コラム

ASD・ADHD・精神疾患をめぐる「制御コスト」と現代の歪み。それらをめぐる「甘え論」への考察。

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人間関係において、「甘え」という言葉は身近なものです。

相手との信頼関係を深める「良い甘え」もあれば、一方的な負担を強いる「悪い甘え」もある。

この構図自体は、昔から変わらない人間関係の基本単位です。

しかし、現代のSNSや職場、福祉の現場を見渡すと、この「甘え」をめぐる議論が完全に迷走しているように感じられませんか?

  • 「それってただの甘えでは?」
  • 「いや、当事者にとっては脳の特性(制御困難性)なのだから配慮すべきだ」

こうした衝突の背後には、

  • 「発達障害や精神疾患」
  • 「カジュアルな自称・ファッション」
  • 「不可視の制御コスト」
  • 「診断の絶対性」

という、現代特有の複雑なレイヤーが絡み合っています。

今回は、この「現代の甘え」がなぜこれほどまでにこじれてしまうのか、その構造を整理して考察します。

そもそも「甘え」の基本構造はどうなっているのか?

まず大前提として、「甘え」の善悪は本来、「甘える側」と「甘えられる側」の納得度(合意形成)によって決まります。

  • 良い甘え(相互納得):甘える側が自覚を持ち、甘えられる側も自発的に受け入れている状態。信頼が深まる。
  • 中間(片方向の不均衡):どちらか一方が我慢している状態。不満や共依存の温床になる。
  • 悪い甘え(双方非納得):一方が搾取され、もう一方が過剰に要求する。関係の破綻を招く。

……ここまでは、お互いが自分の行動をある程度コントロールできる世界の話です。

しかし、ここに「自分の意志ではコントロールが極めて難しい領域(ASD、ADHD、精神疾患、身体障害など)」が持ち込まれた途端、このシンプルなマトリクスは崩壊します。

現代をカオスにしている「4つの層」

制御困難性を抱える人たちの問題がなぜこれほど炎上しやすく、分かりにくくなっているのか。

それは、現在ひとまとめに「生きづらさ・特性」として語られている現象の中に、全く性質の異なるレイヤーが混在しているからです。

  1. 医学的・実質的な高コスト層
    • 脳の機能や疾患により、日常的に莫大なエネルギー(制御コスト)を払い、限界を迎えている人たち。
  2. 未診断・境界域の隠れ高コスト層
    • 診断基準には満たない、あるいは受診していないが、脳や心の特徴によって人知れず常時すり減っている人たち。
  3. カジュアルな自称・ファッション層
    • トレンドや自己正当化の手段として、軽い生きづらさを「自分もASD/ADHD的だから」と軽くラベル貼りして消費する人たち。
  4. 免罪符化による開き直り層
    • 特性を盾に、「自分は障害だから何をしても許される」と、他者への配慮や迷惑行為を悪びれもなく正当化する人たち。
  5. 定型発達特性が強い・健常者的な低コスト層
    • 自身が低コストで無自覚に出来る事を出来ない人への本質的理解が難しい上に、結果的に上記レイヤー層に甘えられる人たち。

この上4つが同じ土俵で「生きづらさ」として語られてしまうところに、現代のすべての歪みの原因があります。

そして、それらの溢れたコストは②と⑤で引き受けなければ社会が回らない構造も歪みを大きくしています。

「見えないコスト」と「診断」という名の諸刃の剣

さらに事態を複雑にしているのが、「脳内の制御コストは、他人からは一切見えない(不可視である)」という現実と、社会が頼る「診断書の有無」のギャップです。

身体障害であれば車椅子や白杖といった物理的な目印がありますが、発達障害や精神疾患の「実行機能の麻痺や不全」や「感覚過敏による疲弊」は、パッと見ではフラットに(何なら健康そうに)見えてしまいます。

その結果、社会はトラブルを防ぐために「診断書があるかないか」で機械的に線引きをしようとします。

しかし、これが二重の不条理を生みます。

  • 不条理①:実際には毎日膨大なコストを払って苦しんでいる「未診断・境界域の層」が、「診断書がないから甘えだ」と切り捨てられる。
  • 不条理②:診断(あるいはその拡大解釈)をパスポートにして、「免罪符化層」が不当なフリーライド(タダ乗り)を果たす事が出来てしまう。

こうしたフリーライダーの存在によって、周囲(支援する側)には「また都合よく障害を言い訳にしているのでは?」というオオカミ少年効果(強い不信感)が蓄積されます。

結果として、本当に救済を必要としている人たちの訴えまでが疑われ、社会全体の包摂ムードが冷え込んでいくのです。

私たちはこの問題をどう処理すべきなのか?

では、この泥沼化した「現代の甘え」の構造を、どう捉え直せばいいのでしょうか。

結論として必要なのは、主観的な道徳論(「あれは甘えだ」「いや障害だ」という水掛け論)を一度停止することです。

  1. 「ラベル(診断名)」ではなく「コストと実害」で見る
    • 診断がついていようがまいが、本人がどれほどの制御コストを背負っているのか、そして周囲にどれだけの負担や実害を与えているのか。この2つを冷静に切り分けてケースバイケースで評価するシステムが必要です。
  2. 免罪符の排除と、インフラとしての支援
    • いかなる特性や診断名があろうとも、他者への一方的な搾取や迷惑行為(悪い甘え・フリーライド)は許されないという境界線(ルール)を厳格に引く。
    • 同時に、本当にコストを払って苦しんでいる人に対しては、属人的な「我慢や善意の押し付け」ではなく、客観的な合理的配慮という優しさ・インフラを提供する。

「甘えを許すな」と精神論で締め付けることも、すべての我が儘を「障害だから仕方ない」と免罪することも、どちらも組織と個人を崩壊させます。

いま私たちに必要なのは、道徳の審判を下すことではなく、「見えない制御コストをどう科学的・システム的に引き受け、フェアな社会の土台を設計し直すか」という、極めて現実的なインフラの再構築なのだと言えます。

問題は、悪い甘えやフリーライドを完全に無くす事は出来ないし、客観的合理的配慮と言うインフラの提供による不可抗力的甘えの許容もまた、一定の社会性が甘える側に無ければ機能し切らず、いわゆる「助けたい姿をしていない弱者」状態の人に対する提供には限界があると言う事です。

甘える側は甘える側としての作法を身に着け、甘えられる側は甘えられる側としての作法を身に着ける事が円滑に進めるためには必要と言えますが、暗黙の作法のままでは甘える側は察する事が出来ないわけで、どこまでも難しい問題です。

今回の考察について、皆さんはどのようにお感じになりますか?

身の回りの人間関係や職場で、似たような「構造の歪み」を感じたことはありませんか?

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