コラム

失敗者に「切腹」を強いる社会は、次の事故を防げるか? 事故調査における「原因究明」と「責任追及」の二律背反を考える

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ついさきほど、テレビ番組で見た日航機墜落事故の特集。

日本側が『責任追及』を急ぐあまり原因究明が遅れ、アメリカ側との間で溝が生じたという話を知り、違和感を覚えた。

なぜ法的に不可能な責任追及にこだわり、再発防止のチャンスを逃してしまうのだろうか?

記事はnoteの方にもあるので、どうぞ。

https://note.com/monogatarukoubou/n/nf2bc8648041c?sub_rt=share_pb

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1. テレビ番組を見て感じた違和感

テレビのドキュメンタリー番組で日航機墜落事故の当時を振り返る特集を目にした。

そこで語られていたのは、事故原因の究明よりも「誰の責任か」「誰を裁くのか」という責任追及の空気が国内を支配し、それが結果として原因究明を遅らせてしまったというニュアンスの内容であった。

当時の検察や社会には「失敗した者、責任がある者を罰しなければ気がすまない」という強いプレッシャーがあり、アメリカ側が求めた「責任追及をしない約束(原因究明を最優先するための協力条件)」に納得できなかったという。

こればかりは、今だからそう見えるわけでフェアではない物の、当時としても法的な責任追及が困難だと分かった段階で、なぜ速やかに「原因究明・再発防止」へと軸足を切り替えられなかったのか?

私には、その発想自体がひどく非合理で、不気味なものに感じられた。

2. なぜ「責任追及」と「原因究明」は両立しないのか?

事故調査の現場において、「再発防止のための原因究明」と「法的処罰のための責任追及」は、構造的に激しく対立する。

この2つが並行するとき、現場には強烈な逆風が吹く。

  • 責任追及が優先される場合: 関係者(運航乗務員、整備士、メーカー、規制当局)は、刑事罰や多額の損害賠償を恐れて自己防衛に走る。ミスの隠蔽、都合の悪い証言のトーンダウン、記録の隠滅といった行動が誘発され、真実が闇の中に葬られやすくなる。
  • 原因究明が優先される場合: 「次に同じ悲劇を起こさないこと」を絶対目的とし、関係者が処罰の恐怖から解放されて包み隠さず事実を語れる環境を整える必要がある。

つまり、「犯人を吊し上げて罰すること」を優先すればするほど、真相は隠され、次の事故を防ぐための貴重なデータが失われるというトレードオフが存在している。

それならば、故意の犯人の気配が無いのであれば、原因究明を優先した方が絶対的に理に適って見える。

3. 世界のスタンダードと日本の「切腹」文化

このジレンマに対して、世界各国や国際機関はどのようなアプローチをとっているのだろうか?

テレビでも言っていたが、

  • オランダや国際基準(ICAO): オランダなどの先進的な法制度では、「原因究明のための調査資料や証言は、裁判の証拠として使わない(免責・分離)」というルールが明確に定められている。命を守るシステム改善を司法手続きよりも上位に置くのが世界のスタンダードだ。
  • アメリカの合理主義: アメリカでは、「法を犯していないのであれば、責任追及ではなくシステムやプロセスの改善(再発防止)に終始する。ただし、原因究明の過程で意図的な違法行為が発覚した場合にのみ裁く」という、効率的かつ合理的な切り分けが行われる傾向にある。
  • 日本的な「情緒的責任追及」: それに対し、日本の裁判や社会通念には、未だに「誰かがスケープゴートになって頭を下げ、罰せられなければ遺族や世論の感情が収まらない」という、まるで失敗者に切腹を強いるような前近代的・情緒的な感覚が根強く残っているように見える。調査資料を裁判資料として転用する事が問題視されつつも、そういう国である。

【考察】本当に優先すべきは「感情の処理」か「未来の安全」か?

過去の過失に対する「責任追及」は、被害感情に寄り添う意味では重要視されがちだ。

しかし、それを最優先するあまり次の事故を防ぐための真実がねじ曲げられれば、被害は未来へと連鎖していくし、真実の発覚が遅れたり、愚かな選択の結果として不可抗力的に闇に葬られる事さえ考え得る。

合理的に考えれば、原因究明を最優先し、システムや構造の欠陥を洗い出すことこそが、結果的に亡くなった人々に対する最大の供養であり、社会全体の利益になるはずだ。

4. 私たちがアップデートすべき視点はどこか?

「失敗したら血祭りに上げる」という空気感が支配する組織や社会では、誰も本当の失敗の理由を言わなくなり、隠蔽と事なかれ主義が蔓延する。

番組内では、事故機体を問題無しとした検査官が責められ、自殺に追い込まれたと言う悲惨過ぎる出来事にも触れられていた。

これは失敗した責任を誰かに取らせなければならない文化の被害者と言えるだろう。

航空事故に限らず、日本の多くの組織やビジネスシーンにも通じる悪習ではないだろうか。

感情的な「責任追及」の快楽やスケープゴート探しに囚われるのではなく、何が構造的な原因だったのかを冷徹に突き止め、未来の安全への投資へと切り替える。

そんな「原因究明プライオリティ」の意識こそ、真剣に共有すべき現代のスタンダードであるはずに思える。

私には、当時は責任追及をした事に一定の価値があったと検察官が胸を張って発言していたのが、酷く不気味に見えてしまった。

正義の為に動いた事は認められるべきだろうが、この件に関しては、不必要な自殺者を生み出し、事件の真相究明を遅らせに遅らせた原因でもあるのに、なぜ選択は正しかった様にふる舞えるのだろうか?

責任追及を生業としている組織の一員としては、恐らく正しい部分があるのだろうが、その正しさを保てる場所は酷く狭い様に思えてならない。

仮に、法を犯していない業務上の失敗で飛行機の修理工が500人以上の犠牲者を出したのだから日本の法で裁くべし、と言う検察の論理は、業務上の失敗で500人以上の犠牲者を出した事故の原因究明を数十年単位で遅らせた失敗に対しては、どんな罰が適切と考えるのだろうか?

航空機業界は失敗の再発防止の仕組みを日々進化させているが、日本の司法は失敗の再発防止の仕組みを日々進化させられて、いるのだろうか?

他人の失敗に気付けなかった不幸な人を、結果的に自殺に追い込むと言う失敗は、どんな罪にもならないのだろうか?

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