「夢を追いかける人は格好いい」そう言われることがあります。
一方で、「夢なんて追わずに普通に働いていれば良かった」そんな現実や、厳しい声もあります。
夢に全てを賭けて成功した人は称賛されます。
しかし、成功できなかった人はどうでしょうか。
「自己責任」
その一言で片付けられることも、少なくありません。
ですが、この問題は単純な自己責任論だけでも、逆に全面的な救済論だけでも説明できません。
今回は、「夢への挑戦」と「失敗した後の社会」の関係について整理してみます。
記事はnoteの方にもあるので、どうぞ。
https://note.com/monogatarukoubou/n/nefee117f7bd7?sub_rt=share_pb
ちなみに、noteにも読み放題メンバーシップがあります。
夢の追い方は一種類ではない
まず前提として、人の夢の追い方には様々な形があります。
- 会社員を続けながら副業として挑戦する人
- 本業と夢を両立させる兼業型
- 全てを辞めて夢一本に人生を賭ける一点突破型
一般的には、「仕事を続けながら挑戦すればいい」という意見が多く見られます。
確かに合理的です。
それで成功している人も大勢います。
生活も安定し、失敗しても戻る場所があります。
しかし、現実には、それが出来ない人も大勢います。
人によっては「人生を賭けないと挑戦できない」
世の中には、逃げ道があると頑張れない人がいます。
締切がないと動けない人もいます。
一つのことしか考えられない人もいます。
認知特性や性格、精神性によって、一点突破以外の選択肢を実質的に取れない人も存在します。
つまり、人生を賭けること自体が無謀なのではなく、人生を賭けなければ能力を発揮できない人もいるということです。
もちろん、それで成功できる保証はありません。
しかし、その人にとっては他の戦略自体が成立しない場合があります。
そんな人は、勝算の低い夢に向かって、リスクを負ってまでして夢を追う事は、誤りなのでしょうか?
夢は「宝くじを買わなければ当たらない」
- 漫画家。
- 俳優。
- ミュージシャン。
- 起業家。
- プロスポーツ選手。
どれも挑戦しなければ成功確率は0%です。
夢とは、ある意味で「宝くじを買わなければ当たらない」という性質を持っています。
もちろん、買っても当たるとは限りません。
むしろ多くの人は当たりません。
しかし、挑戦者がいなければ成功者も生まれません。
社会が享受している多くの作品やサービス、文化や技術は、成功者だけでなく、その何倍もの失敗した挑戦者の存在の上に成り立っています。
そして、夢を叶える人だけに夢を追わせる事は、出来ません。
当たりくじは、後にならないと分からないです。
「夢を追ったこと」の後
本当に厳しいのは、夢に挑戦している最中ではありません。
夢を諦めた瞬間です。
例えば30代半ばで夢を断念した人は、同年代の会社員と比べて
- 職歴
- 昇進
- 貯蓄
- 資格
- 実務経験
などで差が生まれている場合があります。
ここで社会は、こう考えます。
- 「みんなは地道に積み重ねてきた」
- 「好きなことをやって失敗した人を優遇するのは公平ではない」
この感覚にも一定の合理性があります。
「救済しない」ことにも合理性はある
夢に失敗した人を特別扱いしないことには、いくつかの利点があります。
まず、「選択には結果が伴う」という自己責任の原則が明確になります。
また、失敗しても十分に補償されるのであれば、準備不足のまま無計画に挑戦する人が増える可能性があります。
つまり、リスクがある方が、愚か者の参入を避けられます。
本物の愚か者と、覚悟が決まった人だけが夢を追うなら、大半の人には自己責任も受け入れられやすいわけです。
さらに、地道に働き続けてきた人との公平感も保ちやすくなります。
加えて、人々が貯蓄や資格取得、副業などによるリスク管理を意識しやすくなり、制度が単純で財政負担も抑えられます。
つまり、「あえて救済しない」という考え方にも、社会制度としての合理性は十分に存在します。
しかし、「救済しない」ことにも大きな代償がある
一方で、失敗への代償が大きすぎる社会では、人は挑戦そのものを避けるようになります。
その結果、何が起きるか?
- 起業
- 芸術
- 研究
- 発明
- 新しいサービス
など、新しい価値を生み出す挑戦も、減っていきます。
つまり、投資をしない事で、投資をしていれば得られたかもしれないリターンが返ってきません。
宝くじで例えると、買わない事が正解に見えてしまう人もいるかもしれませんが、挑戦者の不在が起こす社会的なマイナスは、ハズレくじを買わない様にする節約で浮く分よりも、得られるかもしれない大勝の価値の方が遥かに大きくなります。
つまり、投資しないのは、特に資本主義社会においては、愚かな選択と言えます。
また、夢に向けて努力した人は、文章力、営業力、デザイン力、企画力、プレゼン能力など、市場価値のある能力を結果的に身につけている場合も少なくありません。
しかし、「夢に失敗した人」という評価だけで終わってしまえば、その能力は社会で十分に活用されません。
これは本人だけでなく、社会全体にとっても人的資本の損失になります。
さらに、景気や流行、偶然の出会いなど運の要素や、家庭環境・認知特性など出発条件の違いまで「自己責任」の一言で処理することは難しいという問題も残ります。
他者や環境の責任で夢が破れる事も、夢を追う事が難しい事もあり、それも含めて自己責任にする事は、あまりにも酷です。
それが客観的に証明出来なくても、当事者からすれば受け入れがたいわけです。
「夢を追ったこと」を評価するのではなく、「身につけた能力」を評価すると言う案
では、どうすれば公平性を保ちながら、挑戦者を活かせるのでしょうか。
一つの考え方は、夢そのものではなく、夢を追う過程で獲得した能力を評価することです。
夢を叶えるには足りなかったかもしれないですが、それでも何かしらの技術や知識を身に着けている筈です。
例えば、漫画家を目指していた人なら、
- ストーリー構成
- デザイン
- 締切管理
- 編集とのやり取り
- SNS運営
芸人なら、
- プレゼン能力
- コミュニケーション能力
- 企画力
ミュージシャンなら、
- 音響知識
- イベント運営
- 制作管理
などが、何かしら、あると思います。
夢は叶わなくても、必要になる筈だった能力は残っています。
それならば、社会が評価すべきなのは、夢の達成そのものではなく、そこから得られた能力なのかもしれません。
仮に、20年夢を追っていて、関連する能力が何も無いのだとしたら、その人は夢を追っているフリをしているだけで、実際は夢を追っている自分に酔っているだけで何もしていないと言えるでしょう。
個別の能力を活かせる様に扱う事が出来れば、夢を追うと潰しが効かない状態を大きく減らせます。
「救済」ではなく「再配置」という考え方
ここで発想を少し変えてみます。
夢に失敗した人を「救済する」と考えると、どうしても「かわいそうだから助ける」という印象になります。
しかし、「社会が活用できる能力を持った人材を再配置する」と考えれば、どうでしょうか?
話は少し変わります。
これは福祉ではありません。
人的資本の再利用です。
社会にとっても利益があります。
企業にとっても利益があります。
本人にとっても再出発になります。
そして、積み重ねてきた夢への切符を、そのままではなくとも利用出来る事は、本人にとっても救いになるでしょう。
社会が向き合うべき問い
この問題は、
- 「夢を追うべきか」
- 「夢を諦めるべきか」
というだけの話ではありません。
本質は、
- 挑戦出来る社会を作るのか。
- 挑戦出来ない社会を作るのか。
という選択です。
挑戦には失敗が付きものです。
だからといって、挑戦者を全面的に保護すれば公平性が崩れますし、愚かな人は弱者ビジネスみたいに制度を悪用するでしょう。
逆に、全てを自己責任として切り捨てれば、挑戦する人が減り、新しい文化や技術、産業が生まれにくくなります。
大事なのは、バランスなのです。
おわりに
夢への挑戦は、成功者だけで完結するものではありません。
その裏には、夢破れた多くの人たちがいます。
だからといって、挑戦したという理由だけで特別扱いすることも、公平とは言えません。
社会にとって重要なのは、「夢に挑戦した」という選択や事実ではなく、その挑戦の過程で何を身につけ、社会にどのような価値を提供できるのかを見極めることです。
挑戦を称賛するだけでも、自己責任の一言で切り捨てるだけでもない。
挑戦の成果を能力として社会へ還元できる仕組みをどう作るかです。
それこそが、夢を応援したり、推奨する社会と、公平な社会の両立を考える上で、これからますます重要な課題になっていくのではないでしょうか。
一度だけ寄付する
毎月寄付する
毎年寄付する
金額を選択
またはカスタム金額を入力
寄付していただきありがとうございます。
寄付していただきありがとうございます。
寄付していただきありがとうございます。



