コラム

許容すべき「不快」と「実害」についての考察

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人は、どこまで我慢すべき?

第二次トランプ政権発足で流れが変わった物の、世界は多様性を認めポリコレを推進しあらゆる物を許容する様に強制する流れに長らくあった。

全体主義から個人主義へとインターネットの登場等もあって加速度的にシフトした事で、誰もが極端に自由になった。

からこその「全員が主人公や主役でいられる社会」を目指したわけだ。

だが、その行きついた先はマイノリティの許容を強制しようとした結果、間違った手段まで横行して生まれた地獄と言えた。

その揺り戻しがトランプ大統領の再当選によって可視化された部分がある。

まず、多様性やポリコレ、他に、表現の自由等と言った「ある条件下にある物の全てを肯定する」と言う類の物は、セットで必ず「誰かが望まない物も肯定される」と言う弊害を生む。

つまり、全員が主人公や主役でいられる社会と言うのは、それが現実に近付けば近付くだけ、間違った方法で推進しなくても、周囲に「お前は主人公でも主役でも無いだろう」と誰かが感じてしまう存在が発生する状況が生まれる、と言う厄介な性質を持つ。

そして、それは大抵の場合は不愉快であるだけで済むが、時に「全てを肯定する事で発生する害悪」もセットで発生し、それは「ある条件下にある物の全てを肯定する」を推進していくと、その条件設定が甘かった事を突き付けるジレンマとなる事がある。

だが、全てを肯定するには、それさえも許容しなければ、前提が崩れて大きな揺り戻しが発生する懸念が生まれる。

同時に、それを肯定してしまうと、発生した不快や害悪に環境が耐えられなくなる危険も発生してしまう。

では、人は、どこまで不快や実害を許容すべきなのだろうか?

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