コラム

【話の種】「こうあるべき」「こうありたい」「実際どうか」等の話

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どうあるべき?

アンガーマネジメントでは「こうあるべき」と言う思い込みを変える事が役立つらしい。

すぐに怒る人は「こうあるべき」と言う範囲が怒らない人より狭く、そこから外れる事が大きなストレスとなり、怒る事で範囲内に収めさせようとすると言う。

つまり「こうあるべき」と言う主観的な範囲を、現実で他の人が外れる事が無いぐらい大きく持てば、ストレスはかからずに、怒らないで済む。

べき事

例えば、PCの電源。

電気を使っていない時に消すか、つけっぱなしにするか。

私の場合、デスクトップPCは家から出ないなら電源は付けっぱなしである。

家で過ごす殆どの時がデスクトップPCの周囲にいるので、その方が便利だからだ。

「こうあるべき」が狭い人は、デスクトップPCの電源を更新が入るまでは付けっぱなし以外は許せないか、部屋を出る時でも小まめに消して欲しいと感じるか、と言った両極端な感覚と言える。

私の状況では、家にいるのに電源が落ちたりするとストレスだし、家を出るのに付けっぱなしもストレスとなる。

常時つけっぱの人からすると、常時つけっぱが崩されるのがストレスで、都度切り替える人からすると常時つけっぱがストレスとなるだろう。

PCの寿命の増減等を考えると正解はあるが、どの流派を選ぶのもPCの電源程度なら何でも構わない。

どうありたいか?

一方で、選択的な「こうあるべき」は自分で尺度も変えられるし、ストレスとも付き合えるし、どれを選んでも他人に迷惑がかからなければ良い。

だが、これが環境から与えられた「こうあるべき」と「自分はどうありたいか」と「実際はどうか」が一致しない状況になると、話は変わって来る。

自分としては「どうありたいか」が一番重要だ。

だが、社会の「こうあるべき」から、妥協も時に必要となる。

どうありたいと、こうあるべきが一致してないなら、両者が許す形のどこかに落としどころを見出さないとならない。

しかし「実際はどうか」は、「こうあるべき」にも「自分はどうありたいか」にも自動で引っ張られる事が無く、そこに行くには意識的な調節が必要で、それは「実際はどうか」の扱いの上手さで変わって来る。

社会は「礼儀正しくあるべき」と考え「自分も礼儀正しくありたい」と思っていても「実際には礼儀正しくない」なんて事もあり得る。

礼儀を正しくするには、必要な礼儀を学ぶ必要があり、それが伴わない限りは礼儀正しくする事に限界があるからだ。

「実際」の厄介さ

例えば、社会は「金持ちこそ正しい」とし、個人も「金持ちこそ正しいし、そうなりたい」と考えるが、実際は「金持ちでは無い」なんて人は、沢山いるどころか、殆どがそうだ。

べき事を実際に満たすには、努力と運が必要になる物が多い。

だからこそ「こうあるべき」と言う自分の思い込みの方をズラしたり広げて、正しく出来ない事を受け入れた方が楽に怒りを減らせるわけだ。

しかし「こうあるべき」は個人が考える物以外に社会が考える物があり、それは曖昧だが明らかに指向性があり、具体的に「こうあるべき」を提示してくる。

そうなると、考え方を変えて「こうあるべき」の幅を広げるのにも限界があり、人は「実際」を満たさないと過剰なストレスを抱える事となる。

これが社会的に「こうあるべき」と言う指標だけなら「満たせませんでした」で済むかもしれないが、社会には「こうあるべき」で椅子取りゲームや奪い合いが日常的に起きる。

受験や就職では「こうあるべき」を満たせる人の方が少なく、多くの人が妥協の末の「これでも良い(中には良くないのもある)」を受け入れている。

実際を満たすのが難しくなった時

「こうあるべき」「こうありたい」をどんなに大きく保っても、それには限界がある。

実際を満たす事が難しくなると、それが不可逆的な事だと、もう取り戻せなくなってしまう。

妥協に妥協を重ねた末の、限界まで引っ張り広げた「こうあるべき」や「こうありたい」でさえ満たせない現実に置かれれば、実際は価値ある、もう持っている物が沢山あっても、他に「こうあるべき」「こうありたい」が実はあるとしても、受け入れた妥協が見える「それ」がトータルで魅力的で無いなら、常時多大なストレスが心身を襲う事になる。

お気に入りの服に鳥の糞がついた時、それも、死ぬほど沢山ついてしまった時、その服の汚れを気にせずに着続ける事がどれぐらいの人に出来るだろうか。

汚れた部分を切り捨てて、綺麗な所だけ大事にする事も出来る。

だが、切り捨てた汚い部分は、消え去るわけではない。

痕が残るとしても汚い部分を洗って漂白して同じ汚れがつかない様に気をつけて着続けるのが、大抵は求められる。

切り捨てても、洗っても、気分がスッキリする事は無い。

そんな服で人前に、以前の様に出られるだろうか。

きっと勇気がいるだろう。

みんな実は、似た様な物だとしても、白くて綺麗な服を着た人に目が行ってしまうのは仕方がない。

そんな気分で、今更「こうあるべき」「こうありたい」も分からなかくなって「実際」を満たす事も難しそうな時、どうすれば良いのだろうか。

強い心の支えか、タイムリミットか

人は、ストレスに耐えるには、ストレスに耐えるに足る心の支えが必要だ。

それが幾つもあれば心強いし、強い一つが依存状態でも良いので支えとして足るのであれば何でも耐えられる。

ストレスに耐えるだけのつっかえ棒でもシェルターでも、そう言う物を出来るだけ沢山、少なくとも一つ持った方が、ストレス耐性が出来るだろう。

支えの弱点は、支えが折れると一気に弱くなる事だ。

支えが一つしかない場合は、それが折れたら後が無い。

もう一つは、タイムリミットの意識だ。

これは支えが無くても、一定時間だけ耐える力を与えてくれる。

例えば、金曜日の仕事がどんなにきつくても、あと数時間で花金とか、明日は土曜で休めると考えると短時間だけ心の支えとなる。

タイムリミットの問題は、支え切った後に報いが無ければ、それ以上は耐えられないと言う事だ。

これは、乗り切る為に使えれば良いが、限界へのカウントダウンとしても使えてしまう点で注意が必要だ。

ストレスを溜めていたカップからストレスが表面張力を乗り越えて溢れてくるまでしか使えない。

そうなると、人は壊れてしまう。

周囲の「これでも良い」と言う救済

「こうあるべき」「こうありたい」「実際はこうだ」は、戦い理想を目指す意味では立ち向かうべきだ。

だが、限界まで引っ張って限界まで妥協した状態では、もはや理想を目指して戦う立ち位置とは言えない。

この状態では、疲れ果て、戦える状態にも無いだろう。

その状態でも戦わせる事は、あまりにも酷だ。

その時に救いになるのが、周囲から提示される「これでも良い」と言う、あるがままを受け入れる姿勢だ。

あるがままを受け入れる事で、人は「こうあるべき」「こうありたい」と「実際」を切り離し、一度ニュートラルな状態で救われる可能性がある。

「これでは良くない」が「どうしようもない」と言うジレンマ

「これでも良い」と言える様な転落ばかりではない。

中には「これで良い筈が無い」と言う状態に落ちる人もある。

そうなると「これでも良い」と理想から切り離して救う事が難しくなってしまう。

だが、これは「これでも良い」と言える立場の人が一人でもいれば、そこからアプローチする事が出来る。

問題は、当人が言って欲しい「これでも良い」と言える立場の人が一人もいない状態で、「これでは良くない」と言う状態になってしまうパターンだ。

一番怖いのは、その状態での孤立だろう。

物事が上手く行っていない時ほど、「これでも良い」と言って欲しい人とは、距離が出来たり、関係が壊れる事も多い。

そうなると、どん詰まりに陥ってしまう。

ここまで来ると、そもそもが「こうありたい」「こうあるべき」を既に諦めているので、その状態のどうしようもない状態は、更に事態を悪化させる可能性すらある。

それでも「これでも良い」と、一旦出来るか否か

どうしようもなくても「こうあるべき」「こうありたい」を一度切り離し、その状態から仕切り直す余地を与える事は、難しいが、きっと出来るだろう。

高負荷のストレス状態から解放されれば、客観的な状況判断が可能になる余地が新たに生まれる。

問題は、仕切り直しは可能だが、時間はかかるし、様々な事と向き合う必要もあるし、根気もいる。

だが、「これでも良い」と受け入れてくれる人がいる状態は、「こうあるべき」「こうありたい」で傷だらけになった人には、「これでは良くない」事に気付かせ、それも含めて仕切り直そうと思えるだけの余裕を与える事が出来る。

必要なのは、自分ではどうしようもないなら、誰かに与えて貰う「余裕」だ。

誰かに「余裕」を与えられれば、人はしぶとく再起をはかれる。

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