人間は、世界をそのまま見ているわけではない。
目の前で起きた出来事を整理し、「なぜ起きたのか」「何が原因だったのか」「次に何が起きるのか」という形に、意識・無意識問わず変換しています。
その時に使われる重要な技術が、因果関係を作る力です。
これは、因果関係を見極める力ではなく、因果関係の仮説を立てる力と言った方が正確かもしれません。
出来事Aがあり、出来事Bが起きた時、「Aが原因でBが起きた」という関係を作れる要素を見つけたり、仮説として組み立てたりする。
これが、人間の思考の大きな特徴です。
そして、この能力の成果物が「物語」と言えます。
目次
物語とは、因果関係を設計する技術である
現実の出来事は、必ずしも綺麗な因果関係を持っていません。
複数の要素・原因が絡み合い、偶然が多分に混ざり、誰にも制御できない要素が常に存在します。
結果的に因果関係の式が成り立つから結果が発生するのであって、原因が本当に結果の原因かは、多くの場合は分かりません。
例えば、親が薦めたから子供が本を読んだ場合、親は薦めた事と子供が読書した事が因果関係にあると感じますが、現実では意外と、全く別に、ショート動画で紹介されていたり、友人と話を合わせる為だったり、薦められた事には「ダルイ」と感じていたが無関係のタイミングで本を見たら面白そうに感じた、なんて事もあるわけです。
現実では、そんな事がそこかしこで起き、それがある種の現実感でさえあります。
しかし物語では、作者が因果関係を設計できて、また、設計する必要があります。
- 主人公が失敗した。
- なぜ失敗したのか。
- 過去の傷があったから。
- 間違った価値観を信じていたから。
- 準備不足だったから。
- 誰かの裏切りがあったから。
- そうして、その原因を乗り越えることで成長する。
みたいな、こんな構造によって、物語には一貫性や意味が生まれます。
現実では偶然起きた事故でも、フィクションでは「主人公が変化するために必要な試練」として最適な形で配置できて、そうした方が面白くもなります。
これは、悪いことではありませんし、むしろ良い事です。
物語において因果関係を作らないことは、とても大きな問題になります。
何の理由もなく事件が起き、何の理由もなく解決する。
そこには読者が納得できる流れがありません。
もし、あえてそう言う風にするなら、それが面白さや衝撃に繋がる仕掛けを物語に持たせ、繋がっていない因果が繋がっている様に見えると言う設計をする必要が逆に出てきます。
だから創作では、因果関係の生成能力が、とても強く求められます。
しかし現実では、同じ能力が危険になる
問題は、人間が物語を作る能力を、現実にもそのまま適用してしまうことです。
現実では、「起きたこと」に対し「原因が分かりやすく存在すること」は、稀です。
例えば、雨の日に事故が増えた。
これは、「雨によって路面が滑り、視界が悪化し、事故リスクが高まった」という因果関係が推測出来ます。
では、黒い猫を見た直後に事故が起きたら?
黒い猫と事故の二つには、因果関係があるとは限りませんよね?
むしろ、不吉と迷信によって感じるだけで、無関係でしょう。
しかし、人間の脳は、二つの出来事が近い時間に起きると、そこに意味を作ろうとします。
- 「何か理由があるはずだ」
- 「誰かが仕組んだのではないか」
- 「これは何かのサインではないか」
- 「間違いなく呪いだ」
- 「もしや、迷信にビビって操作を誤った可能性は?」
等と考えます。
これは人間が生き残るために必要だった能力でもあります。
危険な音を聞いた時、「偶然だろう」とか「関係無い」と考えるより、「何か危険があるかもしれない」と考えた方が生存には有利だからです。
もし本当に危険だった場合に、生き残るのは普段から関連付けて反応してしまう個体です。
無関係でビビってダサいとか恥ずかしいなんて事は、生存戦略上はどうでもいいわけです。
しかし、この能力が過剰に働くと、存在しない因果関係まで作り出します。
物語は、真実ではなくても、繋がれば納得できてしまう
物語の強さに必要な要素は、情報を整理することです。
複雑な出来事を、
- 「悪い人がいた」
- 「誰かの計画があった」
- 「隠された真実がある」
という形にすると、人間は理解しやすくなります。
しかし、理解しやすい事と、それが正しい事は、必ずしも同じではありません。
実際の世界では、
- 複数の要因が重なった結果
- 偶然が連続した結果
- 誰にも意図されていない結果
が大量に発生しています。
それでも人間は、フィクションのみならず、そこに主人公や敵役を配置し、目的や意志を与えたくなります。
なぜなら、物語になった世界の方が理解しやすく、情報の一塊として扱いやすいからです。
- 原因が分かれば対策できます。
- 敵が分かれば戦えます。
- 悪者が分かれば責任を追及できます。
だからこそ、物語は強力であり、良く働けば武器となり、悪く働くと大変危険でもあります。
良いフィクションと悪い現実認識の違い
フィクションでは、「作者が因果関係を作る」ことが許され、そこに腕が必要で、推奨されています。
なぜなら、目的が「現実の再現」ではなく、「意味」や「感情」と言う形が無い物を分かりやすく伝えることだからです。
例えば、「主人公が努力したから成功した」という構造は、多くの物語で使われます。
しかし現実では、努力した人が必ず成功するわけではありませんし、努力をしたのに報われなかった人の方が数は多く、むしろ確率的には強いとさえ言えます。
環境、運、時代、才能、人間関係など、多くの変数があり、総合的に一定以上の成果を出せた人のみが世間で言う成功者になれて、その人が「努力があったから成功した」と言うわけです。
努力無くして、そこに辿り着く事は出来ませんが、努力をすれば良いと言うわけでもない。
物語は、それを分かりやすく、一番伝えたい事を最優先に伝える事に特化し、変数にさえ数えられなかったが、確かに必要だった何かに言及する事は難しく、物語的な因果関係を現実にそのまま持ち込むと、
- 「失敗したのは努力が足りないからだ」
- 「成功者は必ず正しい努力をしたから成功した」
という単純化につながることがあります。
もちろん繰り返しになりますが、努力は絶対的に重要です。
しかし、物語のように一つの原因だけで結果が決まるわけではありませんし、変数を認知出来ているとも限りません。
必要なのは、物語を捨てることではない
人間は、物語なしでは上手に生きられません。
物語を廃して残るのは、繋がりが無い物も含んだ「未整理の事実」と「運絡みの大量な何か」で、それらに溺れる事になります。
未来の計画も、自分の人生観も、社会への理解も、すべて何らかの物語によって整理されています。
なので、この話の問題は、人が物語を使うことでは、当然ありません。
問題は、
- 「これは現実の因果関係なのか」
- 「それとも理解するために作った仮説なのか」
を区別できなくなることです。
創作では、積極的に因果関係を作ればいい。
現実では、作った因果関係を検証すればいい。
この切り替えができる人ほど、現実も物語も適切に観測出来て、引いては物語の力を最大限に活用もできます。
- 物語を信じる力。
- 物語を疑う力。
この二つを両方持つことが、人間の持つ強力な想像力を正しく扱う方法なわけです。
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