コラム

不可視化される「社会的犠牲」を考察

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私たちは誰を、いかにして「社会の代償」として選んでいるのか?

綺麗事の裏に潜む「不可避なトレードオフ」

  • 「誰も置き去りにしない社会」
  • 「環境との調和」
  • 「相互理解と多様性」

現代社会を彩るスローガンはいずれも美しい。

しかし、生物学的・社会的現実に目を向ければ、人間は他の生命、他者の労働、あるいは特定の集団への不利益転嫁(負債の押し付け)なしには一日たりとも生存できない。

限られた人やグループ同士であればゼロサムゲーム外の誰も損をしないゲームが可能だが、それだって誰か、何かに負債を押し付けて成り立っている。

動物や植物を消費し、誰かの過酷な労働に依存し、社会秩序を維持するために何らかの負担を誰かに課すことで、私たちの日常や、種の繁栄は、全て成り立っている。

しかし、社会秩序を維持するためのリソースや枠組みには常に限界がある。

「何かを優先する」ということは、本質的に「何を後回しにし、何を切り捨てるか(トレードオフ)」を決める作業と同義である。

問題は、現代社会がこの「誰を、どのような基準で犠牲にするか」という最も過酷な議論を避け、その処理を警察、軍隊、屠殺業者、福祉行政などの専門機関へアウトソーシング(委託・不可視化)することで、市民の無関心と免責を買い支えている点にある。

1. 語られない暗黙の選別条件(4つの力学)

社会では、明文化された法律の裏側で、実質的に「誰を犠牲(負担)の対象として選ぶか」を決定している暗黙の力学は、主に以下の4点に整理できる。

① 政治的・社会的資本の有無(抵抗能力と発言力)

自らの権利や不利益を言語化し、組織化して不服を申し立てる能力(政治的ボイス)を持たない層ほど、犠牲の転嫁先となりやすい。「社会的抗議運動や訴訟などのコストを発生させずに負担を課せるか」が暗黙のスクリーニング基準となる。無抵抗なのは負債押し付けと言う攻撃をしても良いと同義に近い。

② システム適合性と「自己責任論」への還元可能性

社会制度が規定する標準モデル(自律的労働、経済的自己管理等)に適合できない存在に対し、その原因を構造的欠陥があったとしても、その時点でそうではなく「個人の努力不足や資質」に帰せられるか否かを重視する。自己責任のラベルを貼ることで、公的救済コストを抑えつつ排斥を正当化する。構造は簡単に直せないが、個々人に役割を押し付けるのは簡単だからだ。例えば、社会不適合者は社会構造によってそうなっていても、個人問題にして押し付けた方が全体で見ると対処が楽になる。

③ 可換性(代用可能性)と不可視化

治安維持、屠殺、清掃、介護、廃棄物処理など、社会の基盤を支える現場を一般市民の視界から遠ざける(不可視化)。同時に、その労働力や犠牲を構造的に「システム維持のための代替可能なコスト」として扱う。これによって不快が多くの人にとって非日常的な社会が出来上がるが、その認識が出来ない人達が、極端な非暴力や動物愛護、自然保護をやろうとして大失敗したりも観測される。

④ 生産性とリソース投入効率(機能主義的トリアージ)

有限な公的資源(予算、人員、時間)を投入した際、どの程度の社会的リターン(納税、秩序維持、経済貢献)が得られるかという計算である。リソース対効果が低いとみなされた領域は、平時においても後回しにされる。例えば、氷河期世代の救済は、典型的なトリアージによって消極的に選択された見放された状態を維持している。未来ある子供達や、良い生活を維持したい老齢世代への投資の方が、社会的リターンが遥かに高い為と言える部分があるだろう。

2. 犠牲の二大形態:積極的犠牲と消極的犠牲

社会が行使する犠牲には、直接的な意思決定に基づく「積極的犠牲」と、不作為や優先順位の後回しによって生じる「消極的犠牲(構造的暴力)」が存在する。

分類積極的犠牲(直接的処理)消極的犠牲(構造的放置)
行使メカニズム明示的な法・権力・命令による直接的介入(殺害、捕獲、収用、隔離)予算配分の後回し、制度外化、見殺し、機会の未提供
責任の所在明確(警察、軍隊、裁判所、行政機関、専門業者)曖昧(社会構造全体、不透明なシステム、無関心な世論)
正当化の手続き正式な法的根拠、裁判手続き、公共の福祉・治安の論理「自己責任論」「リソース不足」「やむを得ない自然淘汰」の言説
代表的事例死刑制度、交戦権の行使、重大犯・テロリストの射殺、土地強制的収用就職氷河期世代の構造的放置、支援枠組みから外れた障害者の社会隔離・放置

構造の分析

消極的犠牲の実体と、就職氷河期と障害者排斥について。

消極的犠牲の最たる例が、上でも触れたが、バブル崩壊後の「就職氷河期世代」に対する構造的転嫁である。

当時の社会は、既存の雇用構造(既得権や終身雇用)を守るため、リスクを新卒世代へ一元的に押し付けた。

表面上は「各種就職支援」などのポーズを取りつつも、根本的な雇用制度改革を行わずに時間経過による固定化・無力化を待った。

これは「助けるふりをした見殺し(不作為による犠牲)」に他ならない。

他に、障害者福祉における排除構造も同様である。

行政が用意した「扱いやすい支援プログラム」に収まる範囲では保護されるが、そこから溢れ出る行動特性や重度なケアを要する存在は、制度運用の効率性を乱すリスクとみなされる率が高まる。

大抵は、直接的に攻撃されるわけではないが、支援拡充を行わない「不作為」によって家族へ過度な負担を丸投げし、地域社会から実質的に追いやられる。

これらの構造にハマり込んだ問題は、現在進行形で綺麗な解決策が存在せず、痛みを伴う解決策を実行する事は社会的に不可能に近い状態と言える。

3. アウトソーシング(不可視化)がもたらす社会的機能不全

日本をはじめとする現代社会では、凶悪犯に対する死刑、戦場での武力行使、食肉のための屠殺など、直接的な命の選別や剥奪を「専門機関(警察・軍・屠殺業者など)」に限定して一任している。

対価として高い報酬や相応の地位・権限を与えることで、一般市民は「暴力と犠牲の行使に伴う倫理的・心理的負荷」から免責されている。

そこで、犠牲の基準をオープンに議論しないことのリスクが発生する。

  • 犠牲が最弱層へ固定化する: 明確な合意基準がない場合、倫理的判断ではなく単に「力関係の弱い者(ボイスを持たない者)」へ犠牲が自動集積する。この構造は大昔から形を変えても構造を変えずに残っている部分がある。
  • 誠実性の喪失と免責の横行: 「誰も傷つけない」という不可能な表向きの理想を掲げることで、裏で発生している構造的犠牲に対して「見て見ぬふり」をする無責任が容認される。
  • 過剰排斥の歯止めが利かなくなる: どこまでを「排除すべき敵・脅威」とし、どこまでを「不可避な負担」とするかの境界線が曖昧なため、危機時に権力が過剰に行使されるリスクを孕む。

結論

真の「倫理」とはトレードオフの直視から始まる、と言えるだろう。

事実を直視せずに、正しい判断を安定してする事は誰にも出来ません。

つまり、直視が出来ない、し辛い環境では、判断の成否が安定しない危険が付きまといます。

「犠牲者を一人も出さない」というスローガンは、一見すると極めて倫理的に思え、美しいです。

しかし、現実のリソースが有限であり、人間が他者の負債や命の消費なしに生きられない以上、それは単なる「思考停止と責任転嫁のレトリック」に過ぎないのが、導き出される事実です。

社会に必要なのは、「犠牲は存在しない」と偽ることではなく、「私たちはどのような基準で、誰に、どれだけの負担や犠牲を課しているのか」を透明化し、問い続けることです。

少なくとも、その方が、よほど真面で、誠実です。

暗黙の選別基準を言語化し、議論の場に引き出すことこそが、大勢が多大な痛みを感じるとしても、実は最も立場の弱い人々への無慈悲な構造的犠牲を食い止める、数少ない道筋となるでしょう。

しかし、現実は、それを力や影響力がある人達が避ける傾向があります。

つまり、この世は、その視点では恐らく、ずっと地獄のままです。

では、これを避けて、我々は、どうすれば良いのか?

社会的な代償選択から、自分や周囲が選ばれない様な、社会やコミュニティを作り、限られた範囲だけだとしても自己防衛をするのが、数少ない実行出来る現実的な対処と言えるでしょう。

もしくは、このルールで動いている社会をハックし、誰かに犠牲を押し付けてしまうのも手です。

しかし、誰かに犠牲に押し付けると言う事は、誰かが犠牲になっている事は最低でも理解して代償によって得られた物を享受する必要があるでしょう。

つまり、自分は犠牲にならない様に立ち回りつつ、犠牲を押し付けられた人には感謝して、現実の社会と言う荒波を乗り超えましょう、的な話です。

世知辛いですね。

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