コラム

「残酷だが、事実はこうだ」という言説の死角について。就職氷河期世代の構造的被害と直視すべき現実

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就職氷河期世代をめぐる議論において、「被害者ぶっても仕方がない」「社会に救済のキャパシティはない」「冷徹な現実を見ろ」といった、いわゆる「残酷だが、事実はこうだ」という達観した冷笑や自己責任論が、SNSをはじめとする空間で大きな顔をしています。

一見すると、これらの意見は「感情論を排した合理的な現実主義」の衣をまとっています。しかし、その視点は決定的な前提や視野の広がりを欠いてもいます。

過激な事を言った方がSNSではバズるし、言う方も極端な事を言って共感されたり反応される方が気持ち良い事も原因でしょう。

この記事では、彼らが振りかざす「残酷な事実」という名の論理が、どのような盲点を抱えているのかを整理し、なぜその指摘が片足の不自由な詭弁に過ぎないのかを整理します。

1. 冷徹な現実論者が意図的、あるいは無意識に切り捨てる「死角」

「社会にはもう余裕がない」「諦めてサバイブするしかない」

等と語る層は、自分たちの視点が全知の客観性を持っているかのように振る舞います。

しかし、その論理には以下の重大な欠落があります。

① 「社会契約」の不履行に対する免罪

子供が親におねだりするのとは異なり、近代社会の構成員と国家・システムの間には、基本的な生活基盤や労働の場を提供するという公的な約定(契約)が存在します。 個人の努力や能力とは無関係に、マクロな景気後退や雇用慣行の崩壊によって人生の選択肢を根こそぎ奪われた人々に対して、システム側が何の補償もせず「自己責任だ」と突っぱねることは、単なる合理主義ではなく、国家・社会による契約違反(債務不履行)にほかなりません。そこを棚に上げて「現実を見ろ」と言うのは、加害構造の隠蔽でしかありません。

② 自助困難層を「数字の誤差」として切り捨てる暴力性

「自力で這い上がった者」や「時代の変化に適応できた者」の視点から見れば、声を上げ続ける人々は「見苦しい敗者」に映るかもしれません。また、自分がどうにかなったから他の者も努力すればイケると思うかもしれません。しかし現実は、心身の健康を損ね、再起のレバレッジを完全に失った「自助が物理的・心理的に不可能な層」が、かなりの数、一定数存在します。その事実から目を背けることは、社会のセーフティネットの全否定を意味します。彼らを切り捨てることを「仕方のない現実」と片付ける態度は、現実主義ではなく、単なる弱者に対する不感症です。

③ 歴史的・戦争被害の語りとの「ダブルスタンダード」

これが最も明らかな矛盾です。戦災や敗戦による被害、国家的な失策による悲劇については、何十年経ってもその不条理が語り継がれ、歴史的教訓や被害者としての尊厳が公的に認められています。 救済の有無は関係ありません。もし「過去の不条理にしがみつくな、前を向け」という論理が本当に正しいのであれば、戦争の被害を語り続ける人々に対しても同様の厳格さを適用しなければダブルスタンダードです。戦争は別、構造が違う、と言う意見もあるでしょうが、では何なら無駄で、何なら尊いのでしょう? 特定の世代の被害だけを「自己責任」「終わったこと」として封印しようとするのは、不公平極まりない姿勢と言えます。意味・無意味を決めるのは、誰でしょうか?

2. 被害者の「怨嗟」と「声」が持つ不可欠な意味

「被害者ムーブをしても何も変わらない」「不平不満を言っても無意味だ」「むしろ嫌われる、呆れられる」という指摘に対し、冷笑的な層は「だから無駄なことはやめろ」と結論づけます。

しかし、ここにも大きな視点の抜け落ちがあります。

  • 「救済されないこと」が、声を上げる理由を消滅させるわけではないと言う事。 実利的な見返り(救済や補償)が得られないからといって、不条理に人生を踏みにじられた事実が消えるわけではありません。誰も裁かれず、誰も救済されずとも、不当に扱われた人間がその怒りや怨嗟を表明し続けることは、システムに人間性を踏みにじられた者が、己の尊厳を辛うじて守り抜くための最後の防衛手段として機能する事も考えるべきです。救えない、救われない、救いたくない、そう言う層を踏みにじる行為は、その時点、その環境では正論に思えても、慎重になった方が良いでしょう。
  • 「不快なノイズ」を消去した社会の危険性。 被害者がおとなしく沈黙し、周囲に不快感を与えないように消えていく世界は、その時代の為政者や強者にとって最も都合の良い「見せかけの平穏」です。しかし、痛みが可視化されず、構造的エラーの爪痕が隠蔽された社会は、未来で再び同様の不条理を別の世代に再生産する土壌を育みます。被害者の怨嗟に満ちた事実的な世界こそが、どんなに無駄で見苦しく不快に感じるとしても、社会が抱える歪みを映し出す唯一の鏡です。

結びに代えて

「残酷な事実」の正体を見誤るな、と言う事です。

「残酷だが、事実はこうだ」とドヤ顔で語る人々が提示する「事実」とは、多くの場合、「自分たちが心地よく生きるために、都合の悪い声を視界から排除したいという願望」「自分達は別世代、あるいは氷河期サバイバーとして、まずまず上手くやって来た余裕がある優越感を享受しつつ、助ける余裕は無いし意志も無い事への表明」等の言い換えに過ぎません。

それはそれで、人間的ではあります。

ある意味で正論である部分もあります。

同時に、手に負えないと無責任に突き放す意味では、彼らは個人や狭いコミュニティでは自立、自助こそ成り立っているかもしれませんが、社会の構成員としての責任は放棄している事は明らかです

救済のキャパシティがないという現実を理由に、被害者の口を塞ぎ、痛みを告発することを「無意味」と断じる態度は、ただの残酷さではなく、思考の怠慢であり、不条理や社会的加害に対する加担行為です。

事実として、被害者ムーブをした所で被害者的立場の人達が手遅れになる前に全員救われる様な奇跡は、万に一つも無いのも事実でしょうし、それならば自助努力をした方が生産的かつ、真面ではあります。

それは、その通りです。

ですが、個々には自助が成立しても、社会的な責任は免責されるわけではありません。

それを無責任に表明すると言う事は、無責任に表明した責任の一端を担う覚悟が無いなら、するべきでは無いでしょう。

たとえ何も変わらなくても、どれほど冷笑されようとも、いつの間にか被害者から時代のせいにして何もしなかった厄介な社会不適合者として扱われようとも、です。

時代によって選択肢を奪われた人々が声を上げ続けること、それが許されている場がある状況こそが、そこで展開する不毛に見える営みこそが、それを許す社会のモラルが完全に死滅していないことを証明します。

これは、数少ない機能しているセーフティネットの一つとも言えます。

これを、どんな善意からでも奪う事は、立場によっては悪となります。

そんな物ぐらいしか機能している救済にならないのか、と言う話でもありますが、だからこそ効率や正しさを排した泥臭い事実と向き合い続ける必要があるとも言えます。

世界は根源的に理不尽で残酷ですが、それに逆らうのが文明であり社会です

善き良き不自然で囲まれる事を目指すのが、文明であり社会です。

「現実は理不尽で残酷だから」は、社会的ミクロの視点では、社会の中であっても、その通りです。

ですが、社会的マクロの視点では理不尽で残酷な状態をどうにか出来なければ、する姿勢を示し続けなければ、国は構成する人々の義務を放棄した事になります。

社会は、善き良き不自然で囲まれる事を目指すべきであり、現実は理不尽で残酷だからというのは自然に任せると言う事に他なりません。

義務を果たさずに権利だけを求めるのは、明らかに間違った姿勢です。

状況的被害者が自助不能で、国も見放すならば、彼らが責任を放棄した国に対して反旗を翻しても仕方が無い事です。

それが自身を負債として国を蝕む事でも、事件を起こして間接的復讐をする事でも、もっと恐ろしい何かだとしても、対処に誤った国に、就職氷河期世代を生み出した上の世代にこそ責任の一端がある事は逃れようのない事実です。

個人への救済が事実上不可能でも、予算が無い、余裕が無いと言うのが本当の事だとしても、自助さえ不能な時代に翻弄された就職氷河期世代と呼ばれる被害者を一律で扱ったり、見ない様にしたり、事実上見捨てる事は、社会の為になりません。

善き良き不自然で囲まれる事を、社会は可能な限り目指すべきなのです。

そして、個人であっても社会の参加者である以上は、参加度合いや立場に応じた態度を取る必要があります。

思想として「自己責任」と言う態度かつ立場であるなら、それはそれで良いでしょう。

ですが、「被害者は被害者である」と言う捉え方なのに、「社会に余裕が無いから自助努力せよ」と言う態度は、強盗に遭った人に対して、「どうせ盗まれた物は取り戻せないのだから一々警察に通報したら迷惑だよ」と言っているのと同じ様な物です。

盗まれたと主張しないと万が一にも盗品は戻りませんし、盗んだ者に報いも与えられないのですから、盗品が戻らない可能性はあっても警察が機能している限りは通報すべきなのは明白でしょう。

盗んだ者が不問では、治安も悪化し、社会は悪い意味で自然な状態へと簡単に堕ちて行ってしまいます。

そこでもし警察が機能していなかったら、その時は国家が機能不全と言う状況なので、ようやく自力救済するしかなくなるわけですが、その社会はもはや、悪い意味で弱肉強食です。

なので、就職氷河期世代で時代の被害者と言う人は、安心して声をあげましょう。

当時、環境に非がある状態だったのは明らかなのですから。

それですぐに生活が楽になったり国が動かなくとも、事実に対して声をあげ続け、人々から忘却を防ぐ事は、極極微力だとしても社会の為になります。

それが、善き良き不自然で囲まれた社会を目指す意味で、正しい方角を向いているのですから。

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