ここ最近のXを見ていると、ASD界隈では「ASD(自閉スペクトラム症)の人は感謝や謝罪ができない」というトピックが盛り上がっていました。
この議論、見ていると「マナーがなっていない」「定型側の押し付けだ」「いや、思いやりがないのはどっちだ」と、さまざまな論点が入り乱れてカオス状態になっています。
どちらの言い分も、その状況では十分に分かる。
今回は、このSNS論争の背景にある「お互いの見えている景色の違い」と「構造的な非対称性」について、少し冷静に分析してみたいと思います。
議論がいりくむ複数のレイヤー
このテーマがここまで炎上しやすいのは、実はいくつかの異なる問題がごちゃ混ぜになっているからです。
- 感謝のスイッチの入れ方論: 「ありがとう」は反射的なルーティンとして出すべきか、内面の感情が動いたときだけにすべきか? 何に対しての感謝か、行動か気持ちか?
- 事実重視 vs 社交辞令論: コミュニケーションの目的を「事実の共有」に置くか、「関係性の維持」に置くか?
- ギブアンドテイクの基本論: 「親切にしたんだからお返しがあって当然」「必要な物を与えた筈なのに返ってこない」「求めてないのに与えて取り立てるの?」というルールの不一致。
- 認知・情報処理の違い論: 共感や文脈の読み取りにおける脳の仕様のギャップ。
これらが整理されないまま「どっちが善でどっちが悪か」という話にすり替わってしまうため、議論が噛み合わなくなっています。
なぜ定型側は「感謝がない=悪」と感じてしまうのか?
定型発達者の側からすると、親切をスルーされたり、淡々とした事実だけを返されたりすると、「冷遇された」「軽んじられた」「無礼だ」という生々しいショックや不条理感を覚えます。
ここには、定型側特有の心理メカニズムがあります。
- 「知っている=直せるはず」という思い込み: 定型側は日頃、無意識の努力や無努力状態で社会的ルール(お礼や愛想笑い)をこなしているため、「特性だと分かっているなら、意志や努力で同じように動けるはずだ」と考えてしまいます。そのため、変わらない態度を「努力不足(=自分への悪意)」と捉えてしまうのです。特性と分かっていても、ソーシャルスキルでマニュアル操作出来るし、すべきで、そのコストはASD側が払うべきと思い込んでいます。
- 善意の暴走(ありがた迷惑の構造): 相手の状況だけでなく、好みや興味、重み付けを無視して、「これをすれば喜ぶはずだ」「当然正しい事で、感謝されるべき」という定型的自然なマニュアルで動き、拒まれる、軽く流されると被害者化する。
この辺に大きなすれ違いのポイントがあります。
構造的な非対称性と「見えない加害性」
この問題の最も根深いところは、「常に定型側が正しく、非定型側が悪い」ように見えてしまう非対称性にあります。
- ルールの押し付けと説明の放棄: 定型側の「察して文化」や「反射的なお礼」は、あくまでマジョリティのローカルルールにすぎません。しかし、それが「社会の常識」として実態があり、それによって特権化され、その前提や意図を言語化しないまま「空気を読めない方が悪い」とASD側に全責任が押し付けられます。それは、ある意味で正しいですが、ASD側からすると理不尽でしかありません。
- トリガーの重さのギャップ: ASD側にも感謝や敬意の気持ちは当然あります。しかし、情報処理におけるエネルギーコストの高さや合理性の追求から、感謝が発動する条件(トリガー)のハードルが定型発達者に比べて非常に重いのです。この「出力形式の違い」を無視して「形がない=心もない(=悪だ)」と断じるのは、あまりにフェアではありません。
非定型側から見れば、定型側が求めている感謝必須のコミュニケーションは、常に「頼んでもいない興味のないお菓子を何度も買ってこられては、感謝と代金の請求をセットで突きつけられている状態」に近く、それを善意のオブラートで包んだ状態で耐えさせられているようなものであり、そこに気づかないまま「感謝しろ」と、無条件に迫る方がよっぽど暴力的であると言えます。
脳の構造が違う事で、極端な例ですが、ここまで感じ方が違うのです。
そして、定型発達者が「ASDが感謝出来ない」論を正当として出す例は、分かりやすくASD側に落ち度が大きく見える例ばかりとなり、その陰に隠れている定型発達者が善意の押し付けをしたのにASDが感謝出来なかった話は埋もれている非対称性もあります。
主張を通す為には当然の選択ですが、これはASD側からすると切り取られた都合が良い証拠だけで話をされる様な気持ち悪さがあります。
喧嘩で先に罵ったのも手が出たのも定型発達者側なのに、ASD側のパンチで定型発達者側から鼻血が出た事だけを議題にされる様な物です。
対称性を持たせるなら、定型発達者から感謝をカツアゲされたASD側に利がある例も語られないとフェアとは言えません。
で、どうすれば良いのか?
「ASDは感謝ができない」という言説は、正しい部分があるかもしれません。
しかし正当性は、この様に客観的、冷静に見れば、どこにもありません。
具体的な実例があっても、客観的に見ていくと正当性と言う点では崩せる言説です。
ですが、これは論理的な感じ方であり、ASD側の見え方で、定型発達者側からすれば、マジョリティに適応出来ていないマイノリティが感情的に見て悪い事に変わりはありません。
本当に大事な、問題の本質は、どちらかの道徳性が欠けていることではなく、「マジョリティが自分たちのコミュニケーションルール(支配力を持ったローカルルール)を普遍的な正しさとし、そのメタメッセージの説明責任を放棄していること」が前提にあります。
あんなに説明したし伝えたし話し合ったのに、と思う人は大勢いるでしょう。
それも、また事実でしょう。
伝えようとしたのに伝わらなかった事は、別に悪い事ではないです。
ただ、上手く行っていないだけです。
ASD側は、定型発達者側からすれば自然に身につくルールが、野暮で面倒で具体的な情報共有でしか、なかなか理解出来ない所があり、だからこそASD特性持ちなのです。
定型発達者の視点からすると、マジで面倒で不快でしょう。
ですが、少し想像してください。
ルールが分からないし興味も無いボードゲームをやらないとならない、とします。
ボードゲームが分かりづらいなら、スポーツでも良いです。
あなたは、それに興味も無いしルールの検討もついてませんが、参加は不可避です。
そこで言われます。
「たくさんやれば、いずれ慣れるから」
ルールの説明無しで、始まるゲーム。
ゲームは延々と続けられ、終わりも見えません。
そして、正直、あなたは楽しくないと感じています。
さらに結構な頻度で、ルールが分からない事を利用して他プレイヤーから
「はい失敗」
「はいルール違反」
と言われ続けて、ゲーム上の負債を抱え不利になります。
さらに、ゲームに負けたら罰ゲームがある事を、そのタイミングで知らされます。
これが、「感謝(と言うルールを理解出来るまで説明されていない事で)出来ない」ASD側の生きている世界です。
そのままゲームを続けたいですか?
続けたいと思う人がいると、思えるでしょうか?
せめて、ルールが分かるまでは、野暮でも面倒でも、十分な説明は欲しいと思いませんか?
ASD特性とは、定型になら簡単で当たり前のルールに、これが思いもよらない形で発生する特性です。
当然、ASDだからとASD側がルールの理解を拒んだり放棄すれば、排斥されたり、甘えだと言われる事も、定型発達者側がそう感じる気持ちも、自然です。
まず、お互いが「相手は悪意を持っている」という色眼鏡を外し、これを「異なる言語・文化を持つ異文化間コミュニケーションの摩擦」であり、分かっているつもりになっている時でさえ、まだまだ分かっていない事がお互いに多い事、として捉え直さない限り、この不毛な分断はいつまでも続いていくのではないでしょうか。
盤面が定型発達者側のゲームルールで、プレイ必須なのですから、ルールを知らないASD側にルールを分かるまで伝える事は、それがどんなに不毛で馬鹿げて見えて、無駄が多くとも、必須と言えます。
ASD側はルールを理解して人生をプレイする努力が最低限必要になるし、定型発達者側はASD側に「わかって」「悟って」「察して」と言っても大半が無駄な話であり、ルール覚えが悪いプレイヤーとして扱い、ルールをちゃんと伝えた方が摩擦は圧倒的に減ると言う話です。
仮に「こんなに伝えているのに分かってくれない」と言う場合は、定型発達者側の伝え方が悪いか、ASD側が覚える気が無いか、と言う事になります。
やっぱりASD側が悪いと感じた人はいるかもしれません。
ですが、ASDの「覚える気が無い」は、特性のせいが大半であり、これはより正確に言うと「気持ちはあっても、覚えたくても覚えられない」とか「頑張っているのに、頭に情報が残らない」と言う状態に近い場合が多いです。
無気力とか悪意ではなく、覚える気のスイッチを入れないと、そもそも覚えられないのです。
この時、ASD側の特性を無視して伝えても、それは、難しいと言わざるを得ないでしょう。
定型発達者側的な感じ方としては、「ビックリするぐらい興味の無い他国の政治や古典文学の内容を前置きなく大量に話されている」様な物。
ASD側は、そんな風に感じて脳が処理をする事で、ルールと言う簡単な事でさえ、なかなか定着しません。
ASD側も定型発達者側も、両者が姿勢を整えて伝え、受け取りを出来ない限りは、コミュニケーションは伝わっている様でいて、上滑りしたり、右から左へと流されてしまいます。
なので必要となるのは、両者がモチベーションと粘り強さです。
両者にそれらが無ければ、こんな簡単なルール共有さえ、簡単には出来ないわけです。
ASD特性は、ASDへの理解が少ない、あるいは実は無い様な定型発達者側からすれば、宇宙人とか、言葉は通じないし文化も価値観も違う外国人ぐらい、違います。
家族や隣人が、実はそれぐらい仕組みが違う事に怖さや気味の悪さを感じるかもしれませんが、そういう物で、それが現実で、この世界です。
それを乗り超えてコミュニケーションする必要が”そもそも”あり、それを長らく「定型発達者と発達障害者」として分けて、発達障害者側が定型発達者側のルールに合わせるのが当たり前の世の中として運用してきただけの話です。
「ASDは感謝が出来ない」か?
ASD特性があっても感謝の気持ちは当然ありますが、トリガーが極めて重く、本当に必要な時にだけマニュアル操作で押す意思を持ってトリガーを押されるのがデフォルトに近いです。
ルールの共有が不十分なら、定型発達者が欲しい形式での、形式的に十分な感謝は出来ないでしょう。
一方で、ASD特性が強い人が自然にする感謝は、社交辞令ではなく本物の感謝と言う良い側面を見る事も、見方によっては出来ます。
このトリガーの重さは、友達はどこからか論等にも通じる部分があるでしょう。
ASDの人は、感謝が出来ないのではなく、感謝の使い所が、極端に事実的かつ法則的で違うだけなのです。
違う法則をインストールすれば、感謝ぐらいは簡単に擬態出来るのが、大半のASD持ちです。
今回の話題で困っている人が出来ていないのは、定型発達者が違和感を感じ辛い感謝の法則性のインストール、それだけです。
ちょっと面倒でも挨拶と感謝は言い得とか、相手の行動の結果でなく心遣いが嬉しいならとりあえず感謝とか、ASD側が理解出来るし納得出来る法則をインストールするだけで、感謝出来ない問題は劇的に改善します。
ASD特性持ちの見ている視点を変えてやるのです。
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