「外から嫌われるのに、中では離れられない」構造への考察
伝統が続くには、外部的継続性、つまり外から「存在していていい」と思われること
と内部的継続性、中で実際に回り続けることの二つが必要だ、という話をしました。
でも世の中には、少し厄介なものがあります。
外から見ると、「いや、それはなくなった方がいい」と思われているのに、中ではむしろ
強く維持され続ける集団。
たとえば、
因習村。
閉鎖的な共同体。
強い支配構造を持つカルト。
抜けにくい人間関係。
外からは不気味に見えるし、明確に悪の部分があるし、接触すれば迷惑、危険。
でも中の人は、簡単には離れられない。
むしろ「ここしかない」と思っていることすらある。
なぜこんなことが起こるのか。
今回は、それがなぜ成立してしまうのかについて。
会社でも、学校でも、趣味の集まりでも、同じ構造は発生し得る物だったりします。
閉鎖集団は「悪意」だけでは生まれない
因習村やカルトって、何も、最初から悪人が悪意で作るとは限りません。
むしろ多くは、安心を守ろうとした結果の、どうしてこうなっただったりします。
変化が怖い。
外が信用できない。
今ある秩序を壊したくない。
その気持ち自体は、そこまで特殊じゃない。
でも、それを守るために外を敵にして中を絶対化していく。
ここから危険になります。
つまり、問題は「伝統の素養があること」ではなく、その軌道が悪い方向で修正不能になることなんです。
条件①
外の情報が入らない、外に情報も洩れない。
閉鎖集団の一番強い特徴は、外からも内からも、断絶した方へ声が届かないことです。
批判が来ても「分かっていない人の戯言」になる。
する、できる、解釈してしまう。
疑問を持っても「裏切り者」になる。
これらが、非常に危ない。
人は、比較対象がないと異常を異常だと判断しづらい。
だから、外との接点を、両方向で可能な限り減らす。
外の友人を減らす。
他の価値観を遠ざける。
すると、中の常識が、ある意味で世界の常識になります。
これはかなり怖い。
本人にその自覚がないことが、何よりも怖い。
条件②
抜けるコストが高いと、人は、嫌な場所でも出る方がもっと大変なら残ります。
仕事でもそうです。
人間関係でもそう。
因習村やカルトも同じ。
抜けたら、
仲間や家族を失う。
仕事を失う。
居場所を失う。
「裏切り者」になる。
こうなると、理屈ではなく、生活が、人生が、人を縛る。
だから、「嫌ならやめればいい」は通じなくなっていく。
やめられないように構造が作られている。
嫌でもやめられないから、恐ろしい。
条件③
苦労が、信仰に変わる。
人は、たくさん払ったものを、無駄だと思いたくありません。
時間。
お金。
労力。
人間関係。
これを大量に注いだ後だと、「間違っていた」を認めるのがとても苦しくなる。
だから「きっと意味がある」に据え置く。
固定したくなる。
譲れなくなる。
変えられなくなる。
損切りは、とても大変です。
今まで積み重ねた物が無駄になる、気がする。
実際は、無駄を積み重ねていて、価値が無くても、です。
これは、心理学的にもかなり嫌らしく強い鎖です。
苦労したから、信じられる。
信じているから、苦労出来る。
これで、負の循環ができる。
だから、理屈だけで目を覚まさせるのは難しい。
そこには、人生そのものが、絡めとられる形で乗っているから。
条件④
善意が支配に変わる。
「あなたのためを思って」
「みんなのために」
「ここでしか救えない」
最初は善意です。
でも、善意はかなり強い支配の道具にもなる。
相手の自由を奪っても
「本人のため」
と言えてしまうから。
これが怖い。
悪意の支配は、まだ見抜きやすい。
善意の支配は、本人すら気づかない。
だから長持ちします。
物語でも、挑戦しようとする登場人物を止めようとする仲間や家族が描写され、善意なのに、より良い場所に行く事を邪魔してしまう。
あれと似ています。
危険地帯を見抜くための質問
これは本当に伝統か?
じゃあ、どう見分けるのか。
一つの基準があります。
それは疑問を持つ自由があるかです。
質問できるか。
やめても人格を否定されないか。
外の人と普通に話せるか。
ルールを変える余地があるか。
これがあるなら、それはまだ、健全な共同体です。
これがないなら、かなり危ない。
伝統って、本来は人を支えるものです。
人を閉じ込めるものじゃない。
ここを忘れると、守っているつもりで檻を作ってしまう。
そして、檻の中は平時は居心地が良くなり、非常時には、恐ろしい事になる。
実際の危険な集団で考えても、犠牲を伴う儀式、高額献金、テロ活動の参加、どれも非常時にトンデモナイ目に遭います。
でも、平時は、居心地が良いから、守りたくなる。
い続けたくなる。
外が怖くなる。
外と触れ合わないで長くいたから。
最後に
全部の古いものが悪いわけじゃないですし、全部の共同体が危険なわけでもないです。
人は、所属がないと生きにくいし、大変です。
そして、続いてきたものにはちゃんと理由があります。
でも、一見一般的な物でさえ、問い直せないものは、実は危ない。
学校のブラック校則とか、昭和、平成には多く見られ、みんなが辛い思いをしました。
(令和にも残っているブラック校則、あるかな?)
集団を出ていけないもの、疑問を持てないもの、比較させないもの、問題があるのに変えられないもの、個々でも危ないが、組み合わさると本当に危ない。
「続くこと」そのものが目的になった時、伝統は簡単に歪んだ支配に変わります。
だから大事なのは、残すことじゃない。
既存のルールを守る事でもない。
状況や環境に合わせ、選び続けられることです。
今は、ここにいる。
でも、やめようと思えばやめられる。
その自由がある。
たぶんそれが、伝統と因習を分ける境界の一つでしょう。



