自己実現を前面に出すより、自己犠牲を前面に出した方が感動出来るタイプの作品だと感じたので、その辺もやりたい事とやるべき事のミスマッチが起きた原因かなぁ、と。
絵本ではプペルの「ルビッチの為に自己犠牲しちゃう」に「感動!」で、
映画だとルビッチの「僕が正しいのを証明する」に、上記の理由で「で?」になる感じ。
と言うか恐ろしいのが、この記事を執筆時、既に映画の内容を忘れかけている事よな。



