世の中には、明確な実害や違法性はないものの、周囲に強い不快感や精神的負荷を与え続ける存在がいます。
「罪無き害悪」とでも呼べばいいでしょうか。
社会通念の境界線をギリギリで撫で続けるような存在です。
犯罪ではない以上、法や制度で取り締まることはできません。
しかし、それらと隣り合わなければならない環境では、周囲の人間が一方的にストレスや疲弊を強いられることになります。
この理不尽な構造と、社会や個人が取るべき選択肢について、今回は考察します。
なぜ「法」は罪無き害悪を取り締まれないのか
法や制度は、基本的に「客観的に証明できる実害(損害)」や「明確な法律違反」がなければ介入できません。
- 処罰不可能性の壁: 精神的な苦痛や不快感は主観的であり、法律の構成要件(違法性の証明)に当てはめることが極めて困難です。
- セーフティネットの限界: 福祉や医療の枠組みでも、明白な自傷・他害の危険性がない限り、強制的な隔離や介入は人権擁護の観点から認められません。
結果として、法律の網の目からこぼれ落ちたグレーゾーンは「誰も処罰できない空間」として放置され、そのコストやストレスはすべて、隣り合う個々のマジョリティ(周囲の人間)に外部不経済として押し付けられることになります。
社会は「不快」をどう処理しようとするか
違法ではないが有害(と誰かに考えられる可能性がある)な存在に対し、社会は自然発生的にいくつかの防衛反応を試みます。
- 排除とゾーニング: 個人のレベルでは「徹底的な無視・物理的隔離」、デジタル空間ではアルゴリズムによるシャドウバンや可視化の抑制。
- 私的制裁の暴発: 公的な機関が機能しない場合、不特定多数によるネットでの特定や炎上など、過激なリンチやモラルハザードが発生する危険性。
- 金融・プラットフォーム検閲: 近年話題になった決済代行会社によるクリエイター支援サイトの規制のように、マネーフローを握る民間企業がリスク管理の名のもとに表現やグレーゾーンを強制的に刈り取る動き。
しかし、これらは力づくの解決や別の歪み(萎縮効果や私刑の横行)を産むため、根本的な解決には至りません。
表現の自由と人権が導き出す結論
では、個人の権利や表現の自由を最大限に尊重する立場に立った場合、この問題の着地点はどこにあるのでしょうか。
結論から言えば、「基本的には我慢(受忍)と住み分け(ゾーニング・回避)の二択以外に、ほとんどない」ということになります。
何が「不快」であるかは人や文化によって異なり、時代によっても変わります。
「不快だから排除してよい」としてしまうと、権力者や多数派が気に入らない意見やマイノリティの表現を弾圧するための「検閲の道具」に成り下がってしまいます。
社会から不快や不条理を完全に消し去ることは不可能です。
表現の自由や人権の原則を守るということは、「不快な存在を力づくで根絶やしにする誘惑を断ち、誰もが不当に権利を奪われないための『住み分け』と『受忍』を受け入れること」に他なりません。
つまり、不快な存在その物や行動・選択よりも、それが住み分けられていたり、自然的な隔離が成されている状況に対して、あえて住み分けの壁を壊したり注目を集め、周囲に対して受忍の試し行動や不快によるリンチの自然発生を誘発する事の方が、問題がある行動と言う事です。
よくネットで、ゾーニング済みの隔離コンテンツを表に引っ張り出して問題提起する様な活動家は、まさにどんな不快表現をする人よりも遥かに害悪と言う事になります。
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