目次
前提世界が違う人間同士で何が起きるのか
人間関係の中には、議論以前に“前提OS”が違う問題が存在する。
その中でも特に深刻なのが、
「喧嘩・暴力・威圧・攻撃」
を、
- 交渉手段
- 感情表現
- 距離調整
- 上下確認
- 関係構築
として扱う人間と、
- 危険行為
- 違法行為
- 関係破壊
- トラウマ要因
- 即遮断対象
として扱う人間の衝突である。
これは単なる価値観の違いではない。
“現実認識の違い”に近い。
そしてこの差は、本人たちが想像している以上に大きい。
暴力を「言語の一種」として扱う層が存在する
世の中には本当に、
- 威圧
- 怒鳴り
- 恫喝
- 乱暴な接触
- 喧嘩
- 物理的圧力
を、
コミュニケーションの一部として学習している層がいる。
これは必ずしも犯罪者とは限らない。
例えば、
- 荒い地域文化
- 暴力的家庭
- 体育会系環境
- 刑務所文化
- ギャング文化
- 一部の男性集団文化
- 極端な縦社会
などでは、
「強く出る」
「押す」
「舐められない」
が、
関係調整能力として機能する場合がある。
ここでは、攻撃されない=尊重されていない
という逆転すら起きる。
一方で、「暴力=即終了」の人間もいる
逆側には、
- 暴力経験が少ない
- 法治感覚が強い
- 安全重視
- 境界線意識が強い
- ハラスメント教育を受けている
- PTSD的回避がある
などの背景から、
「攻撃性が出た時点で関係終了」
という感覚の人間がいる。
このタイプにとって、
- 怒鳴る
- 威圧する
- 机を叩く
- 距離を詰める
- 脅し文句
- 恫喝口調
は、議論ではない。
既に危険行為だ。
つまり、対話ステージが終わっている状態にあり、そこにズレが発生し得る。
ここで起きるのは「翻訳不能」
問題は、双方とも自分の感覚を“普通”だと思っている点だ。
例えば、
攻撃側
「本気で向き合ってるだけ」
「男なら普通」
「喧嘩して仲良くなる」
「言い返さない方が失礼」
「舐められたら終わり」
回避側
「恐怖」
「関係破壊」
「危険人物」
「警察案件」
「二度と関わりたくない」
これらは、同じ行動に対しての評価なのに、意味処理が全く違う。
つまり、会話しているようで、別のゲームをやっている様な状態で、前提が噛み合っていない。
「強く出た方が誠実」という文化がある
極一部の環境では、
- 遠慮
- 柔らかい言い方
- 曖昧表現
- 引く態度
が、弱さや嘘として扱われる事がある。
逆に、
- 怒鳴る
- 圧を出す
- 正面衝突する
- 威圧する
方が、
「本音」
「誠意」
「覚悟」
として認識される場合さえある。
つまり、攻撃性が、ある種の真剣さの証明になっている。
この文化圏では、穏やかな対話が、信用されない場合すらある。
「本気でぶつかってこい!」と「冷静に言葉を重ねれば分かり合える」と言う価値観の差があるままでは、視点の揃った会話にならない。
「恐怖」を認識できない人間がいる
暴力慣れした環境では、恐怖感覚が麻痺する場合がある。
例えば、
- 大声
- 睨み
- 威圧
- 接近
- 乱暴な言葉
を、本人は「普通の範囲」だと思っている場合。
相手が違うと、
「え、そんな怖がる?」
「これくらい普通」
「何で泣くの?」
「話し合いじゃん」
となる。
だが攻撃的コミュニケーションを受け取る側は、生理的恐怖反応を起こしている。
では、どちらが本来は歩み寄るべきか?
法律と文化がズレる
現代社会では、多くの場面で、
- 威圧
- 恫喝
- 暴力
- ハラスメント
が、法的・制度的に制限されている。
つまり、一部の文化的には普通でも、制度上はアウトな場面が多い。
ここで、
「昔は普通だった」
「これくらいで騒ぐな」
と押し通し、俺に合わせろムーブをすると、
「いや違法」
「録音しました」
「通報します」
が返って来て、衝突する。
そして、法と言う、より大きな共同体が守らせるルールの前では、勝ち目は無い。
これは単なる世代差ではなく、社会ルール更新が必要であり、現在一般的に合わせるべきは、攻撃的コミュニケーションをしたい側が、したくない側にあわせるべきが正解だ。
「暴力否定」が万能でもない
一方で、暴力否定側にもマイナスはある。
例えば、
- 攻撃性を全否定
- 怒りを全否定
- 対立回避万能化
- 境界線防衛不能
- 現実の危険性軽視
などは、大きくマイナスに働く。
人間社会には実際、圧力、敵、悪意がある。
それを前提に動く局面が多く存在する。
そして、それを制し、律し、禁ずるのは、使わない方が良いが使える暴力である。
すなわち、軍や警察、護身術、武道、正当防衛。
暴力と言う装置、機能、性能を前提に、それを使わないで回す事が日常と言う状態を維持する事が求められている。
つまり、
- 法
- 権力
- 強制力
- 威圧
- 抑止
を、暴力を完全にゼロには、絶対にできない。
そのため、暴力文化理解ゼロだと、危険察知や自己防衛を誤る場合も多々ある。
世の中、悪人が不在なら、それでも良い。
だが、世の中の大半は、普通の人でさえ暴力性を少なからず持つし、犯罪はそこかしこに溢れているし、外国を見れば戦争は時々起きるぐらいの距離感と言うのが現実だ。
おわりに
人は「暴力の意味」が、それぞれ違う。
喧嘩や攻撃性について、人間は同じ認識を共有していない。
ある人間にとっては、
- 真剣さ
- 誠意
- 関係形成
- 序列確認
- 生存戦略
であり、別の人間にとっては、
- 恐怖
- 犯罪
- 支配
- 加害
- 関係終了条件
などとなる。
問題は、双方ともそれを常識だと思っている場合に、問題が起きること。
そして、コンプラがどうとか言いつつも、一定の文化圏では、まだまだ暴力は日常コミュニケーションのカードの一つの場合がある。
現代社会では、法・制度・記録技術の発展によって、暴力コミュニケーション文化は、急速にコストが高くなっている。
しかし一方で、攻撃性そのものは人間から消えていない。
つまり今後も、コンプラが浸透しても、「暴力を言語として扱う人間」と、「暴力を即遮断対象として扱う人間」の衝突は、形を変えながら続いていくだろう。
暴力コミュをしたい人は、ある意味で、相手にプロレスを求めているが、誰もがプロレスを好きではない様に、プロレスを受けてくれる相手ばかりではないし、それは時代錯誤になってきている。
だからこそ、プロレスを求めて来る相手のプロレスに乗ると、暴力コミュ圏の人と良いプロレスが出来れば、やたらと仲良くなるなんて事も逆に起きたりもある。
最後は、相手との関係次第だ。
暴力コミュも、セクハラも、相手次第で心地良くもなるし、不快でしかない犯罪行為にもなる、そういうわけだ。



