目次
笑ってもらうために愚かを演じる時の作法
人を笑わせるために、
- ボケる
- わざと失敗する
- 変な事を言う
- わざと恥をかく
- あえて過剰反応する
- ズレた行動をする
等という表現は昔から存在する。
その際「本当に馬鹿な人」と、「笑わせるために馬鹿を演じている人」は、外見だけでは、その一瞬を切り取ると、かなり似る。
そして、わざと笑わせに行く際、加減やタイミングを間違えると、
- 寒い
- 痛い
- 不快
- 危険
- 空気悪っ!
となる。
つまり、周囲の為にあえて「愚か者を演じる」のは、技術がいる。
「笑われる」と「笑ってもらう」は違う
例えば、
- 転ぶ
- 失敗する
- 勘違いする
- 空回りする
これだけなら、単なる事故でも成立する。
だが、わざとやり、それを笑ってもらうには、条件がある。
見る人、あるいは観客が、「この人は場を成立させるためにやっている」と認識できる必要がある。
つまり、一定の「制御感」が必要となってくる。
完全に制御不能に見えると、制御感が見えてくるまでは、笑いより不安が勝つ人が出てくる。
人の失敗は、笑っていい時と悪い時があるからだ。
本当に危険だと笑えない
例えば、
- 本当に怪我してる
- 本当に精神状態が危うい
- 本当に怒っている
- 本当に迷惑
- 本当に犯罪
等になると、空気が凍る。
笑いには、「安全」が必要不可欠だ。
観客は無意識に、「これは演出範囲か?」を確認している。
時に、演出範囲内でも事故で危険となる事もあるが、基本は危険では無いか、受け入れられる危険の範囲内だ。
だから芸人なら、危険そうに見えても、どこかに、
- リズム
- 誇張
- 間
- 記号性
等を入れる。
完全リアルにしすぎない。
仮に事故で危険と肉薄しても、その危険を芸人が受け入れ可能なら「なんちゃって」と演出の一部にアドリブで入れ込む事さえ出来る。
「自分を下げる」は扱いが難しい
笑いでは、自虐がよく使われる。
ただし、これも制御を誤ると重くなる。
例えば、
- 本気の自己否定
- 生々しい貧困や障害
- 本物の孤独
- 未処理のトラウマ
等は、観客が処理困難になる可能性が極めて高い。
笑いに必要なのは、少し距離がある不幸である必要がある。
その距離が、安全圏だ。
つまり、「本人がまだ立っているし、まだ平気か、既に平気」な必要がある。
完全に潰れている人を見ると、人は笑うに笑えない。
「空気の破壊量」を読む
愚かな行動には、場を壊す力がある。
だから重要なのは、どこまで壊すかになってくる。
例えば、
- 少しズラす → 面白い
- 大きくズラす → 混沌
になる。
初心者ほど、強くやるほど面白いと思いやすい。
いや、実際に大きい方が面白い場面はある。
だが実際は、微妙なズレの方が、場合によっては高度だったりする。
例えば、
- 一言だけで分かる違和感
- 少しだけタイミングがおかしい
- 微妙に論理がズレる
だけで笑いになる場合も多く、その蓄積で笑いに持っていくには、テクニックが必要になる。
テーマや方向性を合わせて、間違い続け、重ね続ける必要が出てくるからだ。
「周囲を安心させる能力」が必要
面白い人ほど、実は周囲への安全管理をしている。
例えば、
- 後処理が早い
- 空気修復ができる
- ツッコミを待てる
- 引き際を知っている
- 相手の限界を見極められる
- 相手を選べている
- 基本は礼儀正しかったり、善人に見える
など。
つまり、馬鹿をやる能力よりも、事故を防ぐ能力の方が、やる人によっては重要となってくる。
ここが無いと、ただの暴走になる。
エガちゃんが聖人認定後にファンが爆増したのを見れば、世代の人なら分かるだろう。
「自分だけが面白い状態」は危険
愚かな行動をすると、本人はテンションが上がる事がある。
だが、
- 内輪だけ理解
- 文脈共有不足
- 長すぎる
- 同じネタの連打
- 五月蠅い承認欲求モンスター化
などすると、観客との温度差が出る。
ここで怖いのは、本人だけが気持ち良くなって、止まれなくなる事。
幼い子供が、周囲が冷めてるのに「うんこ、ちんちん」を連呼し続けて一人で笑っている様な状況に近い事を、大人も油断するとやってしまう人は、いる。
笑いは共同作業なので、観客側の反応が死ぬと、笑いとしては死ぬ。
そして、笑いの方向のままリカバリーするには、自分が滑り散らかしている事を受け入れ、その状況からのリカバリーが可能なカードを持っていないなら、謝罪して仕切り直した方がまだ面白い。
「弄り」と「攻撃」は紙一重
愚かな言動は、しばしば他人を巻き込む。
だが、ここは予想外の事故が起きやすい。
例えば、
- 強すぎる弄り
- 恥をかかせる
- 強制参加
- しつこいネタ化
- 自分は優しい・公平なつもりが、差別的に受け取られる
など。
笑いでは、「攻撃性を、笑いとして処理できる範囲」の見極めが重要だ。
場に形成されている空気への読み、相手の反応への読み、そう言う物で推理を積み重ねつつ、巻き込まれた人も笑える様な「わざと愚かな事をするが、あなたを尊重もしています」が伝わる様な態度を取れなければ、炎上リスクもある。
他人を使って笑いを作るのが得意と豪語する人には、腕の見せどころだ。
巻き込む他人を馬鹿にし、笑い者にして笑いを起こしているのであれば、笑えない人が相当量発生しているであろう事が予想出来て、笑いとしては下の下である。
ただし、権力者相手の権力に立てつく為の皮肉な笑いであれば、他人の本当に愚かな行動をリスク承知で笑いに変えているのであれば、笑いとしては良い物かもしれないが、別の危険性が生まれるリスクが発生する。
「本当に愚かな人」に見え始める問題
一定の人は、繰り返し見るものを、本性だと思い始める事がある。
つまり、
- ずっとボケ役
- ずっと失敗役
- ずっと道化役
をやると、本当に軽く扱われ始める事があるのだ。
映画で悪役を演じたら、現実でも嫌われる様な感じだ。
これは芸人や配信者でも、よく起きる。
一種のキャラクターとして、フィクションとの境界が曖昧に消費され始めているわけだ。
だから、それを避けるには、演じている、と分かる知性や制御感を、どこかで見せる必要がある。
「恥を引き受ける能力」
笑いには、少しの恥が必要だ。
- 外す
- 滑る
- 空回りする
- 変な空気になる
素でやってしまう、そんな可能性が常にある。
だから、「絶対に傷つきたくない」状態だと、愚かな演技は難しい。
一方で、無防備すぎても、心が壊れる。
つまり必要なのは、多少の恥を制御付きで引き受ける能力になる。
素の恥も、笑いに変える様な貪欲さに変換すれば、失敗は美味しい。
本当に上手い人は、「馬鹿」を知性で包む
上手い人ほど、
- 空気への理解
- 距離感
- タイミング
- 安全管理
- 自制
- 撤退の判断
等が上手くなっていく。
つまり、賢い人ほど、安全に馬鹿をやれると言う事になる。
逆に、制御能力なしに愚行へ行くと、単なる事故へ近づく。
だから、笑わせるための愚かさとは、ただ単に無知だったり、愚かを演じるだけの事ではない。
むしろかなり高度な、社会制御技術に近い。
まとめ
「愚かを演じる」は、高度なバランス技術が必要と言う事だ。
- 安全確認
- 空気制御
- 恥の調整
- 攻撃性制御
- リズム
- 引き際
など、かなり多くの技術が必要になる。
そして最も重要なのは、観客を不安にしないことだ。
これは、どんなエンタメでも同じだ。
人は「この人は制御している」と思える時、安心して笑える。
逆に、
本当に危険、
本当に壊れている、
本当に止まれない、
と感じると、
笑いは消える。
つまり、「わざと馬鹿をやる」とは、愚かになる技術ではなく、「安全に愚かへ見せる技術」なのである。



